郷愁

 11

 先生が花火を両手に抱えてやって来たのは、夏休み最後の日だった。

「だいぶお待たせしてしまいましたが、花火をしますよ」

 玄関に呼ばれて私が顔を出すと、先生はにかっと笑ってそう言った。その笑顔はとても懐かしい気がした。私はその約束が果たされることはないとどこかで思っていたから、少し驚いて、凄く嬉しかった。
 母が水を汲んでくれたバケツを持って外に出ると、少し涼しくなった空気が心地良い。先生はろうそくに火を点けて、花火の準備に取り掛かっていた。

「二人だけになっちゃってごめんね」

 ろうそくの火に照らし出された先生の顔が苦く笑った。

「別にいいよ」

 私は先生の前にすとんとしゃがみこんで、花火を袋から出すのを手伝った。先生が持ってきた花火はたくさんあって、全部出すのは骨が折れた。

「さあ、やりますか!」

 先生の掛け声を皮切りに、たくさんの花火に二人で次々に火を点けていった。普通に持っていたのは初めだけで、先生は二本の花火に同時に火を点けて振り回すという方法を取り始めた。

「優ちゃん! 見て見てー!」
「先生、それ危ないんだよ」

 けれどその軌道がぼんやりと残る様が面白くて、私もそれを真似て暗闇に模様を描いてみる。普段したら確実に母に怒られるようなことを二人でした。

 赤。青。黄。緑。

 彩り鮮やかな火花を眺めては二人で笑う。

「ろうそくで点けるのめんどい。優ちゃんのもらいっ!」
「あ、終わった」
「早いよー。もうちょっと頑張ろうよー」
「私に言わないでよー」

 そうしているうちに、あんなにたくさんあった花火はあっという間になくなってしまった。そして残った線香花火。

 二人で並んでしゃがみこみ、じじじ、と細かく震える赤い玉を見つめる。

「どっちが長くもつか競争ね」
「おっ。負けませんよ」

 私の持ちかけた勝負に先生は楽しそうに応じた。赤く膨れていった玉からは、ぱっ、ぱっ、と火花が咲き始める。それが最高潮に達しようかという頃に、

「あ」

 ぽとりと玉が落ちた。隣の先生が持つ花火はまだ健在。小さな火花を散らしていた。

「やったねー。私の勝ちー」

 そう誇らしげに言ったそばから先生の線香花火の玉も落ちた。

「ありゃ、落ちちゃった。よし、次行こう! 次!」

 そんな風に何本かの勝負が繰り広げられ、勝っても負けても先生は笑った。そしてついに最後の一本ずつになった。
 その最後の線香花火に火を点けると、先生はぽつりぽつりと話しかけてきた。

「優ちゃん、明日っから学校だっけ?」
「うん」
「夏休みは楽しかったかい?」

 線香花火がぱっ、ぱっ、と火花を出す。

「うん」

 今までで一番、と口には出さずに言った。

「そっか。それは良かった。私も楽しかったなあ」

 火花はばしばしと音を立てて二人を照らす。
 先生は急に黙り込んでしまって、どうしたのかとその表情を窺おうとした。けれどその瞬間、同時に二人の花火は落ちてしまって、よく見えなくなってしまった。

「あら。落ちちゃった。最後は引き分けかぁ」

 家の明かりを背にした先生の影はとても濃くて、その表情はわからないのに、その声は笑っているのに、私は何故だか、先生が泣いているような気がした。

「さっ。片付けますか」

 すっくと立ち上がり、ごみとバケツの水の始末を始めた先生。その顔が再び家の明かりに照らし出されたとき、しかしそこに涙の跡はなかった。私はホッとしたような、残念なような、よくわからない感情に戸惑いながら、片付けを手伝った。

「優ちゃん、ありがとね」

 片付けが終わる頃に先生が呟いた。私にはお礼を言われる心当たりが全くなかった。

「何のお礼かわからないよ」
「うん。そうだね」

 そして先生は笑った。


 最後に先生の家に行ったのは学校が始まって少ししてからだった。
 先生に借りたままだった本を返しに行ったのだ。

 夏休みが終わってからはなんの約束もしなかったから、行っても不在ということばかりだった。週に一度、先生が来る日に返すということは頭になく、繰り返し足を運び、何度目かでようやく先生の在宅に当たった。

「あれ、優ちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは」

 私がドアの内側に身を滑り込ませるのを確認すると、先生は中に戻り冷蔵庫から麦茶を出し始めた。
 がちゃりと静かにドアを閉めて上がる。台所は散らかった様子はなく以前のようにきちんと整理されていた。グラスと麦茶をがちゃがちゃと座卓まで持って行く先生の後ろについて部屋の中に入る。山盛りの吸殻も、新聞もなくなっていた。ラジカセは何の音も流さず、ひっそりと息を潜めている。代わりに部屋の片隅に以前はなかったテレビが置かれていた。

 記憶を頼りに借りた本を元あったところに戻してから、座卓を挟んで先生と向かい合う。麦茶を一口。そんなに喉は渇いていなかった。

「学校始まってどう?」
「どうって?」
「私もよくわからない」
「何それ」

 あははと笑うと麦茶をまた一口。窓からぬるい風が入ってきてレースのカーテンを揺らした。

「最近少し涼しくなってきたよね」
「そう? まだ暑いよ」
「そうだけど、お盆頃に比べればって話」
「どうだったっけ。よくわからないよ」

 本当は気づいていた。日が暮れる時間がどんどん早くなってきているのも、熱かった風がぬるくなってきているのも、あんなにうるさかったアブラゼミの鳴き声が少しずつ減ってきているのも。

 先生は「わからない、か」と呟いて、テレビの電源を入れる。夕方のこの時間にやっている番組は大して面白くもない。次々とチャンネルは変わり、結局最初に映っていたところで止まった。

「テレビ買ったんだね。前にいらないって言ってたのに」
「ちょっとした心境の変化だよ」

 それから何を話すわけでもなくテレビを見て、たまにテレビの中のタレントに文句を言い合って、合間合間に時計を確認した。時計はなかなか進まなかった。

「そろそろ帰るね」
「あ、うん」

 まだ帰宅時間よりずっと早い時刻だったけれど、私は帰ることにした。先生はいつもの笑顔をたたえて玄関まで見送ってくれた。
 私が先生の本を借りることはなかった。

 先生はそれからも私の家に来て、姉の勉強をみて、一緒に食事をし、いつまでも食卓に居残っている私と話したりした。変わらず先生のことは好きだったけれど、私はもう、先生の家には行かなくなった。

 小百合さんが来なくなった先生の部屋は、テレビが増えたにもかかわらず変に広々としていて、なんとなく行く気が起こらなかったのだ。夏休みの間も先生と二人だけのことはいくらでもあったはずなのに。

 そして秋が来て、冬が来て、姉が志望校に合格して、先生は姉の家庭教師をやめて、春が来た頃から先生は家に来なくなった。
 そして大学卒業と同時にどこかへ越して行ったという先生とは、もうずっと会っていない。


inserted by FC2 system