印象

28

 気がつくと小夜子は白い天井を眺めていた。白い天井は白いカーテンで小さく区切られていて、その白い空間は小夜子に自分が横たわっている時と場所を思い出させた。シーツの中から重い手を持ち上げ目尻を触ってみたが、そこを濡らすものはない。いつものように乾きすぎているほどだ。
 ゆっくりと首を巡らせるとそこにあるのは、椅子に腰掛けた見慣れた夫の姿。細かく刻まれた皺、ハリのない肌、白いものが目立つ髪。一つ一つを確認していると手元の本に向けられていた夫の視線が小夜子に向けられる。

「ん。起きたか、母さん」

 ぱたりと文庫が閉じられ、組んでいた脚が下ろされると安い椅子がぎいと鳴った。

「喉、渇いてないか?」
「ええ、少し」
「ん。ちょっと待ってろよ」

 ベッドの横にあるサイドボードに置かれていたガラス製の薬飲みを準備する夫から目を離し、小夜子は自分の手を眺めた。ハリのない肌には皺が目立つ。そして随分と筋張っていた。

「どれ、ちょっと起きようか」

 夫がベッドに備え付けられたハンドルを回すと小夜子の視界も高くなった。夫の持つ薬飲みから一口、二口と水を飲む。しかし乾いているはずの喉には、しみ込んでいくような感覚は得られなかった。ただ粘膜の上を通り過ぎていき、胃の中に不快をため込むばかり。水を飲んだところで無駄なことは最初からわかっていた。

「ありがとう。もういいわ」
「ん」

 夫は薬飲みを元あったところに戻し、また本を手に取り腰かける。椅子がまたぎいと軋んだ。

「お父さん、夢を見ました」

 小夜子に話しかけられ、彼は開きかけた本をまた閉じた。そこに落ちかけていた視線が小夜子に向かう。

「ん? そうか」
「高校の頃の夢です。高校で親しくしていた人の」
「本田さんたちか?」

 幸代は結婚して、今は本田姓を名乗っている。高校卒業後、そして互いの結婚後も幸代との親交は続き、今も家族ぐるみでの付き合いをしているから、夫も幸代のことは良く知っていた。東京に出て行った真紀子のことも、話にのぼることはたびたびある。二人揃って小夜子の見舞いに訪れたのは、つい昨日のことだ。きっと夢を見たのはそのせいだ。

「ええ、幸代と、真紀ちゃんも出てきました。でもメインはその頃仲良くしていたもう一人の子。お父さんの知らない人」
「うん」
「高校二年の冬に転校してそれっきりの人。懐かしかったわぁ」

 小夜子の目尻に皺が増える。その様子を見た夫の目尻にも皺が寄る。こんな風に夫に涼子のことを話したことはなかった。彼は涼子の存在すら知らない。話すということはその人を思い出すということだ。その人と過ごした日々を思い出すということだ。小夜子はそれがずっと嫌だった。

 だって涼子と過ごした日々は、すなわち小夜子が真面目に間違い続けた日々だった。至らない考えを正しいと信じて押し付けた日々だった。涼子が姿を消してから、日が経つごとに悲しみが薄らいでいくのに対し、恥じ入る気持ちはずんずん大きくなっていき、涼子からの最後の手紙を読み返すことも、涙がこぼれなくなったころにやめてしまった。
 その頃にはやはり自分の涼子に対して抱いていたものが、思春期の少女特有のアレのような気もしてきて、余計に恥ずべき思い出となった。だから誰にも言わず、それ以上は考えないことにして、どうして捨てないのかも考えないようにして、手紙の入った小箱と一緒にしまいこむことにした。そうしてもう一人の当事者である涼子が姿を眩ましたのを良いことに、なかったことにしようとした。

 実際、涼子のいない日々はそれはそれは穏やかに流れた。小夜子は誰もが期待するとおりに地元のそこそこの大学に進み、そこそこの会社に勤めた。その間に周囲がお似合いだというような人とも付き合ってみたりもし、やがて出会った誰もが小夜子の相手として納得するような生真面目な男性と結婚した。涼子と過ごした頃のような高揚感はなかったが、戸惑うこともなかった。ただ穏やかに流れていく生活は小夜子を安心させ、幸せというのはそういうものだと流れに身を任せた。そして今の自分が感じている穏やかな感情とは相反する、あの頃涼子に対して感じたものは、やはりまやかしなのだと何度も確認をし、記憶を封じ直した。けれど――。

「その人とはそれっきり一度も会ってないのか?」
「だって、連絡先さえ残さずに行ってしまったんだもの。それからどうしているのかすら知らないわ」
「それはまた、さびしいことだな」
「ええ、そうね。できれば死ぬまでにもう一度会いたかったわ」

 はにかみながら小夜子が発した不穏な言葉で夫が息を飲んだのがわかった。強張った体をほぐすように足を組み直して、は、と小さく笑う。

「早く治して探せばいいじゃないか。学校に問い合わせてみたりしたら、意外と見つかるかも知れんぞ?」
「そう……。そうね。でも会いたいけれど……」

 小夜子は自らの手を見て、そしてその手で頭を触る。指先に触れるバンダナの下には、もう髪は残っていない。それを確認して小夜子はふふふと笑った。

「会いたくない気もするわね」
「なんだ、それは」
「複雑な乙女心というやつですよ」

 すいと視線をよこした小夜子の笑みを見て、夫もふっと笑う。

「お前が冗談を言うなんて珍しいな。でもまあ、冗談が言えるってことは、体も良くなってる証拠だ」
「ねえ、お父さん」
「なんだ」
「その人と真琴、少し似てるのよ」

 小夜子と口論が絶えず、自活できるようになってからは家に寄り付かなくなった娘の名前を聞いて、夫は眉をひそめた。生真面目な小夜子と夫の間に生まれた末の娘である真琴は、何故か自由奔放に育った。小夜子がその行動を嗜めるたびに、封印したはずの涼子との思い出は記憶の底から浮かび上がってちらついた。気づけば娘と涼子の面影を重ねそうになっていて、何度も振り切り、かなぐり捨てた。記憶は封印しようと思えば思うほど意識してしまい、上手くいかなかった。その苛立ちのせいで余計に真琴をきつくしかりつけてしまったこともある。

「そうなのか。しかし、あいつは母さんの見舞いにも来んで」

 その渋面を見て、小夜子はふふふと笑う。寂しくないかと問われれば、やはり寂しいと答えるだろう。けれど、真琴には自分の好きなように振舞っていて欲しいとも思うのだ。あの頃の涼子のように。あの頃の自分が、本当はそうすることに憧れていたように。そう思えるようになったのは――そう思っていたことを認められるようになったのは、日がな一日、白い空間に寝そべるようになってからのことだ。
 自分の死を悟り、嘆き、悲しみ、恐怖し、当たり散らすことにも飽きたとき、小夜子は青臭さが鼻につく遠い日を想うようになった。
 過去に付き合った他の人とのことだって、その時を過ぎればどうとも思わなくなったのに、どうして涼子とのことだけを気の迷いと恥じたのか。気の迷いというなら、恋なんてものそのものが気の迷いなのだ。それなのに涼子との思い出だけを必死になって否定し、誤魔化し、恥じることが何だか馬鹿らしくなった。

「いいんですよ。あの子はあれで」
「しかしなあ……。何度も見舞いに来るように言ってるんだがな」
「いいんです」
「うん……。まあ、母さんがいいならいいんだが」

 小夜子があまりにも穏やかに笑っているので、夫は口元をゆがめながら頭を掻いた。そして腕にはめた時計に目を落とす。

「ああ、いかん。今日は洗濯物を外に干してきたんだった。もう取り込まんといかんから、今日は帰るが、母さん、何かいるものあるか? 明日持って来るぞ?」
「いえ、十分間に合ってます。せっかくの休日を病院で過ごさせてしまってすみませんね」
「何バカ言ってる。変な気を回すな」

 少し怒気をはらんだ声に小夜子ははにかむ。そしてベッドを取り囲む白い幕を眺めた。

「お父さん、帰るときにそこ開けていってください。外が見たいから」

 頷き、振り返った夫は早速白いカーテンを開ける。すると赤く染まった夕空が小夜子の視界を覆った。切れ切れに浮かぶ雲が空に赤い陰影を作り出し、束の間の夕景を彩っていた。まぶしそうにそれを眺める妻の表情に夫は胸を締め付けられた。

「今日は随分と夕焼けが赤いな」

 ぼそりとそれだけ言うと荷物を纏め始める。小夜子は何も言わず、赤い空を眺め続けていた。

「それじゃ。また明日来る」
「ええ。ありがとう」
「なんだ。お礼なんて」

 礼に不満そうにする夫を見ながら小夜子はふふと笑い、彼を見送ると、また空を眺めた。空調の整った病室では四季の移り変わりを忘れてしまう。こうして空を眺め、季節を思い出しておかなければならない。生きている『今』を感じておかなければならない。
 涼子と出会ったのは春。初めて会話を交わしたのは梅雨どきの傘の中。会話が楽しくなったのは焼けつくような太陽がまぶしい夏で、初めてくちづけを交わしたのは紅葉が美しい秋の終わり。

 今の季節を知ると共に、その季節ごとの涼子との出来事が顔を覗かせては小夜子の胸を躍らせる。もちろん自分の犯した過ちを忘れてはいない。それ故にやはり涼子とのことは誰にも話すわけにはいかない。けれどどんなに否定しても忘れることのかなわなかった、あの頃の――少女だった頃の自分の恋心は、何と切実であったことか。ああ、愚かで、未熟で、独りよがりな、恥ずべき愛しい少女の日々よ!

 涼子は、あの後どんな大人になっただろうか。自分と同世代の涼子だなどと、小夜子には想像だに付かない。小夜子が恋い焦がれた少女の姿のまま去っていった彼女だけが、記憶の中で時間を止めている。
 ずるいと思った。涼子はずるい。だってあんな風に一切の未練を断ち切って姿を消すことで、小夜子の一瞬を奪うことを成し遂げたのだ。もしも夫が言ったように再会が叶うとしたら、文句の一つも言ってやらなければ気が済まない。しかしそれが叶うことはないだろう。
 もうじき冬がやってくる。涼子が小夜子の前から姿を消し、小夜子が涼子に手紙を渡すことの叶わなくなった季節だ。
 最後に書いたあの手紙になんと記したのだったかはもうおぼろげにしか思い出せない。それでも行き場のなくなった手紙は、たくさんの涼子からの手紙と一緒に、今も自宅の押入れの奥に眠っている。何度も捨てようとして、遺品整理となるであろうときですらも捨てられなかったあの手紙たちは、いつ誰に見つけられるのだろうか。それを思うと不安でもあり、恥ずかしくもある。

 ――こんなとき、涼子だったら面白そうだって笑うのだろうな。

 あの切れ長の目が更に細められるところを思い浮かべ、小夜子は頬を緩ませる。記憶の中の涼子はやはりいつまで経ってもあの頃と同じ、17歳の少女のままだ。きっと思い出は華燭され、淘汰され、美化されているだろう。そんなことはわかっている。それでも、思い出すたびに眩く輝くあの日々は、小夜子の生きてきた年月で見ればほんの一瞬の光は、その残像をいつまでも小夜子の胸に焼き付け、鮮やかな印象を残しているのだ。

 終
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