印象

27

 ◇ ◇ ◇

 高橋涼子様

 手紙、ありがとう。
 もうこんなやりとりはしないだろうと思っていたので、とても驚きました。
 手紙を読んで、あなたのあの時の言葉の意味は少しわかったような気がします。
 ですが、正直なところ全て納得はしていません。
 納得はしていませんが、やはりあなたとわかり合いたいと思いました。私もあなたと過ごした時間が無駄だったとは思いたくない。前に言ったことは撤回させてください。

 あなたの言うように、確かにこの先のことはわからない。
 けれど互いに繋がっていたいと思い続けていれば、本当の意味で離れてしまうことはないと思う。
 そんな風に思い続けられるのかと言われれば、信じてとしか言いようがありません。
 むしろそれを疑われてしまっては、「今」の自分すら認めてもらえてないようで悲しいです。

 この先もずっと、できれば命が尽きるまで、私はあなたと過ごしたい。終わりの時など考えたくない。
 今日の私が思うように、明日の私も、その先の私もあなたのことを想うでしょう。あなたの「今」が残した瞬間を私は永遠に抱き続けるでしょう。
 できればあなたも同じであることを願います。

 水野小夜子

 ◇ ◇ ◇

 始業式を終えて、少女たちはぞろぞろとそれぞれの教室に戻っていく。そんな彼女たちでひしめく廊下は談笑し合う声でかしましい。
 その多くの少女たちの中に小夜子の姿もあった。幸代と真紀子とで校長の長話について文句をこぼし合い、休み中に誰それが髪を切ったなどという話題を交わし合い、人の流れに任せてぶらぶらと歩いていた。
 教室に辿りつけばその中も廊下とさして変わりなく、それぞれが思い思いに席に着いたりたむろしたり、教室内の冷えきった空気もものともせずに楽しげな声が満ちていた。その中をつるりと小夜子は見渡して、ひとつぽつんと空いた席に目を留める。

 ――まだいない。

 式に出ないのはさもありなん。けれどそれが終わる頃には顔を出すと思っていた。何食わぬ顔でいつの間にか現れ、どこかの会話の輪に混じっているのではないかと思っていた。けれど小夜子の思い描いた姿は教室のどこにも見当たらず、ひとつの荷物も置かれていない机がぽつんと浮いて見えた。その空席を横目に幸代の後に続いた小夜子は密かに胸に手を当てる。そこに納められた手紙とハンカチを指先に感じると、づくんと鈍く胸が詰まる。
 どうしてこれはまだこんなところにあるのか。伝えるべき言葉はここにあるのに、伝えるべき人にそれが手渡されていないのはどういうことなのか。今日こそはと思って身構えていた小夜子は、友人たちの会話に混ざりながらも教室の入り口ばかりを気にしていた。しかしそこに求める姿が現れるよりも早く、担任教師がやってくる。がらりと扉を開けて、ぴしゃりと閉めてしまう。

 すたすたと教壇に向かう担任教師の姿を確認した少女たちは蜘蛛の子を散らしたように自席へと戻っていき、それをぐるりと見回した教師は何事もなくホームルームを始めた。

「はい、みなさんお久しぶりです。今年もよろしくお願いします。今日から新学期、正月気分はしっかり切り替えていきましょう」

 そう前置いて、宿題の提出や今学期の予定について話を進める。小夜子が目を離せずにいる、ぽつんと空いた机のことなどまるで気にも留めない。淡々と進む話が耳を通り抜けていくたびに、小夜子の胸はざわついて仕方がなかった。何かがおかしい。妙に息が詰まり、鼓動が早まる。胸に手を当て、平坦でかさつく感触を確かめる。それは確かにそこにある。そしてついに、教師はそれまでと変わらない口調で決定的な事実を突きつけた。

「えー、それから、高橋さんは家庭の事情で転校されました。最後、風邪をこじらせて休みが続いてしまったわけですが、終業式の日も皆さんとは普段通り接したいとのことで、前もって連絡することはしませんでした。突然のことで驚いたでしょうが、高橋さんの気遣いを汲んで、皆さん普段通りを心がけて今日からの授業に臨んでください」

 もちろんそれで普段通りにできるわけもなく、教室は大きくざわめいた。叫び声すら入り混じる驚愕がひしめき、周囲で顔を見合わせ口々に驚きを共有しはじめる。大声で教師に質問を投げつける子も中にはいたが、彼女はまったく取り合わなかったから騒ぎはますます酷くなるばかりだった。その中で一人息を飲んで教壇を見つめていた小夜子は、後ろから肩を叩かれて我に返った。

「小夜子、知ってた?」

 問うてくる級友に首を横に振ってから、ようやく先程の教師の発言を反芻した。涼子が転校? まさか、なんで、嘘だ、そんな馬鹿な。頭の中を否定の言葉が駆け巡る。けれどどうしても小夜子の目に入ってしまう教室の中ほどにある空席は、教師の言葉をしっかりと裏付けていた。
 指先が酷く冷えて震える。やたらと心音がやかましく、耳鳴りがして、教室のざわめきが酷く遠くに聞こえた。
 にもかかわらず、小夜子は話しかけてくる級友に何事かを返していた。自分が何を聞き、何を話しているのかもわからないのに、口だけが勝手に動いている。意思や思考とはまるで無関係に、身体は何事もないかのように振る舞った。

 その不思議な状態から抜け出させたのは、二つ続いた破裂音で、音のした方を見て初めて小夜子はそれが担任教師が手を打った音なのだと気が付いた。その音は小夜子だけではなく教室中の注目を集め、蜂の巣をつついたような騒がしさを見事に静めた。

「まあ気にするなというのも無理な話でしょうが、噂話もほどほどにして。今配ったプリントのこと説明しますからちゃんと聞いててくださいね」

 何枚かのプリントを配り終えていた教師は苦笑を浮かべつつ、話をそちらに切り替えていった。教室のざわめきもそれでひとまず終わったけれど、小夜子の胸のざわつきは収まるどころか酷くなるばかりだった。
 教師の声などもう耳に入らない。「小夜子」と呼んだ涼やかな声。差すような熱を帯びた瞳。美しい、本当に美しい完璧な笑み。冷たい雨の中を駆け抜けていく真っ直ぐな背中。手紙を手渡してきたときの涼子の全てが、つい今しがた目にしたかのように鮮烈に脳裏に浮かび、繰り返される。
 涼子がいないという事実はそれらの記憶とあまりにもそぐわない。だって残されたあの手紙に対する返事はまだここにあるのだ。小夜子が伝えるべき、涼子が受け取るべき言葉は全てここに留まったままなのに。

 ――そうだ、伝えるべき言葉の詰まった手紙はここにある。

 そう小夜子が思い至ったときには、教師は連絡を終えて教室を出て行かんとするところだった。椅子を鳴らして立ち上がった小夜子は、すぐさまその後を追う。狭い机の間を小走りですり抜ける小夜子を、何人かの級友は振り向いて見上げたけれど、それを小夜子が気にすることはなかった。人の少ない廊下を行く教師の背中に声を投げる。

「先生!」

 足を止めて振り向いた教師は、駆け寄る小夜子に少し目を丸くした。どうしたの、と口に出すより早くその目が問うていた。

「あの、高橋さんのことなんですけど……」

 その目での問いに小夜子が答えると、ますます彼女の疑問は強くなったようだった。しっかりと小夜子に向き直り、正面に見据える。真っ向から視線を受け止めて、小夜子はこくと唾を飲む。

「引っ越し先の住所か電話番号って教えていただけませんか?」

 思い切って一息に尋ねると教師はまた一層大きく目を見開いて、それから眉尻を下げると口に手を当て、不明瞭な相槌を打った。

「何か用事があった?」
「用事というか、渡したいものがあって……」
「そう……、そうねえ……私から送るのでは駄目かな?」
「え?」
「高橋さんからね、誰にも連絡先を教えないでほしいと頼まれてしまってね……。ほら、色々噂のある子だったから私も納得して引き受けたんだけど、やっぱり引き受けたからには徹底しないとまずいでしょ? 何か大事なものなら、私から送っておくけど」

 確かに大事なものだった。けれど人の手を介して送られるわけにはいかないものだった。そして教師が想定していたものと同じものだと思われてはたまらないものだった。スカートのひだを指でいじり、いえ、あの、としばらく口ごもるうちに小夜子の視線は下へ下へと落ちていってしまう。
 終業式の日はあの雨の日以来の待ち望んでいた機会だったというのに、どうして涼子に手紙を手渡せなかったのか。思い返してみれば現れたはずの涼子は小夜子と視線を交わすことすら一切なく、知らぬ間に現れて知らぬ間に去っていた。そして連絡先を誰にも教えないでほしいと教師に頼んだ涼子。それが意味するものとは。
 いじっていたスカートをくしゃくしゃに握りしめて、強張る頬を引きつらせ、小夜子は何とか笑う形に唇を歪める。そして最後に――ハンカチを、と掠れた声でようやく呟いた。聞き取りづらかったのか、教師は「え?」と尋ね返す。

「ハンカチを……借りたままだったんです」
「ああ、ハンカチ……」
「でも高橋さん、返さなくていいとも言っていたので……やっぱりいいです。すみません、呼び止めてしまって」

 勢いよく頭を下げると小夜子は教師の返答も聞かずに踵を返した。づくん、づくん、と胸がうずく。そのせいで息も上手くできていない。震えるような息を吐き出して、大股でその場を立ち去ると、教師の足音が重なり始め、それも遠ざかっていった。振り返ることなんてできなかった。もう一度呼び止めることなんてできなかった。そうしたい気持ちを振り切るように、小夜子は目を伏せ教室に向かう。
 すると目的の手前で扉に行く手を阻まれる。先程小夜子が出て行った後、誰かが閉めたのだろうか。冷たく冷えた指を扉にかけたとき、ふと視線を上げた小夜子はガラス越しにその中を見た。

 何事かの話に興じる幾つかのかたまり。次の授業の教科書を机に出している人。やっきになって完成していない宿題に取り組む人。眠気に負けて机に突っ伏す人。
 そこにあるのは何も変わらないいつもの風景。涼子の不在はあまりに日常に溶け込みすぎていて、今までとの違いを感じられなかった。もうじき次の授業の教科担任がやってきて、いつものように授業が始まる。そうして級友たちは何も変わらない日常を過ごしていく。小夜子もまた生真面目な委員長として折り目正しく過ごし、友人たちと笑い、穏やかな日常を取り戻していくように思えた。それが容易に想像できた。まるで高橋涼子という人物など最初からいなかったかのようだった。

 けれど、確かにいたのだ。真っ直ぐに背筋を伸ばして一種異様なオーラを纏った少女は、あの圧倒的な存在は、確かにこの教室に。
 その証拠に小夜子の胸ポケットの中には涼子に宛てた手紙が入っている。

 小夜子は教室の中に入ってしまいたくなかった。その中に溶け込んでしまいたくはなかった。づくん、と胸がうずく。それはもう痛みに等しいものだった。扉にかけた指を離し、一歩二歩と後ずさる。そして冷たく震える指をぐっと握り込んだのをきっかけに、扉に背を向け駆け出した。づくん、づくんとうずく胸の痛みも、上手く息ができないことも、走ってしまえば当たり前のことのようで嫌になったけれど、走らずにはいられなかった。早く、早くあの場所へ行かなければならなかった。

 息を乱し、鼓動を早め、小夜子は重い扉をぐっと押し開き、大きな音がするのも構わずに階段を駆け上った。扉の向こうは中よりも一層寒かったけれど、この季節には珍しく、風の少ない穏やかな日和だった。駆け上った階段を折り返したそこには暖かそうな陽だまりができていて、そこに腰かけた長い髪の美しい少女が切れ長の目を上げて「小夜子」と笑いかけていてもおかしくはなかった。けれどそこには誰もいなかった。
 またづくんと胸が痛んで、荒い息を吐きだしよろめきながらそこに腰かけた。うずくまり、胸を押さえる。するとかさりと乾いた感触がして、余計に痛みは増してしまった。ぐっと歯を噛みしめて小夜子はそれに耐える。

「どうして……」

 呟いて、それが誰に向けたものなのかわからなくなる。涼子の遠回しな拒絶を非難しかけて思いとどまる。
 どうして伝えさせてくれなかったのかだって? 受け取ってもらいたいのならば自分から何かをすれば良かっただけではないか。もっと早く、そう、渡そうと思えばすぐにでも家に押しかけて手紙を渡すことだってできた。電話をかけて伝えることだってできた。涼子はあの手紙で二人の時間の終わりを示唆していたのに、何も行動に移さなかったのは小夜子自身だった。この場所以外で、二人きりでないときに、「小夜子」と呼ばれて戸惑ったのは自分だった。誰かに二人の関係を知られてしまうことを避けていたのは自分だった。

 距離を置き続けたのは涼子ではなく、自分ではなかったか。涼子に淡い幻想を抱く他の子たちと自分は違うと思い込んでいたけれど、秘密の共有に酔いしれていた自分は、一体彼女たちと何が違うだろう。それでどうして、この先もずっと想いあえると信じられるだろう。小夜子は一度も涼子に「好き」と言ったことがなかったではないか。そんなことも気付かずに、小夜子はこの場所で涼子をなじったのだ。それでも尚、「好きだ」と言ってくれた涼子を置き去りにしたのだ。

 厚顔無恥な自分を恥じ、後悔ばかりが募る。胸に当てた手を握りしめると、また手紙がかさつく。今、ここにある手紙に書かれた言葉は全て空虚で意味のない言葉に思えて仕方がなかった。もう、これを涼子の目には触れさせたくなかった。

 いっそ破り捨ててしまおうかと、小夜子は胸ポケットに手を入れる。けれど取り出した封書の中にはハンカチも一緒に入っていて、便箋と一緒に取り出した、二人の始まりを彷彿とさせるそれを目にしてしまったら、小夜子が手紙を破り捨てることなんてできるわけもなかった。だって、やはりそれを書いたときの気持ちは、決して嘘偽りのない真摯なものだったのだ。

「こんなの、ずるいよ……」

 目を閉じれば、細められた切れ長の目が、口角を美しく持ち上げた薄い唇が、決して日に焼けない白い肌が、長く艶やかな髪が、ふっくらと柔らかい耳朶が、ほがらかに笑う声が、細く冷たい指が、次々に浮かぶ。そして何より、戸惑いなく雨の中に飛び込んでいった真っ直ぐな背中。
 これから日常に溶け込んでいく小夜子が、いつまでそれらを鮮明に思い浮かべられるだろう。そんなことにおびえる思いをするくらいなら、いっそこの場所で決裂したままにしておいてほしかった。

「涼子はずるい……」

 あのとき言った言葉を繰り返し、小夜子は返すはずだったハンカチをまた重く湿らせる。熱い瞼の裏には、美しく伸びた真っ直ぐな背中がくっきりと浮かんで離れなかった。
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