郷愁

 10

 先生の家に久しぶりに行ったのは、花火の約束をしてからしばらくしてからだった。
 それというのも先生が帰省していたり、私も両親の田舎に行ったりしていたからで、私にとっては酷く長い数日だった。
 久しぶりに行った先生の家は以前よりも少し散らかっていた。台所にはビールの空き缶が何本か置きっぱなしになっていたし、新聞もタバコの吸殻も山になっていた。おまけにいつもは先生のお気に入りの曲を流すラジカセからは、雑音交じりのFMが流れていた。

「なんか暇だねえ」
「そうだねえ」

 今にも吸殻が崩れ落ちそうな灰皿にタバコを押し付ける先生が呟いて、寝転がって本を読んでいた私も同意した。ラジカセから聞こえるパーソナリティの声はやたらテンションが高く、そのとりとめのない話は右から左へと流れていくだけで、私たちの時間を埋めてはくれなかった。

「お菓子でも買いに行くかー」

 立ち上がった先生に続き、私も本を閉じる。外は少し雨がぱらついていたけれど、それでも部屋でごろごろしているよりは出かけたほうがましに思えた。乱れた髪を手で梳きながら、私は宿題を早く終わらせてしまったことを少し後悔した。

「あっついねえ」
「暑いね」

 じっとりと熱く湿った空気がまとわりついた。八月の雨は湿気が増すばかりで、暑さを鎮めるなんてことはしてくれなかった。
 しばらく歩いて、先生は差していた傘を閉じて雨に打たれ始めた。どうしたのかと見ていた私の視線に気づくとにかっと笑った。

「こうするとちょっと涼しいよ。優ちゃんにはお勧めしないけど」
「うん。しない」
「風邪ひくからね」

 閉じた傘を杖代わりに、先生は歩く。私はその横で傘をくるくる回して歩く。飛び散った水滴が先生に当たって、「冷たいな」と笑った先生は手を伸ばし、私の傘の先端を握って回らないようにしていた。

 いつもの恰幅の良いおばちゃんのいる店に入ると、二人でお菓子を選んだ。本当は駄菓子でもスナック菓子でもなく、小百合さんの作ったお菓子が食べたかった。もうしばらく小百合さんの作ったお菓子を食べていなかった。

「ねえ、先生。花火いつやるの?」

 帰り道、先生は少し強くなり始めた雨のせいで傘を差していた。

「ああ、うーん。いつにしようねえ」

 なんだか煮え切らない言い様。このままうやむやにして約束をなかったことにしたいのだろうかと、不安になった。じっと先生を見ていると先生はこちらを向いて笑った。

「小百合さん、忙しいみたいでさ」
「そうなんだ」

 その笑顔はいつか見た気がした。
 小百合さんが足早にアパートから出て行ったときのそれだと気付いたのは、先生が部屋でタバコに火を点けたときだった。それに気付いて、その日のよくわからない居心地の悪さに合点がいった。

 そのうちきっと小百合さんがやって来て、いつもみたいに先生をからかうんだ。
 そうしてまた、先生はいつもみたいにおどけてみんなを笑わせるんだ。
 だから私は気付かなかった顔をしていよう。
 そうしていれば、そのうちきっと、また元通りになるんだ。
 そう。そのうち。

 寝転んで本を読みながら、『そのうち』がなるべく早く来ることを私は願った。そしてそれまでは花火のことは口にしないと決めた。二人の笑顔と三人の時間が酷く待ち遠しかった。
 ラジカセの雑音にまぎれて気付かないうちに、雨はすっかり強くなっていた。これ以上酷くならないうちにと、その日は早めに帰ったのだった。

 その次の約束の日は台風が接近していたから、行けなかった。「今日は来ないほうがいい」と言った電話越しの先生の声が酷く遠く聞こえたのは、電話の調子が悪かったからなのか、天気のせいなのか。やっと聞こえるか細く乾いた声に、私はなるべくはっきりと大きな声で「また今度ね」と言ったのだった。

 そしてまたその次の約束の日。私と先生は二人で先生の実家のお土産であるお菓子をつまみながら本を読んでいた。そのお土産は誰かに渡すだろうと余分に買ってきたものだということだった。結局渡す相手もなく賞味期限が切れそうだから、ということで二人で食べることにしたのだ。部屋は相変わらず散らかり気味で、台所には洗っていない食器がいくつか置かれたまま。ラジカセから流れてくるのは相変わらず雑音交じりのFMだった。
 そしてその日も、どれだけ待っても、夕方になっても、小百合さんは現れなかった。

 本を読んでいると少し日がかげって来た気がして、時計を見ると帰る時間が迫っていた。

「先生、そろそろ帰るね」

 本を閉じて先生に声を掛けても返事がない。座卓の向こう側を覗き込むと、先生は本を手放して寝入っていた。

「先生、先生。私、帰るからね」

 肩をゆすって声をかけるとようやく先生は反応を示した。けれどむにゃむにゃと何事か呟いている先生はなかなか目を開けなかった。

「もう帰るね」

 そう最後に先生の耳元ではっきりとした声で言ってから立ち去ろうとした。するとワンピースが何かに引っかかるような感覚。見ると、先生が目をつぶったままで私のワンピースを握り締めていた。

「……かないでよ」
「先生?」

 先生は何か呟いていたけれど、ラジオで流れていた曲がちょうど終わり、パーソナリティがやかましく話し始めたせいでよく聞き取れなかった。薄く開いていく瞼から覗く瞳は未だ夢の中をさまよっている。
 固く握り締められた先生の手にそっと触れた。酷く汗ばんでいた。

「先生?」

 宙をさまよった後、徐々に焦点が定まっていった瞳はようやく私の姿を捉えた。

「あ、優ちゃん。ごめん、寝ぼけてた。今何時?」

 ワンピースからすっと離れていった手で目を押さえて、先生がくぐもった声で問うた。握り締められていたワンピースは、先生の手の熱と湿気で少ししわができていた。

「六時十分前くらい」
「もうそんな時間か」

 ごそごそと起き上がり、あくびを一つ。それから時計を見上げた。

「もう帰るね」
「うん」

 ぼんやりとした先生にもう一度声をかけたけれど、いつもは玄関まで見送ってくれる先生が、そのときは立ち上がることはなかった。寝起きだからだと気にせず玄関に向かい、サンダルを履く。重いドアを開けて再度振り返ると、先生の姿が見えた。点けたばかりのタバコを指に挟み、煙を吐いて。立てた膝を抱くように座って。頭を抱えるように髪をかき上げていた。部屋には無駄にテンションの高いパーソナリティの声が軽薄に響いていた。

 私はそのままドアを閉めた。

 そのうちきっと小百合さんがやって来て、いつもみたいに先生をからかうんだ。
 そうしてまた、先生はいつもみたいにおどけてみんなを笑わせるんだ。

 でも『そのうち』がもしかしたら来ないのかもしれないと、どこかでわかってもいた。けれど私にはやっぱり何も気付かなかったような顔をすることしかできなかった。

 階段のところから見える空はほんのり赤みがかっていて、私に夏休みの終わりが近づいていることを思い知らせた。


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