印象

16

 突然降り始めた雨を小夜子は呆然と見つめていた。あまりに強い雨が駅舎の屋根を叩き、轟音と言っていい程の音を立てていた。だから小夜子は涼子が隣にやって来たことにも、肩を叩かれるまで気がつかずにいた。

「あ、高橋さん」
「こんにちは。さっきまであんなに晴れてたのに、凄い雨だね」
「突然これだもの。私、傘持ってきてないのに」

 小夜子は溜息をつき、涼子は笑う。そして二人で空を見上げる。激しい雨とは裏腹に空は明るく、じきに止むだろうことを感じさせた。けれど

「走って行こう」

 涼子は楽しそうにそう言った。

「え? 通り雨だろうから、止むまで待っていようよ」

 驚いた小夜子がそう言ったときには、涼子はすでに雨の中に一歩進み出ていた。見る間に濡れそぼっていく涼子は、振り返って、本当に楽しそうに笑った。

「暑いから涼しくなって気持ちいいよ」

 そして小夜子に手を差し伸べる。あっけにとられてその様子を眺めていた小夜子も、涼子があまりに楽しそうに笑っているから、思わずその手を取ってしまった。

 真夏の雨はぬるく、けれど日光に過剰に熱せられたあらゆるものを適度に冷やした。小夜子もまたその恩恵に預かり、それは涼子が言ったように気持ちのいいものだった。とは言え、家の中に入るとなると話は別だ。玄関で互いの姿を見て、二人は中に入るのを躊躇した。

「ああ、びしょ濡れだねえ」

 涼子が笑う。

「誰のせいだと思ってるの?」

 そう言う小夜子もまた笑っている。

「ちょっと待ってて」

 水滴を滴らせる髪を絞り、スカートの裾を絞り、サンダルを脱ぎ捨てて、小夜子は小走りで廊下を進んだ。戻ってきたときには二人分のタオルを手にしていて、そのうち一つを涼子に手渡す。

「取り敢えず拭いて。私の服でよかったら貸すけど、着替える?」
「うん。ありがとう」

 タオルを受け取った涼子は大まかに髪や服を拭いてから、階段を上がる小夜子に続いた。

「これでいいかな?」

 箪笥から出した自分の服を小夜子が差し出すと、涼子は笑顔で頷き、受け取った。それを確認した小夜子は窓にカーテンを引く。そうして小夜子が振り返ったときには、涼子は既に濡れた服を脱ぎ始めていた。僅かに薄暗くなった部屋で涼子の白い背中が浮かび上がる。日焼けによる境界など一つとしてない、白い背中。どくりと一つ脈打った。すぐさまそこから目を逸らすと小夜子は自分の着替えを取り出し、濡れた服を脱ぎ、濡れた肌をぬぐう。背中越しの衣擦れが聞こえないように、なるべく慌しく。

「ねえ」

 不意に掛けられた声に小夜子がびくりと振り向けば、涼子はハーフパンツの腰の位置を正しながら、机の横の棚を眺めている。小夜子は慌ててシャツのボタンを留め、着替えを済ませる。

「前から気になってたんだけど、あの箱」

 涼子が視線で指し示すそれは、小夜子が祖母から譲り受けた古臭い小箱。幼い小夜子が宝物を収めていた小箱。色とりどりの千代紙に彩られたその箱は、シンプルなものばかりが並ぶ棚の中で少し浮いた存在だった。

「あ、それ。昔おばあちゃんがくれたんだ。なんとなく捨てられなくって」
「へえ。いいね、そういうの。何かに使ってるの?」

 尋ねられて小夜子の瞳は揺れる。けれど涼子の視線は小箱に注がれていて、あからさまに動揺を表した小夜子のその瞳を見ることはなかった。

「あ、うん。手紙とか入れてる。高橋さんからの手紙も入ってるよ。手紙ってちょっと捨てられないじゃない?」

 一息に、早口に、小夜子は言った。涼子は小箱を眺めて──ふうん、と言って、それから

「私も小夜子からの手紙、とってあるよ」

 振り向いて、笑った。真っ直ぐに受け止めるのがためらわれる、完璧な笑み。そこから目を逸らすと、小夜子は乾ききらない髪をもう一度タオルで拭き始める。

「高橋さんは学校で手紙貰うことあるんでしょ? そういうのも、とってあるの?」
「ああ」

 涼子は一瞬視線を天井に向け、それから首に掛けていたタオルで黒髪を乱暴に拭き始めた。わしわしと豪快に動くタオルにかきまわされた黒い筋が躍る。

「どこかやっちゃったなあ」
「返事は? 書くの?」
「書かないよ」
「どうして?」

 ──私には書くのに、とは口に出さず、小夜子は涼子の顔を覗き見る。涼子の表情はタオルに包まれていて、よく見えなかった。

「だって、返事のしようがないから。どう答えれば良いの? いつも見てますだの、なにが素敵ですだの、顔も知らない人に手紙で伝えられても困るだけでしょ? 彼女たちが私に何を求めてるのかは知らないけど、彼女たちが勝手に作り上げた人物像に私が合わせてあげる義理はないよ」

 涼子は脱いだ服を拾い上げると──絞れそうだな、と呟く。

「そういうものかな」

 人の目を常に気にして、人の求めているだろう自分の役割に徹してきた小夜子にはピンとこない話だった。

「うちは女子高だし、キャーキャー言って楽しみたい人が、対象を生徒の中から見出すのもわからなくはないけどね。でもそれを真剣に受け止めてたら馬鹿を見るよ。だから私が今まで学校で受け取った手紙に返事を書いたのは、小夜子が初めて」

 濡れた服を手に持ったタオルに挟みながら笑いかける涼子から顔を背けるように、小夜子は自らの脱いだ服を拾い上げる。その口からは乾いた笑いだけしか出てこなかった。胸がざわついて、他にどうしたらいいのかわからなかった。

「ねえ、小夜子」

 名を呼ばれ、小夜子は腰を伸ばす。涼子はタオルと服をテーブルの上に置くところだった。

「小夜子は誰かと付き合ったことってある?」

 穏やかな笑みの浮かんだ整った顔が小夜子に向けられる。唐突な問い。その意図は小夜子には図りようがない。

「え? ないよ」

 だから率直に、ただ事実のみを答える。相変わらずの表情で涼子は手を伸ばし、小夜子の頬に張り付いた髪を指で掬い取る。

「じゃあ、キスしたことは?」
「何? さっきから急にそんなこと」
「私はない」

 涼子の問いに小夜子は答えず、小夜子の問いにも涼子は答えない。細い髪の束を巻きつけては弄んでいた指が、小夜子の頬に触れる。くすぐったさに震えそうになるのを堪え、小夜子はなるべく平坦な声で相槌を打った。

「そう」
「ねえ、どんなだか試してみようか」
「え?」

 切れ長の目は瞳孔の伸縮までをも覗こうとしているように、真っ直ぐに小夜子を見つめていた。その瞳に射止められた小夜子は身動きひとつできない。

 ──試す? 何を?

 疑問を口にすることすら封じられた小夜子をよそに、指は頬に触れている面積を徐々に増していく。指先から指の腹、そして手の平と、小夜子の頬に張り付いていく。

 ──何の話をしていた?
 ──キスをしたことがあるかという話だ。それじゃあ──キスを、するの?

 少しひんやりとしたその手の温度を感じ取るたびごとに、身動きの取れない小夜子は心臓ばかりが活発になっていく。息苦しくなっていく。その息苦しさに小夜子が眉根を寄せると、小夜子の動きを封じていた視線が外れた。

「冗談だよ。そんな顔しないで」

 悪戯めいた笑いを浮かべ、涼子は手を離す。──びっくりした、と呟き、なんとか笑う形に唇をゆがめてから、小夜子はどんな顔をしていたのかと未だ高鳴る鼓動を抑えつつ、鏡に視線を向けた。少し頬と耳が赤い気がした。こんな顔を涼子に見られていたのかと思うと、どっと汗が噴き出して、涼子から顔を隠すようにして部屋のあちこちに視線を泳がせた。そうして目に留まった閉め切ったままのカーテンに歩み寄る。胸元をはたつかせ、カーテンと窓を開けてみれば、雨は既にやみ、いつものぎらぎらとした日差しが戻っていた。

「あ、今から干せば帰る頃には乾いてるかも。ハンガーとってくるね」

 わざと普段よりも明るい声色を出し、小夜子は自分の服と使用済みのタオルとを手に部屋を出ていく。その背中を見送った涼子はテーブルの前に腰をおろし、さっきまで小夜子の頬に触れていた手を眺めた。

「何やってんだか」

 呟いたその声はどこか自嘲めいていた。何度か掌を開閉してはそれを見つめていた涼子だったが、ハンガーを持った小夜子が部屋のドアを開けた時には、自らの濡れた服をタオルの間から取り出す作業に取り掛かっていた。──ありがとう、という礼と共にハンガーを受け取り、それに服をかける。それからはすっかりいつもの通り。暑い暑いと文句を垂れながら、扇風機の風を受けながら、宿題を片付ける作業を続けた。短い会話を挟みながら宿題に取り組むという、この夏休み中によく見られた光景。ただひとつ、小夜子が涼子の唇を見ては、はたはたと手で顔を扇ぐことだけが違っていた。

 窓に揺れる涼子の服から水分を奪う日差しは衰えを知らない様子だったが、夏休みはもう、終わろうとしていた。
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