郷愁

 1

 暑い。うるさい。暑い。
 朦朧とした意識のまま、枕元でやかましく鳴る携帯を音を頼りにごそごそと探し出し、通話ボタンを押した。

「もしもし」

 目をこすりながらそう言うと、耳元にがなりかける声に自分の失敗に気付く。着信を確認しておけばよかった。

「もしもし、優子? あんたまさかこんな時間まで寝てたんじゃないでしょうね!」

 うんざりしながら体を起こし壁に掛かる時計を見ると、もうじき午後1時を回ろうかというところだった。寝起きのくぐもった声は誤魔化しようもない。

「いや、ちょっと、うたた寝してただけだよ。母さん、どうしたの?」
「本当?! だらだら寝てたんじゃないの?」

 そのとおりです母上。

「いや、本当にうとうとしてただけだから」
「そんなに暇なら帰って来なさい! どうせ一日中だらだらだらだらしてるだけなんでしょ! 大体あんたはこっちからかけないとちっとも連絡してこないし、どうなってるの?!」

 始まった。ヒステリックな声に漏れそうになる溜息を飲み込んでベッドの上であぐらをかく。できるだけ殊勝な態度でやり過ごすしかない。

「たまたま今日はバイトが入ってなかっただけだから。いつもはちゃんとやってるよ。で、どうしたの? 何か用事があったんじゃないの?」
「用事が無きゃ電話もしちゃいけないの? こっちは心配してかけてるっていうのに!」

 ああ、しまった。これじゃ火に油を注いだようなものだ。

「いや、そういう意味じゃないんだけど。ええと。こっちは元気にやってます。心配するようなことはないです」

 電話の向こうからこれでもかと言うほど大きな溜息が聞こえる。溜息をつきたいのはこっちだ。さっさと用件に入ってくれ。

「もう夏休みに入ってるんでしょ? こっちにはいつ帰ってくるの?」

 正直、今年は帰るつもりなんてさらさら無かった。なんとかして誤魔化せないものだろうか。

「ああ、ええと。今年はバイトとか、あと他にも色々することがあって帰れそうに無いんだけど」
「何言ってるの! 今年はおじいちゃんの初盆なんだから帰ってこなきゃ駄目に決まってるでしょ! 大体、色々って何なの?! こんな時間までごろごろしてる人がそんなに忙しいわけないじゃない! バイトもどうにかなるでしょ! さっさと帰ってきなさい!」
「ああ、そうか。ええと、うん。まあ、何とかするよ」

 二度目の溜息が聞こえる。本当に面倒臭い。帰郷したらこれがずっと続くのだと思うと余計に帰りたくなくなった。

「お盆には絶対帰ってきなさい。いいね?」

 有無を言わせぬその声に、これ以上逆らうのは無理だと悟る。

「うん、わかった」

 そう言うと、母もようやく怒りがおさまったようだ。

「予定が決まったら連絡しなさいよ」
「うん」

 ようやく会話を終わらせ、携帯を切った。
 溜息をつき、それと同時に着信履歴を確認する。昨夜一緒に飲みに行った友人から変なメールが届いていたのと、あとは迷惑メールばかりだ。そのまま受信履歴を遡り始めている自分に気付き、舌打ちしながら電源ボタンを押し携帯をベッドの上に投げ捨てた。

 重い腰を上げてふらふらと台所に向かう。たっぷりと汗をかいたおかげで喉がからからだ。冷蔵庫からペットボトル入りのお茶を取り出し、中身をそのまま喉に流し込む。冷えた液体が体を通過し、染み込んでいくのがわかった。そうして人心地つくと同時に腹の虫が何かよこせと不満を漏らす。昨夜遅くまで飲んでいたとはいえ、もう昼を過ぎているのだから仕方ない。お茶をしまうついでにがらがらの冷蔵庫を覗いてみると、奥の方にプリンがあった。少し迷ってからそれを取り出す。黒の油性ペンで私以外の所有者を誇示している容器。ふたの部分に記載されている賞味期限は一週間前の日付だった。思わず鼻から息が漏れ、とっくに賞味期限の切れたプリンをゴミ箱に放り込んだ。

 さて。と、寝癖のついているだろう頭をかきながら戸棚をあさる。買い溜めしてあったはずのインスタントラーメンは残り一つしかなかった。取り敢えずそれを取り出し、鍋に湯を沸かす。具となる食材もなく、ただ水が少しずつ温まっていくさまを眺めながら、私は家に残っている食材のことを考えてみた。

 生鮮食品はとっくにない。ラーメンはこれで最後。スパゲッティや素麺などの乾麺もこの前食べきった。肝心の米もあと2,3日持つかどうか。買い物に行かなくてはならない。

 そこまで考えたところで、なんだか何もかもが酷く面倒臭くなってきた。ぷつぷつと生まれ始めた小さな気泡は鍋の底を白く覆っていく。インスタントラーメンの袋を開け、調味料の袋を取り出す。出来上がったラーメンを入れる器をと思ったけれど、それを出すのも食べ終わってから片付けるのも面倒臭くて鍋のままでいいやという結論に至った。

 一人暮らしは面倒臭い。
 一人分の食事を用意するのも、面倒臭い。

 奥歯を噛み締めていることに気が付いた時、鍋の底に張り付いていたはずの気泡がいつの間にか大きく成長し、ぶくぶくと水面を波立たせていた。うんざりする蒸気の熱さに、ああ換気扇を回していなかったんだなとぼんやり考えながら、緩慢な動作でラーメンを作った。

 そうして出来上がったラーメンをテレビを眺めながらすする。さて、実家にはいつ帰ろうか。正直、バイトは母の言ったとおり本当にどうにでもなるし、そこまでバイトに情熱を燃やしているわけでもない。別にやらなければならないことがあるわけでも、やりたいことがあるわけでもない。友人たちもぽつぽつと帰省し始め、残っている人も少なくなってきた。さっさと帰って来いとうるさい人がいるなら、さっさと帰っておいた方が面倒じゃないかもしれない。

 首筋に汗がしたたるのを感じ、肩でそれを拭う。それにしても暑い。窓の外を眺めると腹の立つほど青い空が灰色の建物の隙間から見えた。


 久しぶりの地元も変わらず暑く、照りつける日差しにうんざりしながら歩く。肌がじりじりと焦がされていくことを気にすることすら阿呆らしく思えてくる陽気だ。そして、唸るようなアブラゼミの大合唱。

 うるさい。やかましい。
 暑い。
 そして、暑い。

 駅からここまで歩くわずかな間に、汗は首筋を伝い、胸元を伝い、Tシャツを湿らせていく。いや、湿った先からこの日差しで乾いていっているに違いない。それに加えて肩に食い込む鞄。本当にうんざりだ。

 ただひたすら暑い道をぽてぽてと歩いていると、工事現場があった。なにかの解体工事のようで、囲いはあるもののその周囲は埃っぽい。ますますうんざりしながら少し足早にその前を通り過ぎる。

 そうして通り過ぎた後、ふと、思った。
 あそこには以前、どんな建物があったのだったか。
 数年前までは毎日その前を通り、確実に目にしていたはずなのに、何故だか思い出せなかった。

 う〜んと心の中で唸っているとコンビニが目に入った。さっきから喉が渇きを訴えている。まさに砂漠の中のオアシス。これ幸いと涼をとるついでに寄って行くことにした。
  
 コンビニの中は人工的に冷やされた空気で満たされていた。外と比べたら天国だ。少し長居してやろうと雑誌コーナーに寄ろうとしたが、随分と日当たりがよさそうだったのでやめた。

 スポーツドリンクを一本手に取ったものの、もう少し滞在したい。どうしたものかと店内を用も無いのにぶらぶらと歩く。棚の間を歩いているうちにお菓子売り場に駄菓子がたくさん並べられているのを見つけた。

 そういえばここは数年前まで個人の商店だった。小学生の頃はよく駄菓子を買いに来たものだ。なんだか懐かしくなったけれど、駄菓子という気分でもなく、アイス売り場に足を向ける。今日のこの暑さなら駄菓子よりもアイスでしょう。

 ショーケースを覗くと何種類もあるアイスの中にダブルソーダを見つけ、思わず頬が緩んだ。ためらうことなくそれを取り出し、レジに持っていく。あの恰幅のいいおばちゃんはどうしているのやら、若い店員がレジに立っていた。若い店員はバーコードを読み込み無機質に「207円です」と言い、続けて他の商品を機械的に勧めてきた。「いや、いいです」と財布から百円玉二枚と十円玉を取り出し、お釣りとレシートを受け取る。

 店の外に出るとまた熱気に襲われ、思わず「うわ」という声が漏れた。それでも気を取り直して、ほくほくと買ったアイスを取り出す。

 袋の中でぱきりと半分に割り、二本ある棒のうち一本を引っ張り出す。しゃくりと一口かじるとひやりと懐かしい味がした。幼い頃はこればかり食べていた。暑い日は二本目を食べる前に溶け出してしまって最後まで食べるのが大変だったことを思い出す。

 そうそう、このコンビニがまだ恰幅のいいおばちゃんが一人で店番をしている個人商店だった頃、店の前で食べていて二本目のアイスが取り出した途端にずるりと落ちてしまったこともあった。

「あ」

 思わず声が漏れる。そしてさっき歩いてきた方角を眺める。白いトタンに囲まれた工事現場では、重機が作業するごとごとという音が響いていた。

 ほんの小さなきっかけから、遠い記憶がするするとよみがえる。忘れていた思い出は次から次へと溢れ出る。

 上り下りするとき、かんかんと音を立てる外階段。
 少し立て付けの悪い窓。
 閉めるときに気をつけないと物凄い音を立ててしまる重い玄関扉。
 たまにビールの空き缶が転がっている狭い台所。
 いつもタバコ臭い畳張りの部屋。
 壁際にはぎっしりと本が詰まった大きな本棚。
 
 そこでは、先生がいつも笑っていた。


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