郷愁

 6

 それから先生の家に行くときは、借りた本のほかに宿題と筆記具を携えていくようになった。
 先生は私が宿題をやっている間、大概本に目を落としていたにもかかわらず、私が問題を間違えるとすぐに気づいた。そして、私がつまづいているととてもわかりやすいヒントを与えてくれるのだ。
 いつもはとても『先生』らしくなかったけれど、やはり先生は『先生』なのだと納得してしまった。

 先生の『先生』らしさに気づいたように、とてもしっかりした人、という小百合さんの印象も、何度か会って話しているうちにくつがえっていった。

 そんな小百合さんの行動で一番印象に残っている出来事がある。

 いつものように私が本と宿題と筆記具の入った手提げをぶら下げて、先生の家の呼び鈴を押すと、出てきたのは小百合さんだった。
 おや、と思ったのはドアを開けてくれたのが小百合さんだったことともう一つ。その日の小百合さんが黒っぽいスーツに身を包んでいたことだった。

 中に入ってみても、先生の姿はない。

「早苗がちょっと用事が長引きそうだからって連絡してきたから、お留守番してたんだ。私も時間ぎりぎりだったから出先からそのまま来たんだけど、いやぁ、暑い」

 脱いだ上着をハンガーに掛けながら、小百合さんが事の次第を説明してくれた。

「この暑いのにこれは熱吸収しすぎだよね」

 そう言いながら、今度は中に着ていたブラウスの袖をまくっている。

「小百合さん、就職活動してるの?」

 小学生の私にだって、小百合さんが着ているものが世の中でリクルートスーツと呼ばれるものであることはなんとなくわかっていた。

「うん、もう一応一つは決まってはいるんだけどね。」
「ふうん」

 なんだか自分からは遠い別世界の話に聞こえた。
 小百合さんは暑い暑いと言いながら冷蔵庫を開けた。

「あれ? 麦茶すらないじゃん」

 苛立たしそうに乱暴にドアを閉めると、腰に手を当て口を尖らせていた。それから、何か思いついたようにぱっと明るい表情に変わり私を見た。

「アイスでも買いに行こうか」
「うん」

 いつもの店に着くまでの間、暑い暑いと二人で文句を言い合った。店の中では恰幅の良いおばちゃんが、レジの奥に置かれた扇風機の風に当たりながら「いらっしゃい」と愛想良く言った。それに小百合さんは「こんにちは」と言ったかもしれない。ごちゃごちゃとした棚をすり抜け、まっすぐアイス売り場に向かうと二人でアイスを選んだ。小百合さんは少し迷ってからカップに入ったアイスを選び、私は迷うことなくダブルソーダを手に取った。

「さ、早く帰らないと溶けちゃう! 優ちゃん、ダッシュで行くぞ!」

 スカートにヒールという走りづらい格好だというのに、小百合さんは店を出るなり走り出した。あっという間に距離を広げる小百合さん。私はあわててそれを追いかけた。

「小百合さん、待ってよ!」
「うふふふ。つかまえてごらんなさい」

 くねくねと変な走り方をし始めた小百合さんは途端にスピードが落ちたから、すぐに追いついた。けれど私はそのまま追い越してみた。

「あ、ちょっと優ちゃん! 酷いよ! 置いてかないでよ!」
「早く帰らないと溶けちゃうよ!」

 そうやってふざけながら走っていたから、先生の家に着いた頃には二人ともすっかり息が上がっていた。しかも止まった途端に汗が噴き出し始めて。

「しまった。余計に暑くなっちゃった」
「本当だよ」

 こんな風に時折考えなしの行動をするような人だった。けれどそういうところを見るたびに、私は小百合さんを身近に感じられるようになったのだった。
 それから二人で笑って玄関を開けると、先生が帰ってきていた。

「お帰り。何? 二人してどこか行ってきたの?」
「あれ。帰ってたの。あんまり暑いからアイス買ってきたんだよ」
「へえ」

 タバコをふかして先生はコーラの入ったグラスを傾けた。
 早速座卓前に座り、小百合さんが持っていたビニール袋からアイスを取り出すと、先生はタバコをもみ消して座りなおした。そして私と小百合さんがアイスを開けるのをじっと見ている。

「何?」

 小百合さんがその視線に耐えかねて尋ねた。

「私の分は?」
「ない」

 小百合さんが短く答える。

「え? 聞き間違いかな? もっかい言って?」

 先生は耳に手をかざして聞き返す。

「あなたの、分は、ありません。二つだけです。わかりましたか?」

 それに小百合さんは一言一言区切って言い直した。途端に先生は口を尖らせる。

「なにさなにさ。二人だけおいしそうなもん買ってきてさ。そうですか。私のことなんて誰も思い出しもしませんでしたか。いいんですよ。私のことなんか気になさらず、どうぞお上がりください。私はちびちびまだ冷えてないコーラでも飲んでますから。ああ、ぬるいコーラはおいしいなあ」

 すると小百合さんが大きく息を吐いた。と思った瞬間、アイスを先生に投げつけた。

「ああ、もう鬱陶しい。そんなに欲しけりゃ、やるよ! それでいいんでしょ!」

 私は小百合さんが本当に怒ってしまったのかと心配になったけれど、よく見たら小百合さんの口元は笑っていたからいつもの掛け合いなのだと安心した。それでも小百合さんがアイスを食べられないのは申し訳ない気がした。

「小百合さん、私の半分あげるよ」
「いいの? 優ちゃん、なんて優しい子なの!」

 がしっと私を抱きしめる小百合さんからは、なんだかとても良い匂いがした。

 私と小百合さんとで一本ずつ。袋から取り出したソーダ味のアイスをかじった。「おいしいねえ」と笑い合ったりなんかして。

「なんだろう。この仲間はずれ感」

 アイスと一緒に袋に入れられていた木べらをくわえて、先生は恨めしそうに私たちを見ていた。

「何言ってるの。ちゃんとアイスあげたでしょ? いっぱい食べられていいじゃない。一人でそれ食べてなよ。私たちは二人仲良く半分こしてるから」

 にやにやと笑いながら小百合さんがまた一口アイスをかじると先生はますます口を尖らせた。

「なんだよう。お前ら仲良くなっちゃってさ。いいよいいよ。私は一人寂しく食べてますよ。ああ、おいしい」

 先生はアイスをちびちびとすくっては口に運び、小百合さんはそれを見て、あははと笑うから、私も可笑しくてしょうがなかった。

 私と、先生と、小百合さんとで過ごす時間はいつもそんな風だった。


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