印象

17

 差し込んだ鍵を捻ったその時に、当然あるはずの手ごたえが感じられなかった。首を傾げながらもドアのノブを回せば、すんなりとドアは開いて、涼子は更に首を傾げる羽目になる。涼子にとって外出の際施錠するのは、トイレを使った後に水を流すくらいに当たり前のことだったから、それを忘れるなんてことはありえないことだった。予定外に母が早退でもしてきたのだろうかと玄関の靴を見ると、母のパンプスはなく、代わりに見覚えのない大きなスニーカーが置かれていた。おや、とそのスニーカーを見ながら後ろ手に扉を閉めるとがちゃりと音がして、その音を聞きつけたものか奥からは──おかえり、という声がする。懐かしいと言っていいほどに久しぶりに聞く声だった。

 声の発生源──居間に足を踏み入れれば、ソファに寝そべったその人が見上げてきた。涼子が声から思い浮かべた通りの人物だった。──よお久しぶり、と人懐っこい笑みを浮かべてから、点けていたテレビに視線が戻っていく。

「兄さんどうしたの」

 そう問いかけて涼子は居間と続きのキッチンへと足を運び、冷蔵庫を開ける。そこからではソファの背で遮られて彼の人の姿は見えなかったが、缶がテーブルと接触する音が聞こえてきたから、何かを飲んでいるのだろうと予想できた。

「盆休みがやっととれたから帰ってきた」

 冷蔵庫から麦茶を取り出しながら──ふうん、と気のない返事をする涼子にきちんと視線を合わせるように、寝そべっていた彼はのそりと体を起こした。そうすると手に持っているものが涼子からも見えて、飲んでいたのが缶ビールだったとわかった。昼間から飲んでも気兼ねしなくていいのは実家ならではだ、と赤い顔をして上機嫌になっていたのは確か今年の正月のことで、そういえばこの兄が帰ってきたのはそれ以来なのだと気が付いた。

「お盆はじいさんのところに行ってきたのか?」
「うん。一泊だけ」
「親父も?」
「そんなわけないじゃない」
「ま、そうか」

 そんな会話の合間に、涼子は洗いかごに伏せられていたグラスに麦茶を注ぎ、麦茶を冷蔵庫に戻す。兄は少し苦笑したようだった。

 彼が言う「じいさん」とは涼子の母方の祖父のことである。父方の田舎には幼いころに行ったきりで、祖父母の顔も涼子にはもうはっきりと思い出せない。それというのも涼子の父は元々親戚付き合いが苦手だったようで、避けるところがあったし、仕事を理由に家にも滅多に帰ってこない人だった。盆正月に祖父のところに顔を出すのも、母と涼子だけということがもう何年も続いている。──俺もたまには顔出さないとなぁ、と呟く兄も一緒に訪ねていたのは彼が就職するまでのことだから、もう三、四年は経っている。その頃は父もまだ今よりは家に帰ってきていたが、最近は父の名と共に掲載されている写真を見て、安否や滞在先を知るような状態だ。涼子が父の顔を最後に見たのはいつのことだか、もうわからないほどだ。

 ──まあ、帰ってこられても家の中が気まずくなるだけなんだけど。

「母さんは仕事なんだろ?」
「うん」
「じゃあ、晩飯作っとくか。お前も手伝えよ」

 グラスに口をつけ、喉を潤してから頷いた涼子は、また懐かしさに浸った。食欲旺盛な若者だった兄は母の帰りが待ちきれなかったこともあり、よく夕飯の支度を買って出ていた。時には面倒くさがる涼子に手伝わせたりしながら作られたそれらは、帰宅した母が随分と感激した様子を見せるほどには充実した内容であることがほとんどだった。今の高橋家はというと、涼子が食事に関してそれほど執着しないこともあり、夕飯は有り合わせのもので済ますことが多い。あんたは楽でいいわ、とは涼子に向けた母の言葉だが、それがどこまで本心を表しているのかは知れない。

「で、涼子はどこ行ってたんだ?」
「友達のとこ」

 冷えた麦茶を飲み干してから答えると、兄は少し目を丸くした。彼の知る限り何年ぶりかの珍事だったのだから当然の反応だ。けれどそうやって驚いた後の彼は──へえ、珍しいこともあるもんだ、という感想を漏らしただけで、また缶ビールをあおり、テレビを見始めた。

 ──珍しいこと、か。

 自室のベッドに寝そべり、開け放った窓から覗く空を見ながら、涼子は兄に言われたことを思い返していた。部屋にはエアコンもあったが、それはつけずにいた。生ぬるい空気は部屋にこもったものよりはましという程度だけれど、それでよかった。そういう気分だった。昼間の熱を内にこもらせたマットレスの上で、じんわりと汗を滲ませながら、涼子は紫がかった空を見上げていた。

 そうしながら、友達の家に遊びに行くのはいつぶりだったのだろうかと記憶を辿ってみた。おそらくは小学生の頃だと、思い出した映像の中にいる人物たちの幼さから判断したものの、その子たちの顔も名前も曖昧だった。涼子が同級生個人に対し興味を持つことは非常にまれなことである上に、興味の対象以外のことについては全く知ろうとはしなかったのだからそれも当然のことだった。涼子には知りたいこと、やりたいことが山ほどあって、それ以外のことにさく時間などなかったのだ。それは今でも同じこと。

 そんな涼子が小夜子には興味を傾けている。とは言え、最初からそうだったのではない。クラス委員に選出された少女は当たり障りのない表情を貼り付けていた。自分の意見を出すこともなく、常に大多数に支持されることを意識している典型的な『良い子』というラベルを涼子は彼女に貼り付けて、それっきり興味を失っていた。きっかけとなったのはあの雨の日。彼女の行動がそんな印象とは食い違っていたから、おやと思った。苦手意識を抱いているだろう評判の悪い涼子に、話しているところを誰かに見られたら自分の評判を落としかねない涼子に、それでも自ら傘を差しかけてきたから。それでなんとなく、どんな子なのかと気になった。それでも友人たちに囲まれているときの小夜子にはどうしても興味が持てなかった。

 同じ人物なのに不思議だった。一人でいるときと、友人といるときとでは雰囲気、印象、そういったものが違って見えた。それがまた涼子の興味を惹きつけることになったのかもしれない。興味をそそる方の小夜子の姿を見れば見るほど、知れば知るほど、もっと見たくて、もっと知りたくなった。そして──

 ぬるい風がカーテンを揺らし、涼子の体を撫でる。少しも涼しくないその風の温度が小夜子の部屋を思い出させた。

 いつもより薄暗い部屋。借りた服から香る小夜子のにおい。日焼けした頬に貼りついた髪。そして覗き見てしまった、白い肩と、そこにかかる黒髪と、日焼けした腕。そんなものを思い出して、涼子は深く息を吐いた。

 涼子は小夜子に触れた手の平を見つめる。数時間前にそれで包み込んだ、雨と汗で湿り気を帯びた肌の吸い付くような柔らかさが蘇る。赤く染まった頬、そこに張り付いた黒く細い筋、わななくように震える唇、一つ一つが今そこにあるようにくっきりと思い起こされた。そして涼子に向けられた困惑に満ちた瞳も。

 ──小夜子に思わせぶりなことを言ったり、触れようとしたり、一体何がしたいんだ? 何のためにそんなことをする? 

 問いかけるまでもなく、答えなんてもうわかっていた。涼子の言葉や行動に照れて誤魔化す小夜子が見たいのだ。頬を赤らめ目を泳がす、その表情が可愛くて仕方がないのだ。だからそれを抱きしめ、口づけたいと思ってしまったのだ。けれどそれをすれば、小夜子は今日のように困惑するに違いない。それを思うとしたいことがしたくなくなる。したくなくなったはずなのに、思い返してその続きがしたかったと思っている。今まで涼子はしたいことはしてきたし、不必要なしたくないことはしないで過ごしてきた。それはいつでもはっきりしていて、とてもシンプルだった。けれど小夜子に対しては何がしたくて、何がしたくないのか、わからなくなってしまう。見つめる手の平からは、小夜子の頬に触れたときの感触が少しも消えていってはくれず、これまで経験したことのない感情がわだかまる。

 そんなものたちを潰してしまうように手の平をぐっと握りしめて、それをとんと額に当てると、涼子は窓の外を見上げる。紫がかった空はさっきよりも藍を濃くしていた。小夜子と次に会うのは教室だ。以前は興味がないと切り捨てた、友人たちの中にいる小夜子の姿。それすら今の涼子には愛しい。けれどその小夜子に声をかければ、帰ってくるのは困惑のまなざしだと容易に想像できた。誰にどう思われようと構わなかったが、小夜子にそんな目で見られるのは涼子には耐えられそうになかった。

「おーい涼子ー。飯作るぞー」

 居間から涼子を呼ぶ兄の声。それに返事をしながら、涼子はまた小夜子に手紙を書こうと決めたのだった。
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