郷愁

 8

 いつもどおり手提げをぶら下げて歩いていくと、アパートから足早に出て行く小百合さんを見た。私には気づかないようで、そのまま行ってしまいそうな小百合さん。声をかけようとしてその表情の険しさに躊躇した。

 そんな顔をする小百合さんは初めて見た。しばらくぼうっとその背中を見ていた。どんどん小さくなるその背中を目で追い続けるのを見えなくなる前にやめて、階段を上った。

 呼び鈴を鳴らしても、先生はなかなか出てこなかった。ようやくドアが開いて、私を見た先生は笑って「いらっしゃい」と言った。けれどその前の眉間によった皺を私は見逃さなかった。

 なんとも言いようのない居心地の悪さ。それでも中へ入ると、先生は何事もなく、いつもどおりに麦茶を出してくれた。私は借りた本をあった場所に戻して、宿題を手提げから出した。

「さあ、宿題ももうそろそろ終わるね。あ、自由研究は自分でなんとかしてね」

 先生はそう言って笑っていたが、それだってなんだかいつもと違っていた。
 それだけではない。宿題をやっていて間違いに気づくのは私のほうが先だったし、わからないところも私が尋ねてようやく問題を読み始めるという様子。手にした本のページだって少しもめくらないで、タバコばかり吸っている。

 険しい顔で足早に出て行った小百合さん。
 玄関に出てきたときの先生の表情。
 増える一方のタバコの吸殻。

 どうしたの、なんて訊かずともなんとなくわかった。
 原因はわからないけど、二人の間で何かがあったことはわかった。
 だけど先生が私にそれを隠したいのもわかったから、何もわからない、気づかない顔をしていた。
 もしかしたら、それを訊いたら二人との距離を思い知らされるだけだとわかっていたのかもしれない。

 いつもと違う先生の部屋を後にしたのは、いつもより随分早い時間だった。それでも次に訪れる日の約束は忘れない。

 私のいない二人だけの時間にあった出来事。私はそれを気づかない振りをすることしかできなかった。二人が大人だと思い知らされるよりも、二人が楽しそうに笑っていないことのほうがずっと寂しかった。
 私が見ているときも、見ていないときも、二人にはいつも笑っていて欲しかった。

 幼いエゴを口にすることもできず、私はただ、二人の笑顔が元に戻ることを願って知らぬ振りをしていた。だからいつも通り、次に訪れる日の約束すらしていったのだ。
 知らぬ振りをしたままの私は、その日も先生の家を訪れて割り算の筆算に苦戦していた。先生は私の手が長いこと止まっていると教えてくれはしたけれど、やはりどこか上の空だった。

「どうですか。頑張ってますか?」

 玄関を開けるなり紙袋をがさがさ言わせて入ってきた小百合さんは、上機嫌に言った。私が顔を上げると、にこにこしたいつもの笑顔があった。手元を覗き込んで「うわぁ、こんなのやったなぁ」と呟いた小百合さんは紙袋を畳の上に置いて、先生の飲みかけの麦茶を飲み干した。

「グラス、取っておいでよ」

 先生が笑って空になったグラスを受け取った頃には、小百合さんはすでに腰を下ろしいた。

「面倒臭い。私、お客さんだからもてなしてよ」
「はいはい」

 苦笑いしてから、のそのそと立ち上がり台所へ向かう先生。その様子を見てこっそりと頬を緩めていると、同じく頬を緩めた小百合さんと目が合った。

「何?」
「なんでもないよ? 頑張って終わらせてね。今日はシュークリームを作ってきたのですよ」
「シュークリーム!? やった!」

 叫んだのは先生だった。おまけに「ひゃっほぅ」なんて言いながら、麦茶とグラスを手にスキップしていた。

「先生、シュークリーム好きなの?」
「すんごい好きだよ! 世の中のシュークリームが全て私のためにあればいいと思うぐらい!」

 どんっと麦茶のポットを座卓に置いた先生が身を乗り出して鼻息荒く主張すれば

「ここにあるのは私と優ちゃんで食べるんだけどね」

 団扇をぱたぱたさせる小百合さんがにやにやしながら言い放つ。乗り出していた体をするすると元に戻した先生はそのまま膝を抱え、そして細長い二つの手で顔を覆う。

「酷いよ。私がシュークリーム好きなの知ってるくせにさ」

 拗ねた声で泣きまねをする先生を私と小百合さんは、あははと笑った。それから小百合さんは膝を突いて先生に近寄っていくと、先生の頭を撫でた。

「ごめんごめん。ちゃんとあげるから、泣くんじゃないよ。お嬢ちゃん」
「ホント!?」
「嘘」

 勢いよく顔を上げた先生に、にっこり笑いながら小百合さんは止めを刺す。また先生が眉尻を下げたところでその頬を両手でぎゅうっと挟んで、あははと笑った。その様子が以前に垣間見てしまったシーンを思い出させて少しどきりとした。

「ちゃんとあげるってば」

 ぱちんと軽く頬を叩いた後、小百合さんはまた元のところに戻っていったけれど、先生は胡坐をかきながら苦笑いをしていた。私もなんだか苦笑いしたい気分だった。

「小百合さんはたまに本気なんじゃないかと思わせる何かがあるから怖いわ」
「それよりも。優ちゃんに解き方を教えてあげなくていいんですか、『先生』?」

 言われて先生は私の宿題を覗きこむ。私もあわてて宿題に目を落とす。さっきからなかなか進んでいかない私の宿題はもう既に先生に解き方を教わっていたところだった。けれど、先生はもう一度丁寧に教えてくれた。
 ようやく宿題を終えて、小百合さんが作って来てくれたシュークリームを三人で頬張る。先生は私と小百合さんよりも二個も多く食べて小百合さんに怒られていた。私が笑っていると

「優ちゃん、口のところにクリーム付いてる」

 小百合さんがティッシュで拭いてくれた。なんだか恥ずかしかったけれど、それ以上に二人が笑っているのが嬉しくてしょうがなかった。そこに自分がいられることが嬉しくてしょうがなかった。

 何もなかったかのようにいつも通りに戻った二人。二人の間に何があったのかはわからないままだったし、やはりそこに距離を感じてはいたけれど、二人が私の存在を疎んじていることは決してないのだと思えた。だって、小百合さんはシュークリームを私が食べやすいようにと一つ一つを小さめに作ってくれたと言うし、先生はいつも約束の日を決めてくれていたから。


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