印象

20

 いつもの非常階段に腰かけ、涼子は一つ溜息を吐いた。コンクリートの壁にこつんと頭を寄せて目を閉じてみると、思っていたより自分が疲れているのだとわかった。それはコンクリートの冷たさが心地良かったから。閉じた瞼を開けるのが億劫になったから。だからそのまま、コンクリートの壁に寄りかかって目を閉じていた。そうしていると、校内の喧騒が嫌でも耳に入ってくる。折り重なるような呼び込みの声。少女特有の甲高い笑い声。あとは判別しがたい、雑多なざわめき。いつもはある程度の規律をもって抑制されていたものが、この時ばかりは解放されている。一人一人が放つ小さな熱量は、寄り集まることで莫大な熱気になっていた。それが更にそれぞれを熱くして、熱気はどこまでも膨らんでいく。準備期間から少しずつ温度を増していた熱は、文化祭当日に見事最高潮に達した。校舎内は祭りの雰囲気が満ち満ちていて、多くの生徒はその雰囲気に酔いしれていた。ついさっきまでそのさなかに身を置いていた涼子もまた、その熱気に当てられていたのだろう。頬を撫でた風が、とても心地よかった。

 この熱気や高揚も、週が明ければすっかり冷めてしまうことを涼子は知っている。その時、この熱気や高揚が何によってもたらされていたものなのかを明確に思い出せる人はいないだろうことも。刹那的な興奮だ。けれど今、高揚しているこの時に、そんなことを考えている人などいないに違いない。一時の事でも、その場限りの儚いことでも、力一杯雰囲気に酔いしれ、盛り上がっている。そういったその時々の雰囲気に酔う行為は涼子の好むところだ。その瞬間、その場面でしか感じとれないものというのはあって、それが自分を豊かにしてくれると信じている。だから意識的にそうするようにしている。ただ、この祭りの熱気は、涼子にとってはいささか熱すぎたのだろう。結局雰囲気に乗りきれないままに、クラスでの役目を果たした途端、いつものこの場所に逃げてきてしまった。こうして熱源から少し離れたところで感じられるくらいの温度が涼子には丁度良かった。

 そっと瞼を持ち上げれば、四角く切り取られた青空がそこにある。風に揺すられた木々が葉を鳴らし、響き渡る喧騒に哀愁を加えているようだった。

「青春だなぁ……」

 コンクリートの壁に体を預けたまま、自分の中の熱が平常の温度まで下がっていくのを涼子は待っていた。

 と、重い金属音が低く響いた。続いて、とんとんと階段を上がってくる足音。ああ、これは――聞きなれたそのリズムに涼子の頬が緩む。

「あ、やっぱりここにいた」

 涼子が思い描いていた通りの人物はコンクリートの壁から顔を覗かせるなり、思い浮かべていた以上に綻んだ表情を向ける。いつもより上気しているその頬は、彼女もまた祭りの熱気に浮かされていることを物語っていた。小夜子という熱源が近づいたことで、涼子の中で下がり始めていた熱がまた、とくりと上がっていく。

「担当時間が終わるなりいなくなっちゃったってみんな残念がってたよ。あ、これ食べる?」

 小夜子はいつもそうしているように涼子の隣に腰を下ろすと、手にしていたビニール袋からパックを取出し、差し出した。その中には手つかずのたこ焼きが八つ、芳香なソースの香りを伴って湯気を立てている。軽い非難はあははと笑って誤魔化しておいて、いただきます――と涼子は差し出されたたこ焼きに手を伸ばす。ふうふうと息を吹きかけて表面の熱を逃がしてみたものの、頬張ったたこ焼きの中身の熱さは涼子の口内を焼いた。

「あちっ! あつっ!」

 はふはふと口の中の熱気を吐きだしながら涼子が目を白黒させていると、すぐに冷たいお茶が差し出される。なんとか咀嚼を終え、飲み下し、差し出されたお茶で口内を冷やし、そしてようやく涼子が人心地着いたところで、小夜子はふふと笑った。

「気をつけなよ」
「気を付けてはいたんだけどね。まさかここまであつあつだとは……」
「そんなに熱いんなら、私はもう少し冷めてからにしようかな」

 くすくす笑いながら、小夜子はいつの間にか腰を下ろしたわきに置いていた、たこ焼きのパックに目を落とす。

「あ、なんかそれ、酷くない? 私ばっかり熱い思いしてさ」
「だって私も火傷したくはないんだもの」

 じゃれ合いながら涼子が飲んだ分だけかさの減ったペットボトルを手渡す。涼子はそこでようやく、ペットボトルの蓋が開けた状態で渡されていたのだと気付いた。小夜子のこういう無意識にやっているのであろう気遣いに、涼子は毎度感心してしまう。涼子が蓋の開いたままのペットボトルに注視していると、小夜子は手渡されたペットボトルに自らも口をつけようとして、僅かに手を止め、それでもくいと煽った。少し伸びた喉が蠕動し、ペットボトルにつけた柔らかそうな唇から入った液体がそこを通過していくのがわかった。そうして一口。喉を湿らせた小夜子は手早く蓋を締め直し、それをたこ焼きのパックの隣に置いた。そしてちらりと横目で涼子の方を窺ってから、四角い空を見上げ、手で顔を扇ぐ。小夜子の視線は涼子が何かを言うのではないかと危惧しているようだったが、涼子は特に何も言わなかった。いや、涼子が何かを言う暇を与えまいと、小夜子が口を開いたのだ。

「それにしても校舎の中、暑いよね。外に出たら涼しくてびっくりしちゃった」
「中は熱気が凄いよね。それだけ盛り上がってるってことじゃない?」

 涼子の口から発せられたのが転換した話題だったことで、小夜子は安堵したように足を伸ばしてその先を見つめた。つられるようにして涼子も足を伸ばす。

「うん、そうだね。うちのクラスもそこそこ繁盛してるみたいで安心したよ」
「あ、そうなんだ。いやあ、良かったよ。クラス委員さん、お疲れ様でした」

 ただ与えられた作業をこなしていただけの涼子には、どれくらいの集客があったのかまではわからなかった。そもそもが興味の外なのだから知ろうともしていなかった。けれどそれをクラス委員である小夜子が気にするのは当然のことである。当日まで色々と責任を負っていたというのに、それでも楽しそうにしていた彼女の姿を思うと、涼子はやはり感心するしかないのだった。冗談めかしたねぎらいの言葉と共に涼子が頭を下げると、小夜子は笑みを漏らして肘で涼子をつついた。

「やめてよ。まだ終わってないし」
「あ、そうか」

 互いに顔を見合わせ、笑い合う。二人だけの空間でだけ、日常からほんの僅か離れたこの空間でだけ、小夜子が見せてくれる無垢な笑顔。とくり、と涼子の中でまた熱が上がった。

「涼子は他のところ見てきたの?」
「ううん、全然」
「見てこなくていいの?」
「人が多すぎて疲れちゃったから、もう戻る気がしない」

 残念がっているようにも聞こえる――ふうん、という相槌の後、小夜子は何かに気が付いたように――あ、と小さく声を上げた。

「私そろそろ行くね。たこ焼きはあげるよ。お邪魔しました」

 慌てたようにがさがさと持って来たものをまとめ始める小夜子の背中に、涼子は怪訝な目を向ける。

「もう行くの?」
「私、幸代と真紀ちゃんにトイレに行くって言って別れてきたから、探してるといけないし」

 小夜子は友人二人の名を持ち出したが、その前に発した「お邪魔しました」の一言で、その真意は涼子に筒抜けだった。人ごみから逃げ出した涼子が一人になりたがっていると勘違いしたのだ。細かいところにまで気のつく小夜子は、まるで見当違いのところでまで気を遣う。

 この非常階段で会うようになってからも、小夜子はここに長くは居座らない。時間にしてみればほんの三、四分。休み時間や放課後に限って、涼子が教室を抜け出した後にみんなの隙を縫ってやってくる。この場所に来ていることを誰にも知られるわけにはいかない小夜子は、けれどそこにいないとなれば真っ先に気づかれてしまう人だった。だから長くはいられない。しかし今日、この文化祭というイベントの中ならば、行方をくらましたとしても気に留める人も少ない。長く一緒にいられる絶好の機会だった。それなのに――そんなことで去ってしまわないで。曖昧な笑みを浮かべて立ち上がった小夜子の手に、涼子は引き留める意思を込めてそっと触れた。ぴくりと震えた手の持ち主は、揺れた瞳で涼子を見下ろしている。涼子はその瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「これだけの人ごみだもの。小笠原さんも遠藤さんもはぐれたって仕方がないって思うよ」
「……でも」
「もう少しぐらいなら平気じゃない? 中は暑いし、涼んでいきなよ。もうちょっとだけ付き合ってよ」

 ――ね、と涼子が軽く手を引くと、小夜子はあっけないほどにすとんと腰を下ろした。せっかく触れた手を離してしまうのはあまりにも惜しくて、涼子は手のひらを触れ合わせたままでいた。握られているわけでもないその僅かな接触を、小夜子もまた解こうとはしなかった。必然的に肩も腕も触れ合い、触れたままの手や腕や肩からは互いの温度が直に伝わる。祭りの熱気から離れて熱を失いつつある小夜子と、小夜子によって熱を上げ始めた涼子と、二人の温度が一つに溶け合っていく。それは平常よりは少し高いけれど、どちらにとっても心地よいと感じられる程よい温度。それを感じながら、二人はしばし沈黙し、中庭に響く喧騒を聞いていた。穏やかな風が渡り、二人の髪を揺らす。沈黙を破ったのは小夜子だった。

「だいぶ涼しくなったよね。風が気持ちいい」
「うん、今が一番過ごしやすい季節だよね」
「涼子は暑いの苦手そうだもんね」
「うん、暑いのも熱いものも苦手」

 真夏のだらけた涼子の姿を思い出したのか、くすくす笑っていた小夜子は、涼子の言葉の意味を量るように首を傾げた。そしてようやく意味を悟るとまたくすくすと笑った。

「たこ焼きのこと、結構根に持ってるんだ」
「だって舌、火傷して痛いんだもの」
「あ、そうだ。もうそんなに熱くないんじゃないかな」

 すっと離れそうになったその手に触れていた指先に、涼子はほんの少しだけ力を込めた。それはほんの僅かな圧迫。とてもかすかな拘束。それでも小夜子の手は動きを止めた。あちらに向きかけていた小夜子の視線が涼子に注がれる。それを涼子は真っ向から見つめ返し、すうっと目を細める。

「さっきからそんなに時間経ってないでしょ? きっとまだ熱いよ」

 喧騒に紛れて、息を飲む音がした。小夜子は涼子の完璧な笑みから逃げて、代わりに自分の手に絡んだ細長い指に目を落とす。かすれた声で――そうだね、と呟く小夜子の隠しきれていない頬の赤みが、涼子の熱をまた上昇させて、指先にもう少しだけ力を込めさせる。一呼吸、二呼吸の間をおいて、涼子の手の中にあった指がそろそろと動き、するりと絡んできた。その滑らかな指からも涼子と同じ温度の熱が伝わってくる。少しだけ横目で視線を交わし合い、伝わる熱をもっと感じ取れるようにと肩を寄せ合う。そうして、とくり、とくりと穏やかに強くなる動悸に心地よさを覚えながら、二人は互いに与え合う微熱に浮かされた。
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