郷愁

 9

「へえ、花火かあ」

 そう呟いたのは新聞を読んでいた小百合さんだった。広告欄に花火大会の日程が載っていたらしい。

「あ、もうその時期か」

 読んでいた本から目を離した先生はカレンダーを見ている。私は自由工作で作る貯金箱のデザインを考えている最中だった。

「今度の土曜日だって。今年どうする?」
「行くに決まってるじゃん。いや、むしろ行かないでどうするの」

 読んでいた本をぱんっと閉じて、先生は力説する。

「なんでそんなに張り切ってるの」
 「私も行きたい!」

 小百合さんが笑うのと私が叫んだのは同時だった。先生と小百合さん。二人が私を快く迎え入れてくれていたことで、私はすっかり二人と対等のつもりになっていた。だからそのときも二人が行くなら私も行こう、そういう短絡的な考えで言ってみた。「いつもの店にアイス買いに行こう」くらいの気持ちで。当然了解を得られると思っていた。しかし先生も小百合さんも私を見た後、互いに目配せあっていた。

「あーっと。夜遅くなるからさ。優ちゃんはおばさんに訊いてからじゃないと」
「うん。そうだね」

 二人して歯切れ悪くそう言う。今考えれば、当然のことだ。小学生を連れて行って途中ではぐれて何かあったりしたらコトだし、それを心配するだろう親への配慮もある。そして何より二人の間で私はおそろしく邪魔だ。姉が言ったように「遠慮」すべきところだったのだ。けれど幼い私はそんなことも思いつかずにいた。
 なんだよ、と不貞腐れたい気分だった。けれど、それは表情に出さないようにした。そこで不貞腐れたら子供みたいだ、と子供のくせに思っていた。

「うん。じゃあ、訊いてみる」


 けれど、母は「うん」とは言わなかった。

「夜に人ごみの中で優子が迷子にでもなったら、大変でしょう? そこまで早苗ちゃんに面倒見させられないわよ。行きたいんなら母さんが連れて行ってあげるわよ」
「迷子になんてならないよ。先生と行きたいんだって」

 尚も食い下がる私に母は大きく息を吐いたけれど、洗い物をしている手を休めることはない。

「あんまり我侭言うんじゃないの」

 我侭。そう言われて私はもう何も言い返せなくなってしまった。私が先生と小百合さんと三人で花火大会に行きたいと言うことは、我侭でしかないのか。

 母の背中を泣きたい気持ちで睨みつけていると、姉が現れた。

「母さん、今度の花火大会、友達と一緒に行きたいんだけどいい?」
「ううん。そうねえ……」
「みんなはいいって言われたって言ってたよ」

 私の時には即答したくせに、姉だったら考えるのか。それだけでもいらついた。

──断れ。断れ。断れ!

 そんな私の祈りも虚しく

「そうなの? ううん、そうねえ。そろそろ友達だけで行ってもいい頃かしらねえ」

 なんて言い出すから、姉は更にいい気になる。

「大丈夫だよ! そんなに遅くならないようにするし! いいでしょ?」
「うーん。まあ、いいわ。でも、気をつけてね」
「やった! ありがとう」

 はしゃぐ姉の声が耳障りで、私はその場を離れて自室に向かった。目一杯床を踏み鳴らすことで苛立ちをアピールしながら。

 その晩はお風呂にも入らず、ずっとベッドでタオルケットにくるまって泣いていた。

 なんで私が先生たちと行くのは駄目で、姉が友達と行くのはいいんだ。
 なんで先生と小百合さんは、私を一緒に行かせてくれないんだ。
 みんなして私を子ども扱いして!

 腹が立って腹が立って、涙が出てくることにすら腹が立って。いつの間にか眠ってしまって目が覚めても、やっぱり腹が立っていた。
 だから、約束の日にだって先生の家には行かなかった。先生に借りた本だって放っておいた。

 花火大会の日は昼間から姉が浴衣を着るとか言ってはしゃいでいて、馬鹿みたいだと思った。いっそ雨でも降ってしまえと思ったのに、空は馬鹿みたいに晴れ渡っていて、蝉はジージー鳴いていた。おかげで私は、ベッドに横になってタオルケットで耳を覆い、「うるさいよ」と呟くことしかする気になれなかった。
 夕方になって部屋に母がやって来て、花火に行かないのかと尋ねてきた時だって、そんな気には全然なれなかった。

 だって先生と小百合さんとではなく、母と行くことになんの意味がある?
 やたら優しげな母の口調。
 そんな風にしたって、簡単に機嫌を直してなんかやるもんか。

 無言で食事を済ませて、また自室にこもる。
 ぼんやりと壁を見つめていると、花火の音がし始めた。その音は遠く、けれどえらく腹に響いた。

 その音があんまりうるさいから、居間でテレビを見ることにした。
 居間ではソファでビールを飲みながら父が野球中継を見ていた。いつもなら見ない野球中継をじっと見ている私に、父は気遣わしげな声で「なんか飲むか?」とか言うから、「いらない」と言った。
 代わりにテーブルの上に置かれた煎餅を手にとって、花火の音がするたびにかじった。

 実況アナウンサーのやかましい叫びも、煎餅をかじる音もちっとも花火の音を消してくれやしなかった。
 だから、さっさとお風呂に入って寝ることにした。もちろんそんなに簡単に寝れるわけはない。いくら目をつぶっていても花火の重低音は気持ち悪いほど響いてきて、そのたびに先生と小百合さんと行けた場合のことを思い描いてしまった。

 二人と行けたらどんなだったろう。
 小百合さんは浴衣を着たのだろうか。先生は着ないだろうな。
 夜店ではたこ焼きなんか買ったりして、熱いたこ焼きを頬張った先生がやけどしそうになるに違いない。
 そして私と小百合さんであははと笑うんだ。

 ああ、違う。笑うのは小百合さんだけで、私はここでこうしてタオルケットにくるまっているじゃないか。

 妄想に対して現実はあまりにもみじめで、もう考えないようにしようとするのに、ちっともうまくいかなかった。結局眠りに就けたのは花火の音がしなくなってからのことだった。

 その日から私はしばらく部屋に閉じこもっていた。
 一人で自由工作を仕上げ、適当に読書感想文を書き、宿題を済ませることしかしなかった。けれど、その宿題も全てやり終えてしまうと、途端にすることがなくなった。一度約束の日をすっぽかしてしまうと先生の家に行くタイミングはつかめなくなっていたし、友達と遊ぶ気にもなれなかった。
 仕方なしに先生に借りた本を読み始めた。いつもどおり、ただ活字を追うだけ。内容なんてちっともわかりはしなかったけれど、何もしないよりはましだった。

 そうして数日経つと、夕方に呼び鈴が鳴った。玄関で母の声がする。そしてそれに応じるように先生の声。
 週に一度の先生がやって来る日だった。
 少し先生と顔をあわせるのが嫌だった。だって私の機嫌などお構いなしに先生は優しく笑いかけてくるから。

 けれど、姉と先生はこの部屋で勉強するのだ。のろのろと部屋から出ると階段を上がってきた先生と鉢合わせた。

「こんにちは。なんか久しぶりだね」
「うん」

 すれ違い様話しかけられても、それだけ返すのが精一杯だった。

「この子、まだ拗ねてるんだよ」

 遅れて先生の後ろからやって来た姉が余計なことを言うから、こっそり睨んだ。机ではなく、姉本人を蹴飛ばせたらどんなにすっとするだろう。けれどそんなことはせず、そのまま私は居間に向かった。先生と姉は私がさっきまでいた部屋に入っていった。
 居間に入るとソファに腰掛け、テレビを点ける。奥の台所で母が忙しそうに食事の支度をしているのを横目に、ごろりと横になった。その日の出来事を報じるニュースを目に写しながら、部屋で先生と姉が勉強しているところを想像してみた。二人が一体どんな話をしているのか、いつになく気になって仕方がなかった。いつだって私は仲間はずれなんだと不貞腐れた。

「優ちゃん、ご飯だって」

 いつのまにか眠ってしまった私を揺り起こしたのは先生だった。先生の声はいつだって優しい。そのせいでさっきまで機嫌が悪かったことを忘れて、うっかり普通に返事をしてしまった。

「うん、今行く」

 目をこすり起き上がってから、ああ、しまったと思った。そんな私の頭を先生の手が撫でた。

「今度、小百合さんと三人で花火しようか。手持ち花火だったら家の前でやっていいって」

 先生の声はいつだって優しいんだ。

「うん」
「よし。さあ、ご飯食べよう」

 立ち上がった私の肩に回された先生の手はあったかくて、その日もやっぱり暑かったのに不思議とそれは嫌じゃなかった。

「そういえば、優ちゃんの机の上にあった自由工作の貯金箱見たよ。上手にできてるじゃん。あれ、ネズミでしょ?」
「犬だよ」

 自由工作として作った紙粘土製の貯金箱はわれながら格好の悪い出来映えだった。言われてみればネズミに見えなくもない。それがなんだか酷く可笑しくて、あははと二人で笑った。久しぶりに笑った気がした。
 私と、先生と、さゆりさんと、三人でする花火はきっと楽しいに違いない。その日を思い描くだけで、それまでの鬱々とした気分はどこかへ行ってしまった。そう。きっと楽しいに違いなかった。


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