印象

19

「あ、高橋さん」

 級友の一人に呼び止められ、涼子は立ち止まる。涼子が文化祭の準備に顔を出したとき、級友たちは皆一様に戸惑いの表情を浮かべていた。それにまったく反応を示さず、まるでいつもそうであったかのように手伝う内容を尋ねれば、皆が慌てた様子で見つけ出してきた仕事を当てられた。やり方を尋ねても、同様に動揺を隠しきれないつっかえつっかえの答えが返ってきた。そのあからさまな慌て様は可笑しく、涼子の内からは笑いが込み上げてきたが、表面上は「ありがとう」と人当たりの良い笑顔を向けただけだった。涼子に対する不満が小夜子の耳に届かないように、彼女の表情を曇らせないように、級友たちの中で涼子への愚痴を口に出しづらい機運が高まるように心がけた。そうして作業の合間に少しずつ周囲の級友たちと話すようになってからというもの、今まで話したことのなかった級友からもたびたび声をかけられるようになっていた。今呼び止められたこの級友は涼子の隣の席に座っているはずだが、名前が出てくるまでには一呼吸分の時間がかかった。

「さっきの授業で配られたプリント、机の上に置いといたから。来週の月曜までに提出だって」
「あ、うん。ありがとう」

 こういった用件も以前ならただ机の上にプリントが置かれているだけで済まされ、提出期限も涼子から訊いて初めて教えてくれるにとどまっていた。涼子は別にそれで不自由なことはなかったのだが、口頭で伝達されればそれだけ内容を把握するまでの手間が省けるので助かることは助かる。

「小夜子、なんか最近元気ないんじゃない?」

 そんな声が教室のどこかから聞こえてきたのは涼子が礼と共に人当たりの良い笑みを返した時のこと。気になる名前が話題の中心だったから、自席に向かいながら涼子はその声のした方を横目に窺った。教室中央の席の周りにたむろするいつもの三人の姿が目に映る。その中の一人は張り付いた笑顔を先ほどの声の主に向けていた。何か話している様子だったが、その内容までは教室の雑踏に紛れて涼子の耳には届かない。席に着いてプリントを畳んでいるときにそれまでよりボリュームを上げた会話が飛び込んできたくらいだ。

「え? 何か悩んでるの? 聞くよ?」
「ないない。そんなのないよ。真紀ちゃん変なこと言わないでよ!」

 それで少しだけ振り向いてみる気になった涼子は、慌てた様子の小夜子とおどける友人たちの姿を目にすることとなる。聞こえてきた内容は少し気になったが、その姿は楽しそうに見えて特に気に留めることもないだろうとすぐに体の向きを直した。他の級友たちと話すようにしてからも、涼子は教室内で小夜子とだけは接触を持たなかった。確かに小夜子の説得を聞き入れて文化祭の準備に参加するようになった体ではあったが、ただそれだけという風に級友たちには思わせておかなければならない。小夜子は問題児を改心させたよくできるクラス委員であり、涼子はクラス委員に上手く丸め込まれた問題児でなければならなかった。そうでなければ、誰かに涼子と仲が良かったのかと問われた小夜子はその目に困惑を浮かべるに違いないのだ。

 だから涼子は手紙の中でだけ小夜子とくだけた会話を楽しんだ。文化祭の準備作業の際も小夜子とは別の作業班に加わるようにして、小夜子とは別の輪に身を置いていた。

 その日も小夜子の属する班の隣で、涼子は作業をしていた。何枚かの段ボールをガムテープで張り合わせていたが、途中でテープがなくなってしまった。

「ありゃ、テープ切れちゃった。ねえ、そっちにガムテあまってる?」

 涼子と一緒に作業していた級友が同じ作業をしている人たちに声をかけるが、みな使用中の上に残り少ないということでこちらに回す余裕はなさそうだった。

「新しいの出さないとか。まだあったかな」
「私、取ってくるよ」

 級友に言い置いて、涼子が立ち上がろうとしたその時に、肩越しに声がかかる。

「これ、使って。こっちはもう使わないから」

 振り返れば、まだ半分以上残っているガムテープを差し出す小夜子がいた。まさかの意外な人物の登場に涼子は少し目を丸くしたが、すぐになんでもないことのように受け取り、他の級友に向けるのと同じような人当たりの良い笑顔を作った。小夜子はよくできるクラス委員であり、涼子は最近改心した問題児でなければならない。

「ありがとう、水野さん」

 そう涼子が礼を言うと、小夜子はほんの一瞬、顔をこわばらせ、口籠ってから──どういたしまして、と元いた輪の中に戻っていった。小夜子の硬直は本当にほんの僅かなものだったから、涼子がそれを異変として捉えることはなかった。その出来事が小夜子の中の小さな小さなわだかまりを、大きく成長させたことに気づいていない。だから今、教室の真ん中あたりから小夜子の悩みがどうのという話が聞こえてきても、特に気にかけることはなかったのだ。

 午前の授業が終わり、涼子は弁当と読みかけの小説を携えていつもの場所に向かった。今日は机の中に手紙が入っていなかったことを残念に思いながら、重い扉を開け外に出る。わざわざ閉めようとせずとも勝手に閉まる扉を振り返ることなく階段をのぼろうとした。けれど、後ろであの重い金属音が響かない。不思議に思ってそちらを見ると、小夜子が扉をそっと閉めているところだった。昼休みといえば友人二人と弁当を囲んでいるはずの彼女がそこにいることは、涼子にしてみればあるはずのないことだった。切れ長の目が丸く見開かれる。

「どうしたの?」
「うん、ちょっと」

 頬にかかる髪を耳に掛けながら発せられた小夜子の回答は何の答えにもなっておらず、涼子は首を傾げた。けれどきまり悪そうに顔を伏せたまま涼子の隣をすり抜けていく小夜子にそれ以上の答えは期待できず、涼子はこの場所に小夜子が足を運んでくれたことをただ喜ぶことにした。先を行く小夜子を追って階段をのぼり、踊り場付近まで来ると階段の淵に並んで腰掛ける。

 肩が触れ合いそうな距離で座っていても、小夜子はコンクリートの隙間から覗く空を眺めているだけだったから、涼子は構わないことにした。持っていた包みを開け、中から弁当箱を取り出す。飾り気のない、この年頃の娘にしては少し大きい弁当箱。それを膝の上に乗せ、合掌する。

「いただきます」

 そうすると、小夜子の視線が涼子の膝元へ降りてきたのがわかった。それでも黙々と食べ進める涼子の隣で、小夜子は弁当箱に隙間が空いていく様子を眺めていた。大体半分ほどに減った頃、

「小夜子」

 涼子が小夜子の名を呼んだ。呼ばれた小夜子は──何? とだけ言ってまた空に視線を移した。青い空にうろこ雲が広がっている。

「お昼、食べてないでしょ? ちょっと食べる?」
「いいよ」
「そう? じゃあ特別に玉子焼きを分けてあげよう」

 言って涼子は弁当箱に残った二つの玉子焼きのうち、一つに箸を突き刺す。その台詞に吹き出した小夜子が涼子の顔を覗き見る。

「何が『じゃあ』なの?」

 笑う小夜子の口に涼子は──まあまあ、と玉子焼きを押し当てた。観念したようにおずおずと開かれる唇の隙間から、黄色い塊がねじ込まれ、全てが収まってから閉じた唇の合間から箸が抜き取られる。小夜子が決まり悪そうに口を動かしている間、涼子は楽しそうにそれを見つめた。

「美味しい?」
「うん」
「それは良かった」

 そして涼子はまた黙々と弁当を食べ始める。もう一つの玉子焼きを口に放り込み、小夜子が美味しいと言った味を確かめる。そして、ふと、気が付いた。

「あ、これ、間接キスだね」

 その言葉で小夜子の肩が震えるのが弁当箱の中を見ていた涼子にもわかった。そして──ふふっという堪えきれなかったかのような笑い声。隣を見れば、小夜子はまた空を見上げていた。そして端を持ち上げたぷっくりと柔らかそうな唇が楽しそうな声を紡ぎ出す。

「涼子は」

 その声に初めて名を呼ばれ、涼子の形の良い眉がぴくりと上がったが、空を見上げている小夜子がそれに気づくことはない。ただ楽しそうに、照れくさそうに言葉を続ける。

「涼子はいつもそんなことばかり言う」

 辺りに風が渡り、見えないところで中庭の木が揺れ、葉が音を立てる。小夜子の髪が流れ、それを押さえた手の指の隙間から赤い耳が覗く。自らも乱れる黒髪を押さえた涼子はその赤い耳を見つけ、頬を緩め、目を細め、──そうかな、とだけ呟いた。その表情がちらりと横目で隣を窺ってきた目に見咎められた。涼子の嬉しそうな顔を見つけた目は、すぐに──そうだよ、と言った持ち主の膝の上に視野を移動させてしまう。そして一つ、二つの呼吸を置いて、すっくと小夜子が立ち上がる。

「やっぱりお腹すいたから、教室に戻るね」
「うん」

 見下ろす小夜子の顔には朱がさしていて、それを涼子は微笑んで見送った。

 それからというもの、手紙でのやり取りは滞りがちになり、代わりに小夜子は時々この場所を訪れるようになった。その時だけはよくできるクラス委員である水野さんでも、最近改心した問題児の高橋さんでもなく、ただの小夜子と涼子として過ごした。話すことは手紙と変わらぬ他愛のないこと。それでも手紙だけの時とは何かが変わっていると涼子は感じていた。
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