郷愁

 3

 その翌日の昼下がり、呼び鈴が鳴って玄関に出てみると、先生だった。先生は真新しい虫かごと虫取り網を手に破顔していた。

「優ちゃん、蝉取り行くよ!」
「え」

 約束した覚えは無いのに先生はすっかりその気だった。

「ほらほら、帽子かぶって。行く準備!」

 そして戸惑う私を急かす。何がなんだかわからないうちに、私も急かされるままに家を後にしていた。
 鼻歌なんて口ずさみながら歩く先生の横顔を見上げて、どこに取りに行くのだろうと考えてみた。

 公園だったら嫌だな。

 公園にはきっと同じクラスの子達がいる。蝉取りなんてしてるのを見られるのはちょっと嫌だった。
 そんな私の気持ちとは裏腹に、たどり着いた先はいつもの公園だった。

「さて、蝉はどこかなあ」

 先生は目を細めながら木を一本一本見上げていた。向こうのほうのジャングルジムのところに何人か知っている顔が見えて、私はそちらに背を向けるようにした。

「あ! あれなら届きそう! よし、優ちゃん、ちょっとかご持ってて」

 見上げると幹の少し陰になっているところに蝉が止まっている。突き出された虫かごを受け取ると、先生は虫取り網を持ち上げ、そろりそろりと蝉に狙いを定めた。

「そりゃ!」

 掛け声と同時に素早く網を振る先生。けれど、それ以上に素早く蝉は難を逃れて飛んでいった。

「ああ、逃げられた」

 残念そうな声色でそう言った先生は、そのまま次の標的を求めてうろうろと木々の間を渡り歩いた。ちろりとジャングルジムに目をやると、そこの一人がこちらを見ている気がした。
 気付かれてしまったかもしれないと思うと溜息でもつきたい気分になった。

「どうした? あ、優ちゃんもやる? あれなら届くんじゃない?」

 先生が少し低い位置にとまった蝉を指差す。あまり私の名前を呼ばないで欲しかったけれど、それは言わない。

「いいよ。先生、取りなよ」
「そう? じゃあ、見とけよ」

 腕まくりでもするんじゃないかという気合の入れようで先生は網を握り締めた。

「とりゃ!」

 しかし、またしても逃げられた。

「ぎゃあ! かけられた!」

 おまけに爆撃を食らった様子。肩口で顔を拭っている。
 私が思わず噴き出すと先生は「笑うなよう」とこちらを向いて眉尻を下げた。それがますます先生に火をつけたようで、ふたたび木を見上げたときには目つきが険しくなっていた。

「くっそう。蝉め。人間様をおちょくりやがって。絶対つかまえてやる」

 それから何度か先生は蝉を見つけては網を振るったが、一向につかまらない。あまりにつかまらなさすぎて面白くなってくるほどだ。

「先生、下手くそだね」
「うっさい! そういうことは思っても言わないでおいてよ!」
「だって、逃げられてばっかりだよ」
「このお。くそう。今に見てろ」

 悔しそうに首を回しながら木を見上げる。その様子にくつくつと笑いながら、私も一緒になって蝉を探した。
 ようやく一匹目をつかまえたのは、先生が何度も蝉にぴぴっと引っ掛けられてからだった。

「やったー!」

 網の中で暴れる蝉を見て、先生は誇らしげに腕を突き上げる。その拳はすぐに開かれて、手の平が私に向けられた。あわてて同じように手の平を先生に向けると、ばちんと手が合わさった。
 そうしてから私は虫かごを持っていたことを思い出して、その蓋を開けて差し出した。

 先生がかごに移すものと思っていたら、なぜか先生も網を私に差し出した。

「私、蝉、触れない」
「は?」

 片言の日本語で明かされた衝撃の事実に、思わず漏れる疑問の声。この人は人を無理やり誘っておいて何を言っているのか。

「優ちゃん、頼んだ」

 まっすぐに目を見つめられても、私だって触りたくなかった。だって、蝉は触ろうとすると凄く暴れる。
 そうして二人でぷるぷると首を横に振りながら見詰め合うこと数秒。

「じゃんけんで負けた方がかごに移す」

 そう言うと私が返事をするより早く「じゃーんけーん」と言い出し始める先生。

「ぽん!」

 私があわてて出したのはチョキ。先生はパー。

「ぬおおお。寄りによってパーで負けるとは」

 先生はしゃがみこんで自分の右手をしばらく見つめていた。その間に蝉は先生の左手で口を絞られた網の中で大人しくなっていた。

「ほら、先生。自分で言い出したんだから入れて」

 私が虫かごを差し出すと先生はうーうー唸りながら網に手を入れようとしては引っ込めていた。そんな風にしばらく唸り続けていた先生は「あっ」と呟いた。何事かと先生の表情を窺うとにやりと笑っていた。

「別に触らなくたっていいじゃんね」

 そう言いながらかごの蓋に網をかぶせて、器用に蝉をかごの中に落ちるように網を裏返していく。その方法で蝉に触ることなく見事にかごに移すことに成功した先生は、誇らしげに胸を張る。

「どうだ。移したよ」
「うん。そうだね」

 私がかごの蓋を閉めながら何の感慨もなく打った相槌は、先生にとっては不満だったようだった。

「それだけ?」

 眉尻を下げてそう問われてなんと言えばいいのか、困った。から、適当に褒めてみた。

「え? えーと、凄いね先生」
「おうよ! もっと褒めろ! よし! 今のでコツはつかんだ。次いってみよう!」

 そんな答えでも先生は満足したようだった。そして触れもしないくせにまだつかまえると意気込む。けれどやっぱり先生は下手っぴだった。またちっともつかまえられない先生に私は横から色々と口を出した。

「ほら! あそこだって!」
「もっと早くかぶせなきゃ!」
「先生、また逃がした」
「あーあ」
「優ちゃん、うるさい!」

 そうしてどうにかこうにか二匹目を取って、全力でハイタッチをした。気が付けばジャングルジムには誰もいなくなっていて、私も先生も汗だくだった。

「いやあ。楽しかったねえ」

 公園からの帰り、虫取り網を杖のように突きながら先生は笑う。結局二匹取っただけで引き上げてきたけれど、もう喉がからからだった。

「そうだ。うちでお茶飲んでいきなよ。近いし」

 そう誘われて、思わず頷いてしまうほどだ。
 かんかんと二人で音を鳴らして階段を上がり、先生の家に辿り着いた。先生は玄関の鍵を差し込んでがちゃがちゃと回して首をひねる。

「あれ? 私、鍵開けっ放しで出かけちゃった?」

 先生が不思議そうな顔をしてドアを開けた。先生の横から覗き込むと、玄関にはサンダルが一足置かれていた。先生はそれを見て、何か納得したような、ホッとしたような声で「なんだ」と呟いた。

「どうぞ。上がって」
「お邪魔します」

 先に入った先生に促されて中に入ると、後ろでガチャンとうるさい音を立ててドアが閉まった。思わずびくりと振り返っていると

「近所迷惑だからそっと閉めなさいって!」

 中から誰かの声がして、思わず「ごめんなさい」と謝ってしまった。先生はふふふと笑って虫かごを手に中に入っていき、誰かに話しかけた。

「いきなり怒鳴るからびっくりしてるじゃん」

 そして振り返って私を手招きする。それに応じて上がらせてもらい、部屋の中を覗き込むと、さっきまで死角になっていたところで髪の長い女の人が布団の山にもたれながらこちらを見上げていた。


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