印象

21

 四角くあいたコンクリートの枠に肘をつき、涼子はそこから中庭を見おろしていた。しんと静まり返っていた校内が、先ほど聞こえたチャイムを境に次第にざわめき始めて、中庭の木々のさんざめく声はそれにかき消されていった。風に揺れる枝葉は随分と色づき始めていて、涼子は揺れる木の葉を眺めながら、以前気になって調べた紅葉のメカニズムを頭の中で反芻していた。これで日が差していれば心地良かったのかもしれない。けれどあいにくの曇天では吹き付ける風はブレザー越しにも冷たく感じ、なるほど確かに木々も冬支度を始めるわけだと、涼子は腕をさすった。

 と、背後から重い金属音。同時に涼子を詰問する声。

「高橋さん、授業はどうしたんですか」

 教師の言い様を真似たその声が誰のものなのかは、振り返らずともわかっていた。ふっと笑みがこぼれる。そのまま振り返り、思い描いていた人物を階下に見下ろす。

「すみません。サボりました」

 悪びれない笑みを見上げ、ふっと苦笑した小夜子は階段をゆっくりと上りはじめる。小夜子とは一日一度はここで話すことが続いている。時には肩を寄せ、時には手を握り合う。短いけれど、涼子にとってはとても貴重な時間だ。

「そんなところから顔出してたら、先生に見つかっちゃうんじゃない?」

 言われて、涼子は首だけを巡らせ外を見る。中庭を挟んだ向かい側の校舎からはこの非常階段も臨むことができる。実際、見下ろした向こう側の窓に、廊下でたむろする生徒たちや、資料片手に移動する教師の姿も確認できた。こちらから見つけられるということは、小夜子の言うように向こうからも見つけられるのかもしれない。だからと言って涼子が頭を引っ込めることはない。一言――そうかもね、と返事をしただけで、涼子はそのまま背中をコンクリートの枠に預けて、視線を戻した。小夜子は既に涼子の前を通り過ぎ、階段に置かれた文庫本を手に取って腰かけるところだった。手にした文庫を小夜子はぱらぱらと繰る。

「これ、どんな話?」
「第二次大戦時のドイツ軍スパイの話」
「へえ、面白い?」
「どうかな。途中で読む気がなくなっちゃったとだけ言っておこうかな」
「いまいちだったんだ」

 ふふっと笑う小夜子に見上げられ、笑い返した涼子はぽつりと呟く。

「前に読んだときは面白かったんだけど、不思議だね」

 印刷された文章が変わることはない。変わるとしたら面白いと感じていた、面白いと感じなくなってしまった読み手側だ。涼子にそんな気はまるでないのに、変わっているのだ。涼子のつぶやきが聞こえたのかどうか、小夜子はまた本に目を落とし、少しだけ中の文章を追い始めた。

「本を読んでなかったんなら、何してたの?」
「ん? ちょっと考え事」
「どんな?」

 ぱたりと本を閉じて小夜子が目を上げる。どうやら彼女もまた、その本には興味をそそられなかったようだった。逆に興味をそそられたのは、涼子の考え事について。興味津々のその目を見下ろして、涼子はすうっと目を細める。

「世界平和について」

 考え事。

 そのきっかけはおそらく涼子のブレザーのポケットに無造作に突っ込まれた手紙だった。薄い桃色の可愛らしい手紙はポケットの中でやや折れ曲がっていた。そんな扱いを受けているのは、その手紙の差出人が涼子の期待していた人物ではなかったからだ。文化祭の時にお話しして云々と綴られた手紙の内容は、涼子が中学の頃からよく見てきた画一的なものだった。読み終わった後は酷く時間の浪費を感じてしまう。女子校でなければこういったことは起こらないのだろうかと考え、そしてこの学校を勧めた母のことを思い浮かべた。

「あの学校に進むこと、母さんがあなたに押し付けることになった気がしたから」

 それは母の抱えていた罪悪感の吐露だった。つい先日の出来事だ。確かにこの学校を勧めたのは他ならぬ母で、確かにその当時の涼子はそのことで嫌な顔の一つもしたとは思う。中学で始まった反応に困る告白が、女子校に進むことで加速するような気がしたのが理由の一つだ。彼女たちは一様に涼子の容姿を称え、行動に憧れる。そしてそれを訴えるだけ訴えて、手紙を結ぶ。それを伝えられた涼子には何を求められているのかわからない。読後にはただただ徒労感だけが募る。大事な大事な涼子の時間を、奪われたと感じてしまう。

 何をするにしてもそこに自分なりの意義がなければ気が済まない涼子には、それが苦痛だった。時間を無意味に浪費するのをとても嫌う。逆に他人からは無駄に思えるような時間の使い方でも、そこに涼子なりの意義を見つければ大いにそれに時間を割いた。おそらくは父の影響だった。「明日が本当に来るのかなんてわからない。次の瞬間に自分の生涯は幕を閉じてしまうかもしれない。だから今できること、今したいことをする」それが父がよく口にしていた内容だった。「大人になったら」ということをよく口にする他の大人とはまるで逆のことを言う父を、幼い頃の涼子は羨望の眼差しで見上げていた。おかげで父のことを何とも思わなくなった今でも影響が残っている。

 そんな涼子に対し母は将来のことを口にして進学先を勧めた。とはいえ無理矢理に決められたなどと思ってはいない。他にやりたいこと、行きたい高校があったわけでもなかったし、面倒な告白は無視をすればよいとわかっていた。けれど、授業をたびたびサボタージュする娘を見て、母も何か思うところがあったのかもしれない。だとしたらそれはまるで見当違いの心配事である。どの学校に行ったところで、涼子の授業態度は変わらなかったはずだ。だから気に病むことはないという意味を込めて、

「そんなの気にすることないのに。私は別に高校なんてどこでもいいと思ってたし、家から近かったし、結局は自分で決めたんだよ。それに――最近、学校楽しいよ」

 こう言ったのだ。更には仲良くなった友達もいるとまで付け足して。浮かない顔をした母が、それで少しは安堵の表情を浮かべるものと涼子は思っていた。けれど母は――それならよかった、という言葉とは裏腹に、ますます浮かない顔をしただけだった。そしてその後も一人溜息を吐いている姿が目につくようになった。その姿が涼子には母が何かを思い悩んでいるように、そしてそれが自分と関係することのように思えてならなかった。

 つい今しがたも母が何を思い悩んでいるのかを考えていた。とても無駄な時間だった。母が何を思い、何を悩んでいるのかなど、今ここでいくら考えたところで答えなど出ようはずもないのだ。そしてそんな面倒臭い事情を小夜子に話して、この楽しい時間を無駄にすることもできようはずもない。だから涼子は考え事の内容に興味津々な小夜子にくすりとさせる回答をすることにしたのだ。

 明らかに本当ではない回答に、小夜子はくすくすと笑う。

「なんだ。いまいちなんて言いながら、戦争もの読んで影響受けてるんじゃない」
「あと、愛についても」
「ラブアンドピースだ」
「そう、ラブアンドピース」

 そうしてくすくす笑い合うと、涼子はラブの話をする気になった。そういう雰囲気に戸惑い、恥ずかしがり、それでも浸る小夜子を見たくなった。

「前は暇を持て余したら校外をぶらついたりしてたんだけどね」

 そう前置くと、小夜子の眉がぎゅっと寄せられ、眉間に皺が寄る。涼子は笑ってコンクリートの壁から背中を離すと小夜子に歩み寄り、ついと差し出した人差し指で小夜子の皺のよった眉間をつついた。

「今はしてないんだ。小夜子が来るんじゃないかなって思って」

 そうやって笑いかけると、期待した通りに小夜子は頬を僅かに染めて口籠る。涼子が口にしたそれは確かに真実だった。小夜子との時間を他のどの時間よりも優先している。毎日繰り返されているこの楽しい時間が明日も続くことを願ってやまない。小夜子は瞳の揺れを誤魔化すように持っていた文庫を差し出し、その本を受け取った涼子は小夜子の隣に腰かける。とん、と膝に頬杖を突いて覗き込めば、小夜子の瞳はゆらゆらと涼子の視線から逃れようとした。それが涼子にはたまらなくいとおしい。しかし逃げられてばかりではつまらない。

「小夜子のおかげで更生したんだよ」
「更生したんなら授業に出てるはずだけど」

 ふざけた調子で小夜子の功労を名づけると、小夜子はふふと笑って言い返す。逃げていた瞳がようやく涼子に向けられた。それがいとおしげな色を帯びているように涼子には思えて、嬉しくなる。頬杖を突くのをやめて肩を寄せれば、僅かに体の重みを預けられた。とても心地よい。けれどその時二人の間でかさりと紙がこすれる音がした。小夜子は音につられて目を落とし、そこにあるものを見つけてしまう。涼子のポケットからは折れ曲がった薄い桃色が少し顔を出していた。

「手紙?」
「ん? ああ、そう」
「誰から?」
「知らない人から。文化祭の時に話したって言われてもわかんないよね」

 ふうんと相槌を打っている小夜子に涼子は――小夜子からかと思って持ってきちゃったんだ、と付け足した。すいと上げられた目が複雑そうに涼子を見つめた。何かを問いかけたいような、そんな目だった。その目元。ようやく日焼けが癒え、白さを取り戻した肌の上に、黒い一筋の短い何か。

「ねえ小夜子、何か……、あ、睫毛ついてるよ」

 近づいてみれば、黒い筋の正体は明らかになった。そしてそれを取ろうとした指先がその場所に触れようとしたとき、小夜子の瞳はまた揺れた。それでも顔を背けられることはなく、涼子はゆっくりとそこに指を近づける。頬を染め、息を飲む小夜子の視線は指が近づくたびに下に落ちていき、一つのところで動きを止めた。その先には涼子のポケットと、薄い桃色の手紙。そんなことに気づくはずもない涼子の指は生理的に瞼を閉じた小夜子の目元に触れ、ついた異物を取り払う。仕事を終えた指がその場所から去ろうとすると、再び開いた瞼からの視線が涼子を縫い止めた。いつもならば伏せられたままでいるはずなのに、この時は違っていた。揺れることをやめた瞳が、熱を帯びて涼子の目を真っ直ぐに覗き込んでいる。

 どくり。目元から離れていた指が動きを止める。そっと戻って頬に触れ直しても、小夜子の視線は涼子を絡め取ったまま。そしてもう片方の手の上に温かい手が重ねられた。

「涼子の手、冷たい」

 そう言いながらも冷たい手から逃れようとはしない。ああ――小夜子に射抜かれたままの涼子は思う。

 ――そんな顔を向けられたら、唇に触れたくなってしまうじゃない。

 ひたりと手のひらが頬に貼りつく。

「嫌?」

 そう尋ねたのは触れている冷たい手の事なのか、これからしようとしていることなのか。

「嫌じゃない」

 自分でもはっきりしない質問への回答も自分の良いように解釈してしまいたくなる。冷たく乾いた風が吹き、蒸し暑い思い出が頭をよぎる。これをしたら、明日からはこの楽しい時間は失われてしまうかもしれない。けれどそうしなくても明日もこの時間が続く保証など何一つないのだ。涼子の唇は小夜子の唇へと吸い込まれる。真っ直ぐに涼子を見つめるその瞳の色の変化を見逃さないよう、ゆっくりゆっくりと距離を縮めていく。それでも小夜子は涼子の目を見つめることをやめず、自らも涼子へ唇を寄せていく。

 ――後でどう思おうと構わない。どうか。どうか、もう少し。

 は、と吐いた息が二人の間にわだかまる。小夜子はゆっくりと目を閉じ、近づく涼子を受け入れた。

 ――唇が離れるその時まで、この雰囲気に酔っていて。

 そんな願いを乗せて、涼子はそっとそっと唇を重ね合わせた。
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