秘密

 ある日友人と飲んでいると母の死の知らせが届き、通夜と葬式に出るために十何年ぶりかに実家を訪れることとなった。

 母が病に臥せっていることもどうやら助からないことも以前から知らされていたので、その死は驚くことではなかったけれど、一度も見舞いに行かなかったことを責められることは明白で、それを思うと家に帰るのは気が重かった。

 私は几帳面で神経質な母が苦手で、自分で生活できるようになってからは全く家には寄り付かなくなっていた。見舞いに行かなかったのも自分の気ままな生活にあれこれと口を出されることが嫌だったからだ。
 それでも葬式に顔を出さないほど家族と縁を切りたいわけでもなかったので、礼服一式携えて久しぶりの帰省を果たすことにしたのだった。

 通夜ももう始まろうかという時刻にようやく家に着くと、案の定家族から非難の声を浴びせかけられた。覚悟していたこととはいえ、本当にうんざりだ。次にここに来るのは父の葬式のときぐらいだなどと不謹慎なことを考えつつ、小言を聞き流しながら通夜と葬式の準備に忙しく働いていた。

 あまりの忙しさに何の感慨も湧かないうちに、気がつくと葬式は終わっていた。さっさと帰るつもりが、父に「生きているうちに孝行できなかったんだから、せめて死んだ後ぐらい母さんのために働け」とこき使われて、なんやかやと手続きをしているうちに初七日を迎える日まで居付いてしまった。

 法事も終わり、ようやく元の生活に戻れると安堵しながら帰り支度を整えていると父がやってきた。襖を無遠慮に開けて、そのくせ入ってくるわけでもなし、じっと荷造りをする様子を見ている。

「何?」
「帰るのか?」
「うん。仕事もあるし」
「そうか」

 そう言ったきり立ち去るでもなく、父は無言でこちらを見続ける。

「何か用?」
「母さんの遺品でいるものがあったら持って行け」
「そんなの別にないよ」

 私とは全く趣味の合わなかった母の物で欲しい物があるとは思えなかった。

「いいから、少しぐらい母さんのこと思い出してやれ」

 はっきり断ったにもかかわらず、少し強い口調の父はとても意見を譲りそうもない。これ以上言い争うことも面倒臭くて私は仕方なく母の部屋に向かうことにした。

 無駄を嫌い、片付けが趣味のような人だった母の部屋に残っているものは、僅かな服と装飾品ぐらい。どれも私の趣味とはかけ離れていて、持って帰る気が起こらない。それでも少しはましなものがないかと押入れの衣装ケースを物色していると、底の方に古びた小箱を見つけた。千代紙で彩られた本当に古臭い箱だった。

 何故こんなものがこんなところにあるのか、疑問に思いながらその箱の蓋を開けてみると、箱に負けず劣らず古びた手紙が数通入っていた。手紙の類は別の場所にまとめてあったはずだし、あの母が服と一緒にうっかりしまいこむということは考えられない。きっと、他の手紙とは別にこんなところに取っておこうとした意味があるのだろう。

 一体何を大事に取っておいたのかと興味がそそられ、一番上の手紙を手に取った。封筒の宛名を見ると母の名が旧姓で書かれており、差出人は「高橋涼子」とある。住所は書かれておらず、切手は貼られていない。

 友人から手渡しで受け取った手紙だろうか。その他も同じ人物から母に宛てた手紙ばかりだ。その中に、一通だけ見覚えのある字で書かれたものがあり、それだけは宛名と差出人が逆になっている。出しそびれた手紙のようだけれど、何故大事に取ってあるのだろうか。しっかりと封のしてあるその手紙は後回しにして、若干の罪悪感を伴いながらも私は母に宛てられた手紙を読んでみることにした。

 ◇ ◇ ◇

水野小夜子様

 手紙ありがとう。
 こんな風に友達に手紙を書くのは初めてだから何を書いていいのかわからないけど、せっかくだから返事を書いてみようと思います。水野さんのことだから、書き方がなってないとか言って怒りそうだけど、その辺は見逃してください。

 ハンカチ、受け取りました。貸したことも忘れていたぐらいだから、お礼だなんて気にしないでください。
 
 そしてこの前は付き合ってくれてありがとう。誘い出しておいてこんなことを言うのもおかしいけど、あの映画は私も期待はずれでした。今度はもっと面白いのを観に行こう。来月公開される映画は面白そうだけど、どうかな。

 水野さんと学校の外で会うのもなかなか新鮮で面白いから、また遊びに誘うと思うのでそのときはよろしく。

高橋涼子

 ◇ ◇ ◇

 その短い手紙から書き手の奔放さがうかがえる。正直、母はこういうタイプの人物を毛嫌いすると思っていたからとても意外だった。それにしても、何故こんな手紙を大事にとってあるのか。内容を見る限り、すぐに捨ててしまってもおかしくないものだ。更に深まる謎を解明すべく、私は他の手紙も次々に開いていった。

 ◇ ◇ ◇

水野小夜子様

 今日の映画は凄く良かったね。私はすでにまた見たくなっているよ。
 私はいつも映画は一人で見に行っていたけど、誰かと見に行って感動を共有できるっていうのもなかなかいいね。小夜子を誘ってよかった。

 ところで、もうすぐ夏休みだけど、小夜子は何か予定あるのかな。
 私はお盆ぐらいしか予定がないから夏休み中は暇になりそうだよ。
 小夜子の予定が空いている日にでもどこか一緒に遊びに行けたらいいな、と思っています。

 ◇ ◇ ◇

小夜子へ

 本当に毎日暑いね。こんなに暑い日にあんな狭いところに詰め込められるなんて、地獄だよ。
 みんなはよくじっとしていられるものだと思うよ。私には我慢できないし我慢して自分の時間を浪費したくない。

 それにしても、さすが小夜子。結構予定が詰まっているんだね。
 宿題も予定に組み込まれているところもさすがだと感心したよ。
 私はいつも後回しにしているからね。小夜子を見習ってたまには早めに終わらせてみようかな。

 でも、17歳の夏休みはこれっきりなんだから、宿題と家の用事だけで終わらせてしまうわけにはいかないでしょ。どこかで時間作って遊びに行こうよ。

 ◇ ◇ ◇

小夜子へ

 そうか、補習なんてものがあったね。
 呼び出しを無視しても構わないけど、いちいち面倒臭そうだし、我慢して授業に出ることにするよ。
 先生達の時間を無駄にさせるのも悪いしね。

 それから、遊びに行けそうでよかった。
 宿題を一緒にやるっていうのもいいね。見張り役がいないと私は怠けそうだしね。
 どこに遊びに行くかは、そのときにでも二人で決めよう。

 ◇ ◇ ◇


 どうやら、この高橋涼子という人物は相当な自由人だったらしい。規律を重んじる母がたしなめている様子が目に浮かんだが、やはりこういう人物と母が親しくなるのは意外としか言いようが無い。私が授業をサボったときなどひどい怒りようで、「私の子がこんなことするなんて」と青筋を立てていたのだから。他人であれば関わりを持たないようにするに違いないのに、手紙から察すると二人は徐々に親しくなっているのだから、謎は深まるばかりだ。


 ◇ ◇ ◇

小夜子へ

 夏休み中は宿題を見てくれてありがとう。おかげで最終日に慌てなくてすんだよ。
 だけど、最終日に私がゆっくりしていたら家族が何度も宿題のことを尋ねてきて、うるさくて困ったよ。
 私はずいぶん信頼されているみたいです。

 そういえば、遊びに行ったときにびしょ濡れになってしまったけど、体調を崩したりしなかったかな。
 私は暑い時期だとああやって雨の中を傘を差さずに歩くのが好きなんだけど、それに付き合せてしまって大丈夫だったか、後になって心配になっています。

 ◇ ◇ ◇


 小夜子へ

 進路のことだけど今は進学を考えています。が、親との兼ね合いなどもあってまだ決めかねています。
 やるべきことはやっておこうとは思っているけど、その先のことはきっとなるようになるでしょう。
 どうにもならない先のことで気を病むのは性に合わないので、今はこれくらい。

 とにかく、私のことを気にしてくれてありがとう。
 小夜子と一緒にいられる時間は私にとって本当に貴重なものだと思う。
 だから、今小夜子と一緒にいられるこの瞬間を大事にしたい。
 これからいつまで一緒にいられるかはわからないけれど、離れ離れになるそのときまでどうぞよろしく。

 ◇ ◇ ◇


 ここまで読んでみて、二人の仲が深まっていることは知れても、どうして大事にとってあるのかはわからないままだ。確かに仲の良い友人からの手紙を捨てることに気後れするのは、母らしいと言えば母らしいのかも知れない。しかし、こんなところに隠すようにしておく理由がわからない。
 母宛ての手紙は残り一通。それは他のどの手紙よりも擦り切れ、テープで何箇所も破れかけたところを補修されていた。インクはところどころ滲んで読み辛い。この中に母の行動の理由がわかるものがあるだろうか。


 ◇ ◇ ◇

水野小夜子様

 先日私の言ったこと、少し言葉足らずだった気もするのでその弁解と、自分の気持ちをまとめる意味もこめて手紙を書こうと思います。

 小夜子の言うように私たちは考え方が違うのでしょう。けれど私はあなたが考えていることを理解したいとも思うし、過ごしてきた時間も無駄だったとは思いません。
 違っているからこそ、私は小夜子と一緒にいる事が楽しかったし、自分をより良くできる時間を過ごせたと思っています。
 そんな時間がいつまでも続けばとも思いますが、私たちはまだまだ子供で、卒業後どうなるかもわからず、どのように成長してくかもわからず、また自分の意思とは無関係に、唐突に、この楽しい時間を奪われてしまうことだってあり得るのです。
 やはり私はこの先のことはわかりません。

 だから「今」を生きる事に全力を尽くしたいのです。明日のことを考えて今を無駄にするようなことはしたくないのです。
 そして私がそうであるように、あなたにも「今の私」をあなたの心に焼き付けて欲しいのです。
 もちろん将来のことを軽んじているわけでは決してありません。自分の将来のためになることを見極め、全力で取り組みたいと思います。そう決意できたのはきっとあなたの言葉があったからでしょう。ありがとう。

 もしも明日のあなたが同じように思わなくても、その瞬間瞬間にあなたの心に何か響くものがあればと願ってやみません。
 願わくは、今の私があなたの一瞬を奪えますよう。

高橋涼子

 ◇ ◇ ◇

 最後の一通はそれまでとは明らかにトーンが違っていた。この手紙が書かれてからはおそらく何十年も経っているにもかかわらず、その熱気は私にまで届いてきて私の心を揺さぶった。まるで、そう、まるで恋文のようだと思った。

 この手紙に対して母は一体どのように返したのだろうか。もしやこの封のされた、母から高橋涼子なる人物に宛てた手紙がその返事だったのであろうか。ならば、何故渡さなかったのか。好奇心がもう何十年と封印されたままの母の手紙を開けさせようとする。しかし、きっとこれには母が一生捨てることができなかった、そして封印したかった想いがこめられているに違いない。それを私が開封してしまうのか。
 手にした封筒を何度も裏返し、蛍光灯に透かしてみたりもする。中には手紙以外にも何か入っているようで、指で押してみると布のような柔らかなものを感じる。何度も封に手を掛けてはためらう。

 私が家を出るまで、母とは対立ばかりだった。家を出てからは顔を合わせることすらしなかった。葬式で涙を流すことも無く、親孝行らしいことなど一つもしてこなかった。そこに罪悪感など少しも湧かなかったが、母の秘密を秘密のままにしておいてやることくらいしてやってもいい気がした。

 私は出していた手紙を元通り封筒に入れ、古びた小箱に納めると誰の目にも留まらぬよう母の衣服にくるんだ。出していた他の遺品も元通り押し入れにしまい、衣服にくるまれた小箱を持って母の部屋を出た。廊下はしんと静まり返っていて、居間の方から漏れ聞こえてくるテレビの音が小さく響いているだけだった。そこに誰もいないことを確かめると、足早に自室に戻った。

「それ、持って行くのか」

 声を掛けられたのは鞄にそれを詰め込んでいるところで、心臓が跳ね上がった。見れば父がいつの間にか入り口に立っている。びくつかなくてよかった。なんとか平静を装い、鞄のジッパーを手早く閉めた。

「うん、これだけね」
「そうか」
「じゃあ、もう帰るから」
「ん。気をつけて帰れよ」

 珍しく気遣わしげな言葉を投げかけられてむず痒い。「線香あげていくわ」だなんて言い出してしまったのは、きっとそのせいだ。
 おまけに仏壇に手を合わせているところへ、「真琴」なんて呼んでくる。「お前」はともかく「おい」が二人称だと思っている節のあるこの人に名前を呼ばれたのは、この帰省で初めてだった。振り向くと、あちらも気まずげな顔で頬を掻いている。

「たまには顔出せ」
「……うん」

 殊勝にも頷いて見せた私は、元の生活に戻るべく実家を後にした。
 最寄りの駅までは歩いて十五分。三十分おきに出る列車は、次は何時発だったか。ケータイを取り出し、時刻を確認したが、どうせ待ち時間が変わるわけでもないかと発車時刻までは調べなかった。すると、前から喪服姿の女性がやってくる。自然とその人に目が行った。母と同じか少し若いだろうか。ショートカットが良く似合っていて、涼やかな切れ長の目が印象的だった。おそらくは我が家へ向かうだろうその人は視線が合わさった瞬間、足を止め、目を丸くして「小夜子」と呟いた。

「母のお知り合いでしょうか」

 何故か私はその人に話しかけていた。普段なら素通りしていただろうに、あの手紙を読んで感傷的になったのかもしれない。「私、支倉小夜子の娘です」と付け足すと、その人は慌てたように目をしばたかせ、改めて挨拶をしてきた。

「あ、失礼しました。あんまりお母様によく似ていらっしゃったから。私小夜子さんの古い友人で高橋と申します。このたびはご愁傷様でした」

 その姓にはっとしたが、「高橋」なんてありふれた姓だし、変わっていることの方が多いのだと思い、気を取り直す。

「いえ、こちらこそ失礼いたしました。わざわざ足を運んでくださり、ありがとうございます」
「たまたま友人と話す機会があってお母様が亡くなられたと聞いたものですから、お葬式に間に合わなくて申し訳ないとは思いながら、ご焼香だけでもと伺わせていただきました。これからおでかけですか?」
「いえ、私は自宅に戻るところなんです。家には父がおりますのでどうぞ焼香してやってください」
「あら、こんなところで足止めしてしまって悪かったかしら。ごめんなさいね。それじゃあ、失礼します」

 そう会話を切り上げて、会釈をして立ち去ろうとするその人を私は再度呼び止めていた。

「あの。母とはどういうお知り合いだったんですか? もしよろしければお聞かせくださいませんか」

 私の不躾な質問にその人は嫌な顔一つせず、もう一度向き合うとにっこりと笑った。切れ長の目が細められ、薄い唇が弧を描く。とても美しい笑い方をする人だった。

「あなた、見た目はお母様そっくりなのに、中身は違うのね」
「す、すみません。失礼とは思ったのですが」
「いいのよ。私とあなたのお母様とは高校のときのクラスメイトだったのよ。ずいぶんよくしてもらってね、でも喧嘩してそのまま私が転校してしまったものだから、喧嘩別れみたいになってしまって。それ以来会うことも無かったのだけれど、本当にたまたまその頃の友人と会う機会があってお母様の事を聞いたものだから、こうしてのこのこ顔を出したってわけなのよ。あの人のことだから今更なんだ、って怒られちゃいそうね。お葬式にも間に合わなかったし」

 明かされた母との関係その快活な話し振りに、私はこの人があの手紙の主だと確信した。死してようやく再会を遂げられた二人に声が詰まりそうになった。

「いえ、きっと母も喜ぶと思います。どうぞ会ってやってください。呼び止めてしまってすみませんでした」
「こちらこそ、長々と話してしまってごめんなさいね。それじゃあ、失礼します」

 もう一度お辞儀をすると、その人は家のある方に向かって歩き出した。ぴんと伸びた背筋が若々しく、立ち去るその人の後ろ姿をしばらく見送ってから、私もその場を離れた。
 鞄の中にある母の手紙は渡そうとは思わなかった。あれは、母が生涯守り続けた秘密。私が勝手に暴いていいものではないのだ。駅に向かう道を踏みしめながら、母の秘密を今度は私が一生守る決意をしていた。


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