印象

23

 担任から一人一人に手渡された小さな紙片。教室には悲喜こもごもの表情があふれ、甲高い声がさざめき立つ。前後左右の席同士で笑い、あるいは打ちひしがれている生徒たちを見渡して、担任教師はとん、と手元の書類を揃えた。

「それではテスト結果が気になるのもわかりますが、先程配ったプリントの提出期限も忘れないように。じゃあ、水野さん」

 小夜子の名を呼んで、教師は終業の合図を求める。起立、礼。ありがとうございました。形ばかりの礼を済ませると、担任教師はぱたぱたとスリッパを鳴らして教室を後にし、生徒たちは一斉に動き出す。教室内にいくつかのかたまりができていく。
 そんな教室の中ほど。自席から自らが入るべきかたまりに向かう道すがら、小夜子はすでに帰り支度を始めている涼子のところに立ち寄った。気配を感じたのか、すい、と切れ長の視線が持ち上がる。その目を見降ろして、

「順位、どうだった?」

 周囲にあふれるはしゃいだ声たちとは対照的な落ち着き払った声で尋ねれば、返ってきた声も淡々としたものだった。

「うん、良くもなく悪くもなく。いつも通り、かな。水野さんは?」
「私は今回、数Uがいつもより上がってた。ようやく他の教科に追いついたくらいだけど」
「数学、苦手だったんだ」

 僅か頬を綻ばせた涼子につられ、小夜子も笑みが浮かぶ。うん――と答えたそのときに、小夜子は横から飛んできた別の声に名を呼ばれた。

「小夜子ぉ、ちょっと聞いて。私、やっぱり化学がひどいよぉ。追試かもしれない」

 すがるようにして幸代が腕によしかかる。目頭に当てた右腕を小夜子の肩に乗せ、大仰に泣く真似をした。小夜子は求められているだろう通りに、笑って肩のところにある頭をよしよしと撫でる。そうしてから、横目で先ほどまでの会話の相手をうかがうと、切れ長の目はすでに伏せられていて、涼子はまた鞄に荷物をしまう作業に戻っていた。いま少しの会話を諦めて顔を上げた小夜子は、もう一人の友人の姿を級友たちの輪の中に見つけ、幸代を引っ張っていくことにした。

「真紀ちゃん、どうだった?」
「あ、小夜子」

 声を掛けられた真紀子は振り向きざまに親指を立てて、にやりと笑う。

「ばっちり! 全教科、平均点前後!」
「嘘!? 真紀ちゃんの裏切り者!」

 声を荒げたのは幸代で、小夜子の隣からするりと抜け出し、真紀子の手から紙片を取り上げようとする。それをひらりとかわした真紀子は、代わりに幸代の手の中の紙片を覗き込む。

「何? 幸代、やばいのあるの?」
「化学がさあ……。今回、結構三人で一緒に勉強したのに何で私だけ……」
「それはあなた、一人でお菓子ばっかり食べてて、勉強はしてなかったからじゃないですか? 私、一人でもやってたしぃー」

 そんなの聞いてないよ、裏切りだ、とわめく幸代を真紀子はからからと笑って煽っている。その横で一緒になって笑っていた小夜子の肩を、先程まで真紀子と話していた級友のひとりが叩いた。

「ねえねえ、高橋さんから聞いた?」

 小夜子が話しかけていたところを見ていたのか、彼女は涼子の名を出した。

「聞いたって、何を?」
「高橋さん、地理の成績、トップだったらしいよ」
「え? そうなの?」
「私、テストが返ってきたときに凄い点なの見ちゃったから、あれで何位くらいなの? ってさっき訊いてみたんだ。そしたら教えてくれた」

 そういえば彼女は涼子の後ろの席だった。なるほど、と心の内で納得し、凄い、と驚きを口にした。そうしながら、テスト用紙を返すとき地理の教科担任がやたら機嫌が悪かったことを小夜子は思い出した。あの口うるさい教師が「全体的にレベルが低い」と憤っていたのは、本当は最高点をとったのが涼子だったことが気にくわなかっただけだったのだ。彼の教師の授業を抜け出すことはなくなった涼子だったが、それでも授業態度はまじめとは言えなかった。ノートを取ることはなく、授業とは別のページを開いて読んでいる。そんな涼子を目の敵にして授業の合間合間に嫌味を挟んでいた彼にとって、涼子が高得点を獲得することはさぞ屈辱的だったろう。そしてそれは彼を厭う多くの生徒にとっては、本当に胸のすく出来事であった。その中には、小夜子たちの話を聞き咎めて会話に加わった幸代と真紀子も含まれた。

「えっ? 地理って高橋さんがトップなの?」
「あんだけ授業中こき下ろしてた生徒にトップ取られて、カガミの奴、切れてるんじゃないの?」

 生徒の間でひっそりと使われているあだ名の語源は鏡餅らしく、その由来は鏡餅から連想されるような体型だからとか、更には餅のように粘着質な態度をとるからとも言われている。どちらにしても悪意のこもった地理教師のあだ名を真紀子が口にすると、一同は全く同意と笑い合った。そして気に食わない教師に一泡吹かせるという偉業を成し遂げた同級生に、そろって羨望の目を向ける。涼子はもう教室を出ようとしているところで、けれど自分に集まる視線に気づき、小さく手を振り、微笑みを返して去って行った。まっすぐな背中がドアの向こうへと消えていく。

「かぁっこいいー……」

 呟いたのは真紀子で、動きを止めてしまっていた幸代もその一言で我に返ったように笑い出す。

「高橋さんって雰囲気変わったよね。前はもっと近寄りづらかった」
「本当だよ。目が合って笑い返すなんて芸当、あの頃の高橋さんからはとても考えられなかったわ」
「すっかり愛想良くなったよねえ」
「最近あんまりいなくならないしね」

 友人たちの噂話を傍らで聞きながら、小夜子は胸の内のわだかまりに気付き始めていた。地理で学年トップだったことを、涼子はどうして教えてくれなかったのか。どうして他の人から聞かなくてはならないのか。わだかまりを抱えながら、にこにこと笑顔を張り付けていると、噂話に興じていた真紀子がぐりんと小夜子を見た。

「一体彼女に何があったのか! 連れ戻し係の小夜子さん、何かご存知ですか?」

 インタビュアーよろしく、小夜子に仮想のマイクを付きつける。突然のことに小夜子は目を丸くして少し口ごもってしまった。え、何、急に――慌てて前置きながら、質問への答えを探す。

「愛想が良くなった理由は知らないけど、最近いなくならないのは寒いからじゃない?」
「ええ!? そんな理由?!」
「あの人、そんな風に感じないでしょう」

 小夜子は至極真面目に答えたつもりだったのに、友人たちは面白そうに笑い出した。え、なんで?――笑いながら小夜子が尋ねると、笑うのがひと段落ついたらしい幸代が答えた。

「だっていつも涼しい顔してて、暑さ寒さとか感じ無さそうじゃん。うちらとは世界が違うってかんじ? あ、悪い意味じゃないよ。」

 他の二人は、わかるわかると笑いながらそれに同意していたが、小夜子は可笑しくて仕方がなかった。涼子が暑さ寒さを感じないだって。笑っちゃう。あの人は汗っかきの暑がりで、そのくせ帽子は嫌いで、それで寒さには強いかと言えば制服のポケットにはカイロを常備しているんだよ。昨日だって温かいからって私の背中に後ろから抱きついて、ぴったりとくっついていたんだよ。そう思って、けれどどれひとつ口にすることができず、結局小夜子は「何それ」と言って笑っただけだった。そして後に続く噂話を笑って聞きながら、小夜子はまたしても胸中に芽生えたわだかまりを気にしていた。
 非常階段での二人はあんなにくっつき合っているのに、何を話したって構わないのに、どうして何も話せないのだろう。テスト勉強だって涼子も誘ってしまえばいいのに、できなかった。テストの結果も詳しく聞くことができなかった。甘く楽しく過ごしているうちに、結局いつも聞きたいことが聞けずにいる。昨日だって本当は冬休みの予定を尋ねるつもりだったのに、後ろから涼子に腰を抱かれ、肩に顔をうずめられてしまったから、首筋にあたる生暖かさに鼓動を早めることに忙しくて何も聞けなかったのだ。そんなに寒かったの? だなんてどうでもいいことしか訊けなかったのだ。くすくす笑って、「うん、そう」と言ったきり黙ってしまった涼子の、静かな息遣いしか聞くことができなかったのだ。あの場所で過ごす時間はあまりにも短すぎる。それならばと他の場所で尋ねようとしても、上手くいかない。何かに文句を言いたいのに、何に文句を言って良いのか、小夜子にはわからなかった。

 他の子に呼ばれた級友が「じゃあ」と去っていくと、噂話にも区切りがついた。そうしていつもの三人になると、話は先ほど配られたもう一つのプリントのことに移っていく。そういえばさあ――そんなちょっと照れくさそうな切り出し方で話を振ったのは、真紀子だった。進路希望調査と堅苦しいフォントで綴られたプリントは、いつもおどけている真紀子すら神妙な顔つきにさせるらしい。

「進路希望かあ……。ねえ、考えてた?」
「えー? 進学ってだけしか考えてないよ」
「だよねえ。小夜子は?」
「私は……、なんとなくこの辺りかなってくらいは」
「うわー、考えてたのかあ……」

 そっかあ――揃ってため息をついた真紀子と幸代は、進路指導室を覗いてみようかと相談を始め、その相談に加わりながら、小夜子は涼子のことを想った。涼子は卒業後どうしようと考えているのだろうか。気にならないわけがない。本当はこんな話を涼子とだってしたいのだ。もっと色んな話をしたいのだ。けれどあの場所で涼子に笑いかけられてしまったら、「小夜子」と名前を呼ばれてしまったら。そうしたら小夜子はもう尋ねられないに違いなかった。

「じゃあ、明日の昼休みにでも行ってみよう?」

 幸代のその言葉で話が切り上げられると、「よし! じゃあ帰ろう!」と途端に真紀子は勢いづいた。その変わりようが可笑しく、小夜子はちょっと笑いながら帰り支度に取り掛かった。
 ふと見た窓の外には帰宅する生徒が列をなしている。風にスカートを翻らせ、マフラーに顔をうずめる人々はそこかしこに見られたが、その中にまっすぐな背中を見出すことはできず、小夜子は外を見ることをやめた。少しずつ大きくなっていくわだかまりは、飲み込むのが少し辛かった。
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