印象

22

 右手の下のすっかり冷え切った手。頬にひたりと貼りついたもう片方の手のひら。その冷たさに少し粟立つ首筋。いつになく真剣味を帯びた瞳、と唇。その二つが近づくごとに上手くいかなくなる呼吸。間にわだかまった呼気の生温さ。そして――
 乾燥気味の唇を指が撫でる。少し冷たい指先で細かな皺を確かめて、小夜子はそこにもっと滑らかで柔らかなものが触れたときのことを思い返していた。口元が緩みそうになり、慌てて頬杖を突く振りをして手で覆い隠す。更には手元のノートにシャープペンを走らせ、いかにも真面目に授業を受けている風を装った。

 教師は淡々と教科書にある文章を読み上げ、あるいは板書をし、その文法と現代語訳を説明する。そして眠気覚ましの質問を一人の生徒に投げかけ、自信なさげな解答に頷く。その解答をした級友に顔を向けた小夜子は、視線を真っ直ぐ手元に戻しはせずに、やや後方にある空席に寄り道をさせた。

 この授業が始まる前の休み時間には前の席の子と話している姿を小夜子は見ていた。小夜子の視線に気づいた目が、視線が合わさったと同時にすうっと細められたりもした。そのときには確かにそこにいたのに、何故か授業が始まる頃には姿を消していた。空席の主である涼子が教室からいなくなるときはいつもそうだった。皆と話すことのなかった頃であればまだわかるが、誰彼となく話すようになってからも誰にも気づかれずにいなくなった。まさに「姿を消す」という言葉がしっくりくる。皆の隙をつくことに本当に長けている、と小夜子は感心すらした。

 ノートの上に視線を戻すと、いつもの非常階段にいる涼子を思い浮かべる。今日は何をしてすごしているのだろう。寒くはないだろうか。階段から顔を出した小夜子を出迎えるいつもの笑顔を思い浮かべ、冷えた手を想った。そしてまた、その冷えた手が頬に添えられたときのことを思い返す。そうして熱くなる頬で冷えていた手を温めながら、小夜子は授業が終わるのを心待ちにした。

「ちょっと行ってくるね」
「ああ、はいはい。行ってらっしゃい」

 机の上の教科書類を入れ替え終えた小夜子が近づき、声をかけると、真紀子は教室を見回してから納得したように頷いた。真紀子の雑談の相手をしていた幸代も続いて――ご苦労様と手を振る。友人二人に見送られて、小夜子ははやる気持ちを抑えて廊下を進んだ。

 休み時間にたびたびいなくなる小夜子を、友人二人が不審に思い始めるのには大して時間はかからなかった。それは文化祭の興奮が冷め切った頃だ。不満げな幸代にどこに行っているのか尋ねられ、小夜子は背筋を凍らせ、生唾を飲んだものだった。けれど、覚悟を決めて涼子を――高橋さんを探しに行っているとだけ伝えると、意外にも安堵の表情を浮かべられてしまった。

「なんだ、言ってくれればいいのに」
「わざわざ呼びに行くなんて、よくやるねえ」

 それぞれの反応を示した二人は、文化祭の準備に参加しなかった涼子を説得したのと同じように、小夜子が涼子を連れ戻していると考えたようだった。実際、そういう部分もあるから小夜子も否定はしなかった。一緒に探そうかと言い出した幸代には、いつもいるところは決まっていると伝え、その場所は内緒にしておく約束だからと同行を断った。嘘は一つもなかった。
 幸代は僅かに不満そうではあったが、真紀子に独占欲をからかわれると口を尖らせて否定し、そのまま小夜子が一人であの場所へ向かうことに納得したのだった。知られてしまうことを恐れた事実の断片は、意外にも小夜子の日常になんの変化ももたらさなかった。おかげで今は堂々と例の場所に行ける。それは小夜子の気をとても楽にした。

 今にも走り出してしまいそうだった足を止め、重い扉の前で小夜子はリップクリームを唇に引いた。唇になじませ、こほんと小さく咳払いをする。そうしてから扉を押し開くと、冷たい乾いた空気に出会った。昨日よりは晴れ間が覗いているとはいえ、この日も十分寒かった。身をすくめ、両腕をさすりながら階段を登る。けれど階段に腰掛けていた涼子はといえば、平気な顔でハードカバーの本を読んでいた。小夜子を見上げていつものように薄く笑うと、本にしおりを挟み、傍らに置く。

「今日は何を読んでいたの?」

 いつものように涼子の左隣に腰掛けて、小夜子は尋ねた。

「山登りの解説本」
「涼子、登山したいの?」

 一体今度はどういう経緯で興味を示したのか、意外な答えに小夜子は目を丸くする。対する涼子はあははと声を上げて笑い、目を細めた。

「別に自分で登りたいわけじゃないよ。ただ、どんな装備が必要で、どんな危険性があって、それに対してどんな対応をするのかとか、その辺りが気になって」
「どうして?」
「どうしてって訊かれると困るんだけど」

 苦笑した涼子はうーんと唸って思考を巡らし、小夜子は興味津々で見つめたままその答えを待った。

「知り合いに山が好きな人がいるんだけど、山に登り続けるその心境が知りたいのかな。どうして大変な思いをしてまで山に登るのかって」
「ああ、それは気になるのなんとなくわかるかも」

 涼子がちょっとした興味をそのままにしない人だということを、小夜子はよく知っている。今回もそういった類のものだろうと容易に想像できた。ようやく納得して、冷え始めた手のひらに息を吐きかけ、こすり合わせる。その手元、口元に涼子の注意が集まる。

「寒い?」
「うん、結構。涼子は寒くないの?」
「そりゃあ、寒いよ」

 答えた瞬間ふわりと悪戯めいた笑いを浮かべた涼子は、ほら――と自らの手を小夜子の首筋に当てた。ひゃっ、と甲高い声が上がる。肩をすくめた小夜子は身をよじり、冷たく冷えた手からもがき逃れた。いかにも楽しげに笑う悪戯を仕掛けた張本人を、恨めしげに睨め上げる。そんなことをしても効き目がないことはわかっていた。案の定、当人は可笑しくて仕方がないという様子で笑っている。いつもはなかなか見られない、邪気のない笑顔だった。きっと小夜子の他に涼子のこんな表情を見たことのある人はこの学校にはいない。目を糸のように細くして、口を開け、歯を見せて、笑う涼子は本当に楽しげだった。だから小夜子も思わず笑って許してしまう。――もう、とブラウスの襟を正して肘で隣を小突いた。

「でも本当に寒くなってきたよ」

 笑いの残渣を頬に湛えた涼子は、かろうじてスカートに隠れた膝頭の辺りで手のひらをこすり合わせ、改めて季節の移り変わりを口にした。そうしてから二人の間にある上着のポケットをぽんぽんと叩き、存在を示す。小夜子が視線を落としたその場所に、今日は手紙は覗いていない。代わりにそこにあるものの正体を涼子は明かす。

「一応カイロも持ってきたりして対策はしてるけど、そろそろ長居はできないね。とにかくお尻が冷えて冷えて」

 冗談めかした言い様。しかしそれはすなわち、この場所で二人で過ごす時間の、二人が「小夜子」と「涼子」でいられる時間の減少を意味していた。

「授業を抜け出さなくなってちょうどいいじゃない」

 笑って言って、小夜子はなんでもないことだと思うことにした。小夜子がこの場所に来ることが、周囲から見ればなんでもないことであったように、教室で涼子と話すことだってなんでもないことなのかもしれない。だって他の級友たちも涼子と楽しげに話している。小夜子が同じようにしても変な目で見られることはきっとない。ならばここで話せなくても、他の場所で話せば良い。そうして小夜子が涼子と親しくしていることが普通のこととして浸透してしまえば、もっと二人でいられる時間だって増えるかもしれない。そうなったら良い。それはとても素敵なことだ。大体にして、涼子にとっても授業を抜け出さなくなるのは素晴らしいことなのだ。

「確かにそれは減るかもね」

 小夜子の推測を裏付けるようなことを言って、涼子は楽しげに声を上げて笑う。そんなことはなんでもないことだと認めるようにあっけらかんと笑う。階段にその声が響いて、小夜子のみぞおち辺りも揺らした。けれどその違和に小夜子自身が気づく前に、冷たい風が吹きつけた。小夜子は再び肩をすくめ、うう寒い――と呻き、両腕を抱くようにして身を縮こまらせる。
 と、涼子が寄せ合っていた肩をまた一層密着させた。そして小夜子の手を取る。冷えてしまった小夜子の手を、二人の間にあるポケットの中へと導き入れる。がさりと温かなものに触れた後、するりと冷たい指が触れた。ポケットの内側はそこに入れられていたカイロのおかげで暖かいのに、その中で握っている手は酷く冷たかった。

「涼子の手、やっぱり冷たい」
「小夜子の手はあったかいね」

 ふっと笑いを滲ませながら、涼子は小夜子と対称のことを指摘した。ポケットの中であったかいと言った手を弄んで、小夜子はあったかい――と更なる熱源を求めるかのように、頭を隣の肩に預けた。冷たい髪が頬や首元をくすぐるのも構わずに、小夜子もそこへ頬を摺り寄せる。

 ――冬のにおいがする。

 そのにおいを大きく吸い込み、はあ、と虚空に吐きかける。けれど吐きだした息は気管や喉を通りぬけたときに音がしただけで、白い姿を現すことはなかったから、小夜子は少しだけ落胆した。こうして寒い寒いと二人で言い合っているというのに、少しでも暖かくいられるように身を寄せ合っているというのに、そうまでするほど寒くはないのだと突き付けられているようだった。

「なんだ、息、白くならないね」
「うん」

 小夜子の吐いた息の行方をうかがっていたらしい涼子もまた、落胆を口にした。まだ寒くなるのか、とうんざりした声を出し、ポケットの中で小夜子の手にしっかりと指を絡めた。小夜子の肩にますます頬を摺り寄せ、身を寄せる。温くなった髪が当てた頬の下で身じろぎ、冬のにおいが強くなる。小夜子はそこに鼻を押し当て、手を握り返す。

 これからきっともっと寒くなる。ここで長時間過ごすのはつらいし、下手をすれば風邪をひいてしまう。他の場所でも話すことだってできるし、二人で会うのはこの場所に限らなくたっていい。
 それでもやはり、小夜子はこの場所で過ごす時間が、明日も明後日もその先も、いつまでだって続くように思えた。根拠などない。ただなんとなく、そんな風に思っている。この二人だけの特別な時間が毎日決まって訪れているから、この先この時間がなくなるところが想像できないというだけ。予感とすら言えない曖昧なもの。おそらくは肩にじわりと伝わり始める涼子の体温が、その曖昧なものを小夜子に信じ込ませ、代わりに明日の天気や気温を案じさせている。

 冬のにおいがする髪は、リップクリームを塗ったばかりの小夜子の唇に纏わりついた。それでも構わず小夜子が頬や鼻を摺り寄せていると、右側にある温かみがまた身じろぐのを感じた。小夜子はその僅かな動きで、これから昨日と同じ柔らかなものが唇に触れるのだと思った。それは根拠のない曖昧なもの。けれどゆっくりと自分へ向けられた穏やかな切れ長の目を見つけたときには、曖昧だったものは確信に変わり、そしてそれは確かにその通りになったのだった。
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