ヤドカリ

 6

 葵は「宿賃代わり」だと言った。
 信じられない。長い時間をかけて少しずつ思いを募らせてきた彼女が、そんなに簡単に体をゆだねられる人間だったなんて。私が恋人と別れたのだって彼女の存在ががあったからなのに。

 それなのに自分の行動も同じく軽く受け止められているのかと思うと、涙が出た。確かに酔った勢いで誘惑した私も私だけど。それにしたって。
 葵が出て行った玄関を睨みつけても、葵が使ったタオルを叩きつけても、苛立ちは収まらなかった。

 こんなことなら、何もなかった方がずっとよかった。
 もう葵の顔なんて見たくもない。と思えないのが悔しい。

 だからその日のことは「酒の上の過ち」ということにして、何もなかったことにして。普通のバイト仲間としてやっていこう、そう決めた。

 実際、バイトの時間がかぶったときは今までどおりに話せたし、お互いの態度だって何も変わらなかった。仕事だって忙しくてそれどころじゃないというのもあった。私の望んだような以前と変わらない関係には簡単に戻れそうだった。

 表面上は。

 実際はというと。ちょっとした接触で葵の肌の温かさを思い出す。家で一人で寝ているときも葵から与えられた快感を思い出す。あげくに葵を想いながら体を熱くする。

 そんな状態だったくせに、週末に家で呑むのはいつものことだからと自分に変な言い訳をしながら葵を家に誘った。葵は何食わぬ顔で同意した。

「葵、今日泊まってくの?」

 そう尋ねたのは、とうに電車のなくなった時刻のこと。帰る手段がなくなるまで何も言わない確信犯だ。
 実際、葵は時間に気付いていなかったらしく、時計を見て、しまったという顔をしていた。

 それにいつもなら泊まる準備をしてくる葵が、それをしていなかった。ということは、本当に泊まるつもりはなかったということなのか。だけど。

──宿賃。

 あの日戯れに交わした言葉が頭に浮かぶ。
 顔を洗い終わった葵は、ピンを外して前髪を下ろす。テレビを見ながら、ビールを飲む。アルコールを帯びて赤みが差した葵の首筋。

「何?」

 横目でこっそり見ていたのに、気付かれた。

「ちょっと飲みすぎじゃない?」

 苦しい誤魔化し。しっかり向き直ると、ずっとピンで留められていた前髪が少しいびつな格好をしているのが気になった。

「そう?」

 葵はまたテレビを見ながら、ビールをあおる。私のことなど何も気に留めていないみたいに。だから私は葵の前髪に手を伸ばす。

「癖ついてるよ」
「え、ああ。別にいいのに。どうせもう寝るだけだし」

 私が直しかけた前髪を葵はぐしゃぐしゃとかき回してしまった。そうすると無造作に散らばったはずの前髪は、まるで全て計算されて配置されたみたいに葵の顔をところどころ覆った。その隙間から覗く彼女の目は私ではなくテレビに注がれたままだ。

──宿賃。

 それを理由にしたら、葵はまたあの日のように肌を合わせてくれるだろうか。

「今日、泊まっていくんならさ」
「ん?」

 前髪の隙間から、葵の目がこちらに向く。期待と緊張の味のする唾を飲む。

「また、宿賃、貰おうかな」

 一瞬の間。私は今、うまく笑えているだろうか。
 「なんてね」と誤魔化そうとしたそのとき。

「いいよ」

 葵はまるでなんでもないことのように、ビール片手に承諾したのだった。


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