印象

26

 いつの間にこんな奴になったのだろう。いつの間に自分のしたいことを、したいときに、したいようにすることができなくなったのだろう。
 そんなことを涼子は考えた。そして今の自分を一年前の自分と比べてみた。
 身長、体重、体格から始まって、興味のあるもの、家族に対する感情、他人との接し方など、違いはいくつか見つかった。多くは有意義で有益で打倒なものであるように感じられた。ではそれはいつ変わったのだろうかと考えた。いくつかははっきりとした答えが見つからなかった。いつの間にか気付かないうちにひっそりと変わっていく自分を思うと、どういうわけか妙な焦りを感じた。こんなことは初めてだった。自分が変わっていることを感じたことは今までにもあったのに、そのときには、ああ、そうか、としか思わなかったのに、今の涼子は焦燥感に追われて仕方がなかった。どうしてか怖くて仕方がなかった。

 馬鹿みたい――涼子は嘆息し、白く変わったもやが消えるのを見届けてから薄暗い空を見上げた。

 午前最後の授業が終わる間際に降り始めた雨は、強まるでもなく弱まるでもなく、延々と今に至るまで糸のような軌跡を描いて降り続けていた。本日の午後の降水確率は90%なのだそうだ。屋外での昼食を諦めた涼子は、教室で一緒に食事をすることになった級友たちの会話からその情報を得た。ここのところ習慣化し始めていた天気予報の確認を、今朝の涼子はしていなかった。雨は朝には降っていなかったから、傘は持ってきていない。糸のような雨滴が地面に当たって砕ける様をぼんやりと見つめる涼子の横で、いくつもの傘の花が咲いては去って行った。

 そうして締切になっているガラス戸に背を預け、湿った寒気に身を晒していると、いがらっぽさを喉に感じた。ごほんと一つ咳払いをすれば、一つでは治まらずに三つ四つと咳が続く。先日、外で長時間打ちひしがれていたのがいけなかった。その日帰宅したときにはすでに喉に違和感があって、そのままずるずるとすっきりしない体調が続いている。そんなことになるまで考えこんでも、結局答えを見つけることはできていなかったというのだから、己の馬鹿馬鹿しさにはほとほと呆れてしまった。涼子がやっと答えを導き出せたのは、昨夜のことだ。

 きっかけと呼べるものはなかった。ただ、いい加減痺れを切らした担任から厳しく催促されたこともあり、とりあえずの気持ちで涼子は進路調査票を書き上げることにしたのだった。鼻をすすり、空欄を埋めるべきなにかを探した。いい加減に書いて済ませることはできず、随分と悩んだ。やりたいことならいくらでもある。興味のあるものなら数えきれない。けれどその一つ一つに対して、何年か経った後も同じ気持ちを抱いていられるかと言えばまるで自信がなかった。どれを選べばいいのかなんてわからない。選んだもので成功できる自信もない。なにものにもなれる可能性を秘めているはずの涼子は、なにものにもなれる気がしなかった。それでも決めなければならなかった。もう逃げるわけにはいかないと、散々悩んだのち、覚悟を決めていくつかの候補から選んで書き入れた。

 そうすると自然と引出しに手が伸びた。そこから便箋を取り出して、小夜子に手紙を書く気になっていて、途端にそれまで悩んでいたことが馬鹿らしくなった。これが自分の今したいことなのだ。先のことはわからないと言うのなら、今したいことをすればいい。それだけのこと。そんなことは今まで考えるまでもなく涼子がやって来たことだった。まだかろうじてそれを思い出せたそのうちに、涼子は手紙を思うままに書き上げたのだった。

 通りの悪い鼻をすんと鳴らして、胸の内ポケットのある辺りに手を当てる。平坦でかさついた紙の感触を確かめて、立ち込めた雲を見上げた。さすが降水確率90%だけあって、雲には少しも隙間は見当たらなかった。素晴らしいお膳立てだ。
 密かにほくそ笑んでから、涼子は視線を巡らせる。次から次へと流れ出てくる生徒の向こうに見慣れた三人の姿があった。きっと雑踏の中でかすかな声を聞き咎めたからそちらを見たのだと、涼子は合点しながら靴を履きかえる三人を目で追い続けた。
 談笑を交わし、下駄箱に上履きを入れ、代わりに出したローファーを下に置く。それぞれに屈みこんでローファーの踵に指を入れ、それから三人が揃ったところで歩き出す。
 行き交う人の合間から、それをつぶさに見ていた涼子は、三人が近づいてくるのに合わせて、ガラス戸から背を離した。小夜子はちらりとそれを気にしながらもそのまま前を通り過ぎた。傘を広げようと立ち止ったところへ声を掛ける。

「小夜子」

 名を呼ばれて振り向いた小夜子は目を丸くしたのち、うろうろと視線を泳がせた。人のいる場で姓ではなく名を呼ぶのは初めてだ。小夜子の脇に控えていた友人二人も何事かと顔を見合わせている。それでも涼子は小夜子だけを見つめ微笑みかける。
 進路調査票を提出した時、振り向いた涼子は小夜子が目を逸らすところを見ていた。自分が示せる誠意は示した。距離を縮めたいと言うのなら、今ここでそうしてみせよう。そして今だけではなくこの先も近くに居続けたいと言うのなら、それを信じさせてみればいい。
 涼子は胸元から取り出した手紙を挑戦的に突きつける。今の涼子の、いいや、昨夜の涼子の率直な気持ちを綴ったものを、小夜子の前に突きつける。

「これ読んで」

 小夜子は呆然と涼子の唇の動きを見て取って、それからゆっくりと突きつけられた簡素な封筒を見下ろしていく。けれど小夜子の両手は傘と鞄とで塞がっていて、すぐにはそれを受け取れそうになかった。だから涼子はその手紙を制服のポケットに差し入れてやった。小夜子と二人の友人たちの視線がそこに集まる。それがなんだか可笑しくて、涼子はふふと笑って、髪を耳に掛けた。返事は待たなかった。ただ、じゃあね――とだけ言い残し、糸のような雨滴が無数に垂れるその中へ飛び込んだ。

 ◇ ◇ ◇

水野小夜子様

 先日私の言ったこと、少し言葉足らずだった気もするのでその弁解と、自分の気持ちをまとめる意味もこめて手紙を書こうと思います。

 小夜子の言うように私たちは考え方が違うのでしょう。けれど私はあなたが考えていることを理解したいとも思うし、過ごしてきた時間も無駄だったとは思いません。
 違っているからこそ、私は小夜子と一緒にいる事が楽しかったし、自分をより良くできる時間を過ごせたと思っています。
 そんな時間がいつまでも続けばとも思いますが、私たちはまだまだ子供で、卒業後どうなるかもわからず、どのように成長してくかもわからず、また自分の意思とは無関係に、唐突に、この楽しい時間を奪われてしまうことだってあり得るのです。
 やはり私はこの先のことはわかりません。

 だから「今」を生きる事に全力を尽くしたいのです。明日のことを考えて今を無駄にするようなことはしたくないのです。
 そして私がそうであるように、あなたにも「今の私」をあなたの心に焼き付けて欲しいのです。
 もちろん将来のことを軽んじているわけでは決してありません。自分の将来のためになることを見極め、全力で取り組みたいと思います。そう決意できたのはきっとあなたの言葉があったからでしょう。ありがとう。

 もしも明日のあなたが同じように思わなくても、その瞬間瞬間にあなたの心に何か響くものがあればと願ってやみません。
 願わくは、今の私があなたの一瞬を奪えますよう。

高橋涼子

 ◇ ◇ ◇

 師走の冷たい雨はたちまち制服を濡らしていき、校門を出るときには既にその冷たさを感じ取れるまでに染み入っていた。上着が重みを増していく。揺れるスカートが足にまとわりつく。たなびく髪が額や頬にやたらと貼りつく。地面を蹴るたびに靴下から滲んだ水が足指をふやかしていく。全身を濡らす雨はぐんぐん体温を奪っていき、手が痛いほどにかじかんだ。追い越された人たちは何事かと目を丸くする。こんな季節に雨の中を走るのは、とても不快だった。やっぱり天気予報は確認するものだ。

 ――ああ、馬鹿みたい。

 ほんの半年前に立ち戻って同じようなことをしてみたものの、あまりに馬鹿らしい行動が可笑しくって仕方がなかった。それなのに雨宿りをしようという気にはならなかった。こみ上げる笑いを呼吸に変え、息を切らし、心臓を強く鼓動させ、涼子は不快な雨の中をひたすら走っていった。

 その晩涼子は熱を出し、くるまった布団の中でぐったりしながらこんな馬鹿げたことはこれっきりだと心に決めた。
 熱は帰宅した母が体温計の数値を見て唖然とするほどで、涼子の熱が引くまでには日数を要した。

 三日目の晩、浅い眠りを繰り返していた涼子は物音に気付いて目を開けた。部屋に細い明かりが差しこんでいて、その幅は少しずつ広まっていった。光の中に人影が見える。誰かなんてもうとっくにわかっていた。足音を忍ばせ入ってくるのを確認した涼子がゆっくりと身を起こすと、あ、と声がした。

「電気、点けていいよ」
「寝てなくて大丈夫?」
「うん、寝すぎて背中痛くなってたところだし」

 そう、と返事が返ってきて、かたりとものを置く音がしたのち二、三度明滅して部屋に明かりが灯された。入口近くのスイッチに手を伸ばしていたのは母だ。寝込んでから毎日そうであったようにテーブルには食事と水と薬が用意されていて、首を鳴らしつつベッドから這い出した涼子はありがたくそれらをいただくことにした。すると背中に寒気が走る。熱を出してから目を覚ましテーブルの上に置かれたものを見るたびに感じていた、これは熱のためだと言い聞かせていたもの。重い手を伸ばし、水の入ったグラスを手に取り乾いた喉を癒すと、それはますます強くなる。

「熱はどう?」
「どうだろ、夕方測った時には37度ちょっとまで下がってたけど。でもだいぶ体は楽になって来たよ」
「そう……食べられそう?」

 グラスを置いて、涼子が小鍋の蓋を開けたところで、母はテーブル近くに腰を下ろす。今日はうどんだった。熱が引いてきたせいか、空腹感はきちんと感じられた。うん、と頷き添えられていた小皿にうどんを取るとふうふうと息を吹きかける。うどんをすすり上げながら、涼子は部屋を去ることのない母のことを横目で窺っていた。
 ――これは、来たかもしれない。

「母さん、どうかした?」

 一口目を嚥下し終えてから、未だそこにいる母に顔を向けた。正座したまま肘をさすり、うつむいていた母が、それで目を上げる。汗でぎとついた涼子を見て瞳を揺らす。何? と問い直してようやく、母は意を決したようだった。本当は――神妙な声を出し、肘をぎゅうと抱えるようにして引き寄せる。

「本当はあなたが具合の悪い時に言うようなことではないと思うんだけど、やっぱり今言っておかないといけないことだと思うの」
「何、父さんのこと?」

 言い訳じみた前置きに痺れを切らし、涼子が先んじて尋ねれば、母は僅か目を剥き、息を飲み、それから嘆息して小さく何度か頷いた。

「そう、お父さんのこと。それから母さんと、あなたのこと」

 涼子が箸を置くと、母は「食べながらでいいのよ、のびちゃうわ」と苦笑したけれど、「ちゃんと聞きたいから」と言って首を横に振った。母が浮かべた安堵の表情を認めた涼子は、背中がぞわぞわして仕方がない。言い様のない焦燥が押し寄せてくる。

「母さん、今度責任ある仕事を任せてもらうことになってね、それでそのためには引っ越さなくちゃならないのね」
「うん」
「それで、これを機にお父さんと別れようと思ってる」
「うん」
「三日後にお父さん山から下りてくるから、その時に話をまとめることになったんだけど」
「うん」
「あなたは……」

 要点だけを淡々と話していた母は、涼子の話になると途端に言い淀む。

「学校のこともあるし、あなたはここに残ることもできる。ただね、母さんは……」

 言ったきり口をつぐんだ母を見て、受け取ることができていない小夜子からの返事を思い浮かべている自分に気づき、涼子は――もう駄目だと思った。
 母が続けようとしたことを無碍にできないと思っているのはまだいい。けれど、なんということか。涼子は残るための決断を、またしてもひとに委ねようとしてしまった。答えを出すのは小夜子からの返事を聞いてから、だなんて考えていた。
 もう涼子は自分のしたいことだけを、自分の意思だけでしたいようにはできなくなっているのだ。この先の自分がこれ以上小夜子の傍にいても、小夜子の中の自分をぼやけさせ、かすれさせるだけだ。なにものにもなれる可能性を秘めていたはずの涼子は、既になにものかになれるいくつかの可能性を失っているのだ。何かを身に付けた分だけ、別の何かを失っているのだ。もはや小夜子が惹かれた当初の涼子ではなくなっているのだ。
 幻滅され、関心が薄れ、小夜子の中から徐々に自分が消えていくのはどんなだろう。この先の自分を小夜子の前に晒すことなど耐えられない。小夜子の中で消えゆく自分を目の当たりにするぐらいなら、像が明確である内にいっそ消えてしまいたい。希薄に存在するよりも、劇的な消滅を!

「母さん、私、母さんについて行ってもいい?」

 母が最終的な問いかけをするより前に、涼子は答えのわかっている質問をした。母はまた目を剥き、息を飲み、小さく細かく何度も頷いた。

「ええ。ええ、もちろん」
「いつ引っ越すの?」
「母さんは年明けから向こうに行かなくちゃならないけど、涼子は年度初めにでも……」

 あからさまに声を明るくした母が言いかけたのを涼子は遮る。それでは駄目だ。もっと早く。幕切れは速やかに、出来ればもう二度と学校には行かないで済めばいい。
 こんなやり方は馬鹿げている。どうせ去っていくのなら、小夜子に友人たちの前で気まずい思いなどさせなければよかったのだ。わざわざもう一度近づいてみせる必要などなかったのだ。涼子の勝手な振る舞いを小夜子は恨むかもしれない。憎むかもしれない。幻滅するかもしれない。それでもこうしないわけにはいかない。

「いや、一緒でいいよ。それは無理?」

 この衝動に突き動かされる自分であれるのは、もうあと僅かだとわかっていた。焦燥に駆られても、もう恐怖は感じていない。ただただ一つの事だけを涼子は願う。気ままで、自分本位で、子供染みた涼子の「今」が小夜子の中に残ればいい。恨まれようと、憎まれようとかまわない。例えそこにどんな感情が伴なおうと小夜子の脳裏に焼き付いて離れない一瞬であれ!
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