郷愁

 7

 しかし、私の家族は私が先生の家に入り浸ることをあまり歓迎はしていないようだった。

 何も言わなかったのはいつも無関心な父ぐらいで、母は毎週先生が来るたびに「いつもごめんなさいねえ」とか、「追い返してもかまわないからね」と言っていたし、姉は私が新しく先生の本を借りてくるたびに変な目で見てきた。

 私は特に姉のその視線が本当に気に食わなかった。
 視線だけでも気に食わなかったのに、ある日とうとう口も出してきた。

 自室で一人、何冊目かもわからない先生に借りた本を読んでいると、姉が帰ってきた。「はぁ、疲れた」とか独り言を言いながら荷物を片付けていたと思ったら、私の読んでいる本の表紙を覗き込んできた。

「何?」

 私が睨んでも姉は一向にひるまない。

「あんた、また早苗先生のとこ行ってきたの?」
「お姉ちゃんには関係ないでしょ」
「関係ないけど、先生に迷惑だからやめなさいよ」

 溜息混じりに入り口近くの壁にもたれる姉。まだ部屋から出て行くつもりはないらしかった。

「先生はいいよって言ってる」
「そんなの社交辞令に決まってるでしょ。ちょっとは遠慮しなさいって言ってんの」

 そう言い捨てて、姉はようやく出て行った。
 先生も、小百合さんも、私が訪ねてもあんなに楽しそうにしているじゃないか。
 姉はわかっていないのだ。
 わかっていないくせに、なんで説教じみたことを言われなければならないのだ。
 なんだ。自分は大人の側のような顔をして。

 あまりに腹が立って、近くにあった姉の机を蹴飛ばした。けれど机はびくともしないで、私の足が痛むばかりだったから、余計に苛立ちがつのっただけだった。

 母や姉のそういうところが気に食わなかったけれど、私は先生の家に通い続けた。むしろ気に食わないがゆえに通い続けた。先生は母から何か言われたときはいつも「迷惑でもなんでもないから来たらいいよ」と言ってくれていたし、実際行けば先生は快く迎えてくれた。小百合さんだって優しくしてくれた。母の困ったような顔も、姉の冷ややかな視線も、それらへの反抗心も、先生の家に行ってしまえば忘れていた。

 そんなある日。
 先生の家を出てから手提げがいつもより軽いことに気づいた。覗いてみると筆記具が入っていない。先生の家に忘れてきたのだと思い当たってあわてて来た道を引き返した。

 かんかんと階段を駆け上り、呼び鈴も鳴らさずにドアを開けた。聞こえてくるのは耳に馴染んだ先生お気に入りの曲。
 部屋の中にそのまま入ろうとして、立ち止まる。中にいる先生に掛けるはずだった声は喉のところで固まる。私の目はその先にある光景に釘付けになった。

 玄関を入ってすぐにある台所。
 その先にある畳張りの部屋に続く開け放たれた扉。
 そこから見えるのはいつも三人で囲んでいた座卓。
 それから座卓の向こうに座る先生と小百合さん。

 二人の間はいつもよりずっとくっついていて。
 楽しそうに笑う二人の唇もくっついていて。
 その後ろで白いレースのカーテンがふわふわ舞っていた。

 それがどういう行為なのかは小学生にだってわかった。
 私はとっさに息を潜め、静かに、静かに、ドアを閉めた。
 ドアが閉まる間際、台所の蛇口から水が一滴。
 その瞬間、先生の目がこちらに向いた気がした。

 それから私はただひたすら走って、走って、走って……。
 階段がかんかんうるさいのも、蝉がジージーうるさいのも、夕方なのにちっとも衰えない日差しがうるさいのも、全部無視をして、走り続けた。なんで走っているのかなんて、自分でだってわかっていなかった。

 そうやって走って家の前まで来ると、なるべく息を整えた。なんでもない顔をして部屋に入り、姉がいないことを確認すると、座り込んで膝に顔を押し付けた。

 息はもう整っているのに、心臓だけがどくどくとうるさく鳴り続けていた。
 私はただ膝に顔を押し付けて、どくどくとうるさい心臓が早く静まってくれるのを待っていた。

 初めて生で見たキスシーンに動揺していたのだと思う。ただそれだけのこと。
 けれど動揺が収まると、今度は別の感情が生まれてきた。

 どうしてそれまで気づかなかったのか。私がいないときにはあそこには二人だけしかいなくて、二人だけの時間を過ごしていたのだ。垣間見たそのときの二人はいつもと違う大人の顔をしていた。

 大人の顔をした二人はやっぱり楽しそうに笑っていて、それはとても素敵に見えた。不思議と女性同士で、ということに考えは至らなかった。ただ大人の顔をした二人の素敵な表情は私にはどこか遠くて、寂しくもあった。

 先生は以前、私と小百合さんを見て「仲間はずれ感」を覚えたと言った。けれど本当に仲間はずれだったのは私だったのではないか。私一人が子供なのだと思い知らされた気がしたのだ。姉の声が冷ややかに「社交辞令に決まってる」と私をさげすんだ。

 それでもやはり私は先生の家が好きだった。二人が好きだった。いつも面白可笑しく笑う三人で過ごす時間が好きだった。だからほんの一瞬感じた寂しさを拭い去ろうと、次の約束の日も何事もなかったかのような顔をして先生の家に出向いた。

 私が訪ねれば先生が笑って出迎えてくれて、小百合さんが宿題を終える頃にお菓子を出してくれて、それから三人でふざけて、笑って。
 そんな三人で過ごす時間はいつもどおり楽しくて、時折感じる二人の『大人』の部分は気づかなかったことにした。

 自分が知らない部分があるからといって、三人で過ごす時間の楽しさが薄れるわけではない。ならばそれで良いではないか。そういうことにした。
 けれど二人の間に起こった出来事は、三人で過ごす時間の楽しさに深く影響を及ぼしてくるのだ。そんなことが幼かった私には思い至らなかった。


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