印象

18

 ホームルームが終わると途端に教室はざわめき、ばたばたと人の移動が始まる。普段はすぐに職員室に向かう担任教師は楽しげに近くにいた生徒に声をかけている。そんな光景を尻目に、涼子は鞄から本を取出し、そこに机の中にある封筒を素早く挟み込んで、さっさと教室を抜け出した。向かう先はいつもの中庭に通じる非常階段。

 金属製の重い扉を開くと、コンクリートの階段をとんとんとのぼる。その階段はぐねぐねと何度も折れ曲がり、けれど総じてみれば真っ直ぐに校舎の上から下までを繋いでいる。その二階と三階の間にある踊り場は風通しが良く、日当たりも良く、少しずれれば日影も豊富な上に人にも見つかりにくい、つまりは授業をサボる生徒の居場所としては絶好のポイントだった。にもかかわらずあまり人に知られていないというのが、授業をサボタージュするような生徒がほとんどいない校風をよく表している。おかげで涼子は絶好のポイントをいつも独り占めすることができていた。いつものその場所に到着した涼子は、階段に腰かけて手にしていた本を開く。そしてそこに挟んでいた封筒を素早く、けれど丁寧に開けると中の手紙を取り出し、もどかしそうにそれを開いてそこにある文面に目を走らせた。一度目は素早く、二度目はじっくりと、三度目は同じ箇所を行きつ戻りつしながら。そうして満足するだけ手紙を読むと、丁寧に折りたたみ、封筒に収め直した。

 今度の返事には何を書こうか、緩む口元もそのままに涼子が手紙をまた本の間に挟んでいると、下の方で重厚感のある金属音がした。校舎との間にある扉が閉まったのだ。閉まったということは開いていたということで、涼子は確実に扉を閉めてきたし、あの重い扉が勝手に開くわけもないのだから、誰か人の手によって開けられたのだ。そして足音がするところからして、その人はそこから階段に出てきたのだろう。その足音は確実に涼子のいる方へと近づいてくる。この場所に誰かが来ることなど滅多にないことではあったが、入口に鍵がかかっているでもなし、そういうことがあってもなんらおかしなことではない。涼子は外側の壁に身を寄せ、その誰かが通れる隙間を作ると、本の適当なページを開いて読んでいた風を装う。足音の主が仮にこの場所を涼子と同じような目的で目指しているとしても、先客がいるとなれば別の場所に行くであろう。だからとんとんと近づいてきた足音は折り返すか、そのまま涼子の横を通り過ぎていくかのどちらかであるはずだった。けれど、実際はそうはならなかった。足音はすぐそこまで来たところでぴたりと止まる。下りていくのでも、上っていくのでもない。ただそこで足を止めてしまっている。そのわけを探ろうと本から目を離した涼子が見つけたのは、ついさっきまで読みふけっていた手紙の送り主の姿だった。

「小夜子」

 折り返す階段を区切るコンクリートの壁に手をついて涼子を見下ろしているその人がこの場所に来るのは、涼子にとってとても意外で、とても喜ばしいことだった。

「珍しいね、どうしたの?」

 口元を緩ませた涼子の問いに小夜子は──うんちょっと、と少し微笑んだだけだった。その表情への違和感が涼子の中で沸き起こるよりも前に、小夜子はすいと進み出て涼子の隣に腰を下ろした。それっきり小夜子は黙りこくっている。黙って自分の膝を見つめている。何も言わない小夜子が何かを言いたいことは明確で、それを待つ間、涼子は開いていた本に目を落とし、文字を追うことにした。既に何度も読んでいる物語はどこから読んだとしても、そう変わりはない。そもそも今は物語そのものよりは、小夜子の隣で本を読むというそのことをこそ楽しみたいのだから。

 そうして黙って本に目を落としていると、様々な音が耳に入ってくる。緩やかな風が中庭の木立を揺らしさわさわと音を立て、生徒たちのさんざめく声がそれに混じる。吹奏楽部の楽器の音や、運動部の掛け声よりも、楽しげな少女たちの笑い声の方が大きいのは文化祭の準備期間に入ったからだ。あれこれ指示を出す声だったり、物が倒れる音だったり、それに驚く悲鳴だったり、そのほかとにかく色んな音が入り混じっている。この季節のこの場所は暑さも和らぎ過ごしやすいのだが、涼子が本を読むのにはいささか騒がしすぎた。そのことに気づいて、涼子は小夜子がこの場所に来た理由に思い至った。そう考えてみれば、この場所に来た時の小夜子の表情は、確かに教室で見かけるときのそれだった。

「文化祭の準備。みんなしてるよ?」

 ようやく黙っているのをやめたらしい小夜子が呟いたのは、涼子がページを繰ろうとしたその時で、内容は思っていた通りのものだった。それまで文字の羅列を捉えていた目がすいと隣を窺えば、小夜子は相変わらず膝を見つめている。

「うん、知ってる」
「高橋さんは、しないの?」

 質問の形をした詰問に答える前に、涼子が一つ息を吐くと小夜子は一つ息を飲む。したくないからしないのだ、と撥ねつけることは簡単だし、普段の涼子であればそうしていた。それを承知の上で小夜子が来ていることも、それで納得しそうにないのも、彼女の膝の上に置かれたこわばった手を見たらわかった。

「祭りってのはさ、楽しみたい人だけで盛り上がればいいんだよ。そうじゃない人間が混ざっても白けるだけ」
「でもみんなよく思ってないよ?」
「別に構わないよ。物事の優先順位は人それぞれでしょ? 限られた時間だもの。大事だと思うことに使いたいじゃない」

 口にしてみたその言葉は、中学に入って間もない頃、担任から家に連絡があった時に涼子が父親に言われた言葉そのもので、少しだけ辟易した。しかもその主義主張はもうすっかり涼子に染みついてしまっているのだから始末におえない。学校行事を楽しめるのならそうすればいい。ただ涼子にはそれが楽しいことだとは少しも思えないだけのことで、それよりは気になる本の続きだったり、面白そうな映画であったり、はたまた急に見たくなった風景であったり、そういう物事に時間を使った方がずっと楽しいし、有意義に思えるのだ。その結果小夜子の言う『みんな』にどう思われようとそれは本当にどうでもいいことだった。興味を持っていない対象にどう思われようが、何を言われようが、涼子には興味のないことだった。そういう態度を指して父親そっくりだと苦い顔をした母親がこぼすたび、涼子は同じように苦い気持ちになったけれど、それでもやはりそんな風に思えて仕方がないのだ。

 涼子の主義主張を聴いた小夜子はまた黙りこくって膝の上で手を握りしめていた。顔を覗き込めば酷い顔をしていて、反論はしないが、納得もしていない様子だ。

 ──どうしてこの人はこうなんだろう。

 誰かがはっきりと口に出したのかは定かではないが、とにかくクラスに蔓延する、涼子に対する『誰かあいつをどうにかしろ』という空気に押し出されるようにしてここへ来たのだろうことは想像に難くない。涼子にしてみれば、そんなものやりたくなければ無視しておけばいいのだと思う。涼子でなくたって他の級友たちだって、多かれ少なかれそうしているはずだ。だから『誰か』に頼る。けれどその『誰か』をわざわざ買って出て、「やっぱりだめでした」で済ませないところが小夜子の小夜子たる所以なのだ。体裁だけ整えて『良い子』に見られればそれでいいとはならない。そのせいでこんなに追い詰められたような顔をすることになるのに。涼子にはとても真似できないことだ。

「小夜子は偉いね。みんなの期待に応えて、要望に応えて、大変で面倒くさい仕事ばっかりなのに快く引き受けて」

 漏れたのは涼子の本心だった。けれど小夜子は──はは、と乾いた笑いを漏らし、相変わらず自分の拳を見つめている。

「快くではないよ。私だって面倒だけど、でも、やらないとみんなが困るだけだから……。そういうのを引き受けるのは私だって、みんなが思ってるのはわかるから、だからそうしてるんだよ、たぶん。みんなの中にある自分の印象を崩したくないだけ。そうして頼られることで人から認めてもらえた気になって満足してるだけ」

 口元に笑みを浮かべた小夜子の顔は、言葉を紡ぐたびに強張っていった。それを涼子はじっと見ていた。小夜子が放った言葉の一つ一つが小夜子自身を貫いていく。軽い調子の言葉が重くのしかかり、それでも唇を笑う形に歪めることをやめない。自嘲と呼ばれるそんな笑みを剥がしてしまいたくて、涼子は小夜子の強張った頬を指の背で撫でた。ゆっくりと撫でられた方へ視線を泳がせた小夜子の顔は、驚きや疑問が混じっているものの、やはり笑顔が貼りついていた。

「やっぱり小夜子は偉い。だから、そんな顔しないで」

 自らの頬に触れていたのが涼子の指だったと認識した小夜子から、作られた笑みが剥がれ落ちていく。残ったのは酷いしかめ面で、それを隠すように俯いてしまった小夜子は、二つ呼吸をした後、中庭に溢れる雑多な音にかき消されてしまいそうなほどかすかに呟いた。

「高橋さんへの文句を聞いてるだけなのは嫌だよ……」

 小夜子が涼子と親しいなどということはクラスの誰も思いもよらないことだ。それ故に小夜子の耳には直接、涼子への不満が届いていたのだろう。小夜子の主義に反する涼子の態度を弁護することもできず、ただ、愚痴を聞かされ続けていたのだ。きっと先ほどのような笑顔を貼り付けて。

 涼子にとって文化祭などどうでもいいことだ。それに参加しようがしまいがどうでもいいのだから、参加することで小夜子の楽しい時間を奪わずに済むのなら、参加しておけばいいのではないか。そのために使う時間は少しも無駄ではない。

「うん」

 涼子の首肯の意味を探ろうとするように、俯いていた小夜子が顔を上げる。真っ直ぐに向けられた小夜子の視線、それを受け止めた涼子は、すっと目を細めて見せてから、本を閉じて立ち上がる。

「どこ行くの?」
「みんな文化祭の準備してるんでしょ?」

 すっかり疑問の表情に覆い尽くされた顔で見上げる小夜子に完璧な笑みを返し、涼子はとんとんと階段を下りて行った。教室に入って手伝う旨を告げた時に級友たちがどんな反応をしめすのか。それはなかなかに興味深く、涼子はあれこれ想像してはほくそ笑むのだった。
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