郷愁

 2

 頭に響く痛みに耐えながら袋に残っていた二本目の棒を引っ張ると、袋から出てきた途端にソーダ味のアイスは棒からずるりと抜け落ちた。

「「あ」」

 思わず漏れた自分の声にもうひとつ別の声が重なった気がして、声のした方に視線を向けた。

 そこには見覚えのある人物が私の足元を見つめて立っていて、今にも「あ〜あ」とでも言い出しそうな顔をしていた。

 その人は私の母の従姉妹の娘だとかで、まあ、要するに私のはとこに当たる人だった。彼女は大学進学と同時に親元を離れ、近所に住むようになったらしく、たまに我が家に出入りしていた。
 ちょうどその頃、私の姉が高校受験を控えていたこともあり、その人は姉の家庭教師役を仰せつかってもいた。そんなことがあったから、私はその人を「先生」と呼んでいた。

 先生は熱せられたアスファルトの上で徐々に水溜りを作っていくアイスだったものを少しの間見ていた。そしてそこから視線を上げると「ちょっと待ってて」と言って店の中に入っていった。
 私が言われたとおり大人しくそこで待っていると、先生はダブルソーダの袋を手に店から出てきた。そして袋の上からぱきりと半分に割って、一方を私に差し出した。

「いいですよ」

 私が首を横に振ると先生は更にぐいっとアイスを突き出す。

「いいからいいから。子供が遠慮しないの」

 その言葉に苛立つ私にはお構いなしに先生は「ほらほら」とアイスを私の目の前まで突き出してきた。

「早くしないとまた溶けちゃう。私、半分で十分だから優ちゃんが受け取ってくれないと困るんだよ。ほら早く」

 そう言われて、仕方なく受け取ると先生は目を細くしてへへっと笑った。

「じゃあね」

 立ち去る先生に慌てて「お金」と声をかけたけれど、アイスをかじった先生は「きーんときたぁ」と頭を押さえながら行ってしまった。

 今となってはたかが60円のことと思うけれど、その頃の私には決して小さなことではなかった。友達との間でお金の貸し借りや奢ってもらうことを、親にきつく禁じられていたことも理由かもしれない。とにかく、アイスのお金を返さなければいけないと頑なに思っていた。いや、違う。私は先生の家に行ってみたいという好奇心を満たす格好の理由を見つけたに過ぎなかったのかもしれない。

 とにかく私は一度家にお金を取りに戻って、先生の家に向かった。突然やってきた私に玄関を開けた先生は驚いた顔をしていた。

「どうしたの?」
「アイスもらったから、お金を返しに来ました」
「そんなのいいのに」

 先生はますます目を丸くした。

「私は良くないんです」

 そう言って持ってきた六枚の十円玉を握った手を突き出す。その手を見て、先生は少しの間、頭をかきながら笑っていた。

「わかった。じゃあ、半分こしたから30円だけもらうかな。それならいい?」

 一向に引っ込められる気配のない突き出されたままの拳に観念したのか、先生がそう提案して、私もそれでようやく納得した。十円玉を三枚、先生の手の平に乗せた。

「はい。確かに」
「それじゃあ、失礼します」

 かんかんとよく音のなる階段を下りて、家路に着いた。その日もアブラゼミがジージーうるさく、その鳴き声だけで汗が噴き出してくるようだった。さっさと家に帰ろう。そう思っていると、後ろから声をかけられた。

「優ちゃん、家に帰るんなら途中まで一緒に行こう」

 言うなり隣を歩き始めたのは先生だった。ちょっと驚いて隣の先生を見上げていると、こちらを向いた先生と目が合った。

「今日は友達と約束があってね。お出かけですよ。バス停まで行くから、途中まで一緒に行ってもいいでしょ?」

 そう言われてよくよく先生を見ると、いつもより少し気合の入った服装をしていた。こくりと頷くと、先生は満足そうに笑って前を向いた。

「それにしても、よく私の家わかったねえ」
「前にあそこの前通ったときに、お母さんがあれが先生の家だって言ってたから」
「ああ。なるほど」

 私の答えに先生は何度か頷いた。

「でも、部屋の場所がわからなかったから、玄関のところの名前を見て探したんだ」
「へえ。優ちゃんはしっかりものだねえ」
「これくらい、普通だよ」

 そう言いながら緩みそうになる口元を整えていた。ぱたぱたと手で顔をあおいでいた先生はちらりと腕時計を見た。

「まあ、出かける前で良かったよ。ぎりぎりセーフだったね」
「あ、そうか。本当だ」

 言われて初めてそのことに気づいた。家を訪ねて留守だった場合を考えてもいなかったのだ。

「ところで優ちゃんの今日のご予定は?」
「特に無い」
「友達と遊んだりしないの? 夏休みでしょ?」
「う〜ん。遊ぶことは遊ぶけど、みんな子供っぽい遊びばっかりであんまり面白くないから。それに暑いし」
「へえ。じゃあ、いつもは何してるの?」
「本読んだりとか」
「ふうん」

 ちらりと先生を見上げると、薄ら笑いを浮かべているように見えた。

「何?」
「え? 何が『何』?」
「だって笑ってる」
「おっとっと。別にー、大人びちゃってーと思っただけですよー」

 口元を片手で覆った先生の変に語尾をのばした言い方が癪にさわった。だからずっと前を見て仏頂面をしていた。そんな私に気づいていたのか、いないのか。曲がり角までくると先生は私の肩をポンと叩いた。

「じゃあ、ここで。気をつけて帰るんだよ」

 そう言うと、私が声をかける間もなく、先生は走って行ってしまった。遠ざかっていくその後ろ姿がとても楽しそうに見えて、それ以上目で追うことをやめた。

 それが初めて先生の家に行ったときのこと。そのときの先生はいつもと違ってタバコのにおいがした。母はタバコを嫌っていたから、私の家にいるときは吸わないようにしていたのかもしれない。

 週に一度私の家にやってくる先生は、姉の勉強を見た後、夕食も一緒に食べることが恒例だった。
 先生はおそろしく食べるのが早い人だった。ちゃんと噛んでいるのか母に心配されるくらいに。それに比べ、私はいつも最後まで食卓に居残るタイプで、母はいつも、私たち二人を足して二で割ったらちょうど良いのにと呆れていた。

 その日も早々に食べ終わった先生は出されたコーヒーをすすっていた。家族は次々に食卓を後にし、母はすでに洗い物を始めてしまっている。一人でもくもく食べている私を先生は向かいに座って眺めていた。

「優ちゃん、いつも家で本読んでるの?」

 唐突な質問だったけれど、先日の話の続きなのだとわかった。友達がいないと心配でもされたらかなわない。

「友達とも遊ぶよ。一応」
「一応」

 答えた私の言葉尻を捉えて先生は可笑しそうに笑った。それには何も言わず、冷たくなってきているご飯を口に運ぶ。

「友達とはどんなことして遊ぶの?」

 私の不機嫌さもどこ吹く風とにこにこ笑って先生はさらに尋ねてくる。

「ゲームしようって誘われることもあるけど、私は持ってないから、公園で遊んだりする」
「へえ。どんなことして遊ぶの?」
「どんなって言われても。なんか適当にブランコとかで遊んだり、缶蹴りとかもするかな。男子は最近、蝉取りとかしてるけど」
「蝉取り! 楽しそう! ちょっと今度一緒にやろうよ」

 途端に目を輝かせる先生に驚いた。そんなに魅力的な遊びだとは思えなかったから。

「やだよ。先生、大人なのになんでそんなことしたいの?」
「久しぶりにやりたいの!」
「一人でやればいいじゃん」
「大人一人で必死に蝉つかまえてたら変な人だよー。優ちゃんが一緒にやってくれれば親戚の子に付き合ってあげてるんだなって思われるからできるでしょ。お願い。付き合ってよー」

 顔の前で手を合わせ、拝むような先生の姿に苦笑した。

「ほらほら、喋ってないで、早く食べちゃいなさい」

 洗い物を終えた母が手を拭き拭き小言を言う。

「だって先生が話しかけて来るんだもん」
「そらお邪魔さんでした」

 私が先生に責任転嫁すると、先生は頬杖を付いて残りのコーヒーを飲み干した。それから私がなるべく急いで食べている間、先生は頬杖を付いたままテレビを眺めていた。だからその話はそれで終わったのだと思っていた。


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