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「え? あれ? ごめん。早苗だと思って」
私を見つけたその人は、持っていた雑誌をあわてて閉じ、座りなおして詫びた。その様子はさっきの怒声とは裏腹にとてもかわいらしかった。
「いえ、気をつけなくてごめんなさい。こんにちは。お邪魔します」
「あ。こんにちは」
互いに挨拶すると、その人は疑問をこめた視線を先生に送る。それなのに先生はその人に背を向けて台所の方に行ってしまった。
「ちょっと一緒に蝉取りしてきたんだ。暑かったわぁ」
先生は冷蔵庫を開けながら答えたけれど、それは彼女の疑問に答えるものではなかったらしかった。
「いや、そうじゃなくて。どちらのお子さん? 警察沙汰はちょっと勘弁してもらいたいんだけど」
「ああ、大丈夫。警察にご厄介になるようなことは無いから。まあ、かくかくしかじかふむふむでして」
全く回答になっていないことを言いながら、先生は私にお茶で満たされたグラスを差し出した。それを受け取り「ありがとう」と言ってから立ったままだったけれど、すぐに一口喉に流し込んだ。乾いた喉に冷えた麦茶がしみ込んでいった。
「ああ、なるほど。まったくわからん」
女の人は先生に再度説明を求めているようだったけれど、先生はぐびぐびと喉を鳴らして麦茶を飲んでいた。
「あの」
女の人の質問にちっとも答えようとしない先生に、なんだか私の方がはらはらしてしまって声をかけた。彼女がこちらに向いて首を傾げた。
「私と先生ははとこ同士で、今日、蝉取りをしようって誘われたからそうして。それで、帰りにお邪魔したんです」
「先生って早苗のこと?」
こくりと頷く。
「親戚の子なのね。最初からそう言えば良いのにね」
彼女は眉根をひそめて台所でばしゃばしゃ顔を洗っている先生を見てから、「あ」と呟いた。
「座って。ごめんね、気が付かなくて」
部屋に入ったところで立ったままだった私に、その人は部屋に置かれた座卓の前を勧めてくれた。その勧めのままに座卓前に腰を下ろす。そして麦茶をまた一口飲んでから、先生を見た。
先生は顔を拭いたタオルを洗濯機に向かって投げていた。
「ええと。小学生?」
目の前の人に問われてあわてて視線を戻した。
「はい。四年生です」
「じゃあ、誕生日来たら十歳だ」
「そうです」
そんなぎこちない会話を初対面同士でしていると、台所の先生が声をかけてきた。
「小百合さんも麦茶飲む?」
「飲む」
小百合さんと呼ばれた人が即答すると、先生はがちゃがちゃとグラスを二つと麦茶の入ったポットを持ってきた。
「ほい」
小百合さんの前にグラスを置いてそこに麦茶を注ぐ。続いて私のグラスに、次は自分のグラスへと麦茶を注ぎ足していく。そんな麦茶係を務める先生に、今度は私が疑問の視線を送る番だった。
「ああ、こちら私の大学の先輩で、友達の小百合さんです。で、こちらは優子ちゃんです」
ようやく視線に気づいた先生は短く紹介して、また麦茶を飲み始めた。小百合さんは眉間に手を当てて大きく溜息をついた。
「ねえ、優子ちゃん。なんでこの人のこと先生って呼んでるの?」
「ええと。うちのお姉ちゃんが先生に勉強教えてもらってるからです」
「ああ、そういえば家庭教師やってるって言ってたね。それにしても」
小百合さんは先生を横目で見て、また私を見る。そして口元に手を当てて噴き出すのをこらえる仕草をした。
「全然『先生』って柄じゃないよね」
そう言われて思わず笑ってしまった。確かに先生は蝉取りでむきになったりして、ちっとも『先生』らしくない。
「失礼ですよ。あなたたち」
先生がかけてもいない眼鏡を上げる振りをしながら、座卓を叩いた。すると、それが合図だったかのように、部屋の隅に置かれていた虫かごで蝉がジージー、シャワシャワ鳴きだした。そのあまりの騒音に、三人揃って耳を押さえた。
「うるさい!! なんで蝉なんて持って帰ってくるのよ!!」
小百合さんが蝉に負けじと声を張り上げて抗議する。
「だって! せっかくつかまえたんだもん!!」
「『もん』とか言うな! 可愛いつもりか!! さっさと逃がしてきなさいよ!!」
二人が言い合っている中、私は虫かごに近づき軽く小突いた。すると二匹の蝉は鳴くのをやめて、バタバタとかごの中で暴れまわった。
「あ、優ちゃんナイス」
耳を押さえていた手を離し、先生が振り向く。その後ろ頭を小百合さんがはたいた。
「いいから、早く逃がしなさい」
「えー」
はたかれた先生は再度向き直って渋り、小百合さんは目を細める。
「おい。『先生』」
「先生、逃がそうよ。蝉ってすぐ死んじゃうんでしょ」
私も小百合さんの意見に賛同すると、先生は口を尖らせて
「わかりました。逃がしますよ」
と四つん這いで虫かごを取りに来た。そして網戸をがたがた言わせながら苦労して開け、虫かごの蓋を開放した。けれど蝉は一向に出て行きそうにない。
振ったりもしたけれど、蝉はかごの中で飛び回り、ばしばしぶつかるばかりで出口にたどり着けないようだ。
「なにやってんの。手でつかんで出せば? そんなにぶつかってちゃ弱っちゃうよ」
見かねた小百合さんが溜息混じりに言う。
「いや、手でつかむとか無理なんですけど」
振り返った先生が小刻みに首を横に振る。
「は? じゃあ、どうやってつかまえてきたの?」
言ってすぐ何かに思い当たったのか小百合さんがこちらを見た。
「あ、優子ちゃんが?」
あわててぶんぶんとかぶりを振る。私に逃がす役目が回ってきたら大変だ。
それを見て小百合さんはまた大きく息を吐いた。
「まったく。二人とも蝉が苦手なのに、なんでつかまえようと思うかな。どれ、貸して」
腰を上げて先生からかごを受け取ると、小百合さんはおもむろに手をかごの中に入れた。そして飛び回ろうとする蝉をさっとつかんでは空に放った。
長いさらさらの髪に、ワンピース。白く細い四肢。いかにも女性らしい小百合さんがこともなげに蝉をつかむ姿は意外としか言いようがなかった。
「やだ。小百合さん男前。惚れる」
先生はおどけた調子で両手を口元に当てて小百合さんを見つめた。
「阿呆」
先生の頭に虫かごを乗せた小百合さんは、とても綺麗に笑った。