郷愁

 5

 蝉の一件が片付くと先生と小百合さんはそれぞれでくつろぎ始め、私は手持ち無沙汰になった。もう帰ってもよかったが、またあの暑さの中を歩いていく気になれず、ぼんやりと麦茶を飲んだり部屋を眺めたりしていた。先生の家にはテレビがなかった。

「先生の家ってテレビないの?」
「ん? ああ、うん。そう。特に見たい番組もないしね。スペースの無駄でしょ」

 テレビのない生活というものが、私には上手く想像できなかった。私はテレビを見ない日はなかったし、両親も姉も好きなテレビ番組があってそれを欠かさず見ていたから。
 その代わり先生の部屋には小さなラジカセが一つと、壁一面に並べられた背の高い本棚に本がたくさんあった。その本の多さに私は溜息が漏れた。

「ねえ先生、これ全部読んだの?」
「ええ、まあ、一応」

 タバコをくわえて先生は新聞を読んでいる。先生がタバコを吸うところを見るのはそれが初めてだった。

「気になるのがあったら持っていっていいよ」

 ラジカセから流れる私の知らない曲にまぎれて紙をめくる音。更に雑誌を読んでいた小百合さんの声が重なった。

「優子ちゃんが読みたいようなのはないんじゃない?」
「んー。そう?」

 そんな二人の会話を聞きながら、私は目に付いた一冊の文庫本を手にとって、ぱらぱらとめくってみた。それで内容などわかるはずもなかったけれど、それを借りることにした。正直、どれでもよかったのだ。ただ先生の持っている本を読むことに意味があった。

「これ、貸して」

 私の掲げた本を確認すると、先生は「いいよ」と笑った。小百合さんは何も言わなかった。けれど、少し目を見張ったような気がした。
 口元に笑みを浮かべないように、なんでもないような顔をして私はその本を読んでいた。

「さて」

 先生が何本目かのタバコをもみ消しつつ、壁にかかった時計を見た。

「そろそろ帰った方がいい時間だよね」

 見ると、もうすぐ六時だった。辺りはまだまだ明るかったけれど、決められた帰宅時間より遅れると母が怒る。

「本当だ。もう帰らないと」

 読みかけの本を閉じて立ち上がると、先生も小百合さんも玄関で見送ってくれた。

「今度またおいで」

 とは先生。

「気をつけてね」

 とは小百合さん。

 二人に手を振って別れると、かんかんと音を鳴らして階段を下りた。夕方とはいえまだまだ暑く、辺りは蝉の声がジージーうるさかった。

 帰ってから早速先生に借りた本を読もうと部屋の一角に陣取った。表紙を開いたところで、ベッドに寝そべって漫画を読んでいた姉にその様子を見咎められた。

「そんな本うちにあったっけ?」
「先生に借りた」
「え? 早苗先生の家まで行ったの?」
「うん」

 はんっと乾いた笑いを漏らした姉が身を乗り出して表紙を覗き込んできたから、睨みつけてやった。

「なんか、難しそうな本。あんたにはわかんないんじゃないの?」

 薄ら笑いを浮かべる姉は無視して、本を読むことに集中することにした。その頃、私は姉のことが嫌いで嫌いでたまらなかった。もっと幼い頃はいつも後ろをついて回っていたというのに。

 そうやってむきになって読んだ結果、翌日の昼過ぎにはその本を読み終えていた。ただ活字を目で追っていただけではあるけれど。

 読み終えた本を持って、私はまた先生の家を訪ねた。
 呼び鈴を鳴らすとすぐにドアが開いた。

「あら。優ちゃん。どうした?」
「これ、返しにきた」

 私が借りた本を差し出すと、先生は目を丸くした。

「もう読み終わったんだ」
「うん」
「やるなぁ」

 本を受け取った先生の呟きに私の頬は緩んだ。

「暇だったら上がってく? 小百合さんがお菓子持ってきてくれてるんだよ」

 先生が少し体をずらすと、後ろで小百合さんが覗き込んで手を振っていた。

「悪いですよ」
「またそんなこと言って。いいから、遠慮しないの!」

 背中にまわされた先生の腕に押され、無理やり中に入らされた。先生を見上げると

「ほらほら。手ぇ洗って。食べるよ」

 とあごで台所をしゃくった。小さく「お邪魔します」と呟くと、今まで先生に押さえられていたドアが後ろでがちゃりと閉まった。

 小百合さんが作ったというマフィンは少しぼそぼそしていたけれど、おいしかった。先生がなにやらマフィンに関するうんちくをたれようとして、小百合さんに「うるさい」と一喝される様も可笑しくて、あれこれ話しては笑っていた。そうしているうちにいつの間にか夕方になっていた。

 そして帰り際にまた、私は先生の本を借りた。
 そうやって先生の本を借りて、返しに行ったついでに先生の家に上がりこむことが繰り返されるようになったのだった。


 初めの頃は約束もなく訪ねたので、訪ねてみたら先生がいないということもあった。けれど、そういうことが二度あってからは、返す日をあらかじめ決めるようにしたので、先生はその日時に家にいるようにしてくれているようだった。

 私が先生の家を訪ねると、多くの場合は小百合さんもやって来た。三人になると先生の家は狭く感じたけれど、それはとても居心地が良かった。そこで何をするでもなくただ、二人または三人で喋ったり、本を読んだり、お菓子を食べたり、アパートの前で遊んだり。それがやたら楽しく感じて、私は先生の家に通い続けた。

 そうやって無駄に時間を潰すだけだったから、私が先生の家に行くまっとうな理由は本の貸し借り以外になかった。そこにもう一つ部屋に上がり込む理由を付け加えてくれたのは、小百合さんの一言だった。

 ある日私と先生がごろごろしながら本を読んでいると、あとから小百合さんがやって来た。先生はラジカセから流れるお気に入りの曲を口ずさんでいた。小百合さんが私たちの姿を見て呟いた。

「また今日は随分とだらけてるなあ」

 小百合さんはかぶっていた帽子で顔をあおぎながら苦笑していた。

「優ちゃんは宿題大丈夫?」

 そこに来てばかりだった私を心配したのだろう。小百合さんは持ってきたジュースを座卓に置いてこちらを見た。

「家でやってるから大丈夫だよ」

 嘘だった。
 家でも先生に借りた本を読むばかりで、宿題は途中から全く手をつけていなかったのだ。母からも毎朝のように「宿題やってるの?」と尋ねられ、それにも同じように答えていた。

「大丈夫ならいいけど。どうせならここにいる『先生』に見てもらえばいいんじゃない?」
「へ?」

 突然自分のことに話が及んだ先生は変な声を出して、小百合さんを見た。

「別にそれくらい無償でやってあげるんでしょ?」

 座卓に頬杖をつくと、小百合さんはくすくすと先生に笑いかけた。

「ええ、まあ」

 それはとても素敵な提案だった。それまで感じていた若干の罪悪感を拭い去るいい手段になると思ったのだ。

「持ってきたら見てあげるよ」

 先生はタバコをふかして薄く笑った。それに私は小さく頷いたのだった。


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