郷愁

 12

 棒を地面と平行になるようにして食べ進めていたにもかかわらず、最後の塊が危うくずり落ちそうになる。それを慌てて口で受け止めてホッとしたのも束の間、頭に走る鋭い痛み。

「うう」

 思わず眉間に皺を寄せ、頭を押さえる。ソーダ味の氷塊はとても冷たくてなかなか噛むことができない。大人しくそれが溶けてなくなっていくのを待っていると、少しずつその痛みが引いていった。

「ああ、やられた」

 まだ少し痛みの残るこめかみをさすって視線を上げる。その先にある工事現場ではごとごとと重機の音が響いていた。そこにがしゃんと何かが割れる音が混じる。

 私と、先生と、小百合さんと。三人で過ごしたあのアパートはなくなってしまった。あの頃ですらぼろかったのだから取り壊されて当然だろう。だけどこのやりきれない思いはなんだ。

 健在だった頃はなんとも思わずに通り過ぎていたくせに。

 妙に感傷的になっている自分を鼻で笑っていると携帯が鳴った。母だ。

「もしもし」
「あ、優子? 今どこ?」
「もう家に着くよ。コンビニのところだから」
「ああ、ちょうど良かった。ちょっとアイスでも買ってきて。子供たち来たのに何もなかったのよ」

 電話越しの母の声にまぎれて、子供の声がきゃいきゃい騒がしい。おそらく姉の子供たちだろう。前回会ったときは下の子はまだ伝い歩きがやっとだった。小さい姪っ子たちはどれぐらい大きくなっただろう。

「わかった。適当に買っていくわ」
「それじゃ、頼むわね」

 切れる間際、後ろで姉の怒声が鳴り響いていた。姉さんもすっかり母親だ。くすりと笑って、さっき出てきたばかりのコンビニの中に入る。まだ小さいあの子たちにはダブルソーダはよしたほうがいいだろう。きっと途中で落として機嫌を損ねてしまう。それならカップ入りのやつがいい。

 選んだアイスの会計を済ませて、店を出る。むせ返るような暑さと湿気。思わず顔をしかめてから工事現場を見る。ばきばきと何かが折れる音がした。

 小百合さんは忙しいみたいだと笑った先生。
 タバコをくわえて膝を抱えていた先生。
 線香花火を黙って見ていた先生。

 先生はあのときどんな気持ちだっただろう。

 そういえば、今の自分はあの頃の先生と同じ歳だ。それに気づいたら、なんだか可笑しくなってしまった。

 なんだ。この年齢のこの季節はそういうものなのか?

 込み上げる笑いをかみ殺して、携帯電話を取り出す。そしてもう使われることのないあの人のアドレスを表示させる。「削除しますか?」という問いに「yes」のボタンをえいやと押したら、随分とすっきりした。

 そして買ったアイスを見てから私はこそりと呟いた。

「さ、早く帰らないと溶けちゃう。ダッシュで行くぞ」

 感傷に浸ったっていいじゃないか。実家に帰ってきている間ぐらい。

 照りつける日差し。唸るようなアブラゼミの大合唱。

 私と、先生と、小百合さんと。三人で遊んだあの頃と変わらない夏の中、私は久しぶりに全力で走った。


  終

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