印象

24

 すっきりしない。
 ひんやりと冷たい平面に頬を貼りつかせて、小夜子はぼんやりと窓の外を眺めていた。ただでさえ弱々しい冬至間近の日は、低いところにあるであろうその姿さえ見せず、乏しい最後の明かりでもってかろうじて青い陰影を作り出している。日を包み込んでいる汚れた真綿のような雲からは、今にも水がしたたり落ちてきそうだった。すっきりしない天気の為か、部活動に所属していない者たちは早々に下校してしまい、教室には最早小夜子の他には誰もいない。遠くに部活動に勤しむ生徒たちの声が響いているだけだった。
 室内の電灯が写りこんで見づらくなってきた窓の外から、目の前の冷たい平面に目を落とすと、小夜子はそこを手のひらで撫でてみた。呼気が結露したのか、そこは湿っていて、少し指先に力を入れて木目に沿ってこすってみると、きゅっと音がした。そうしながら小夜子は、今体を預けている机の主とのことに思いを馳せていた。

 小夜子が久しぶりに手紙を書いたのは、ほんの三日前のことだ。どうしても、あの場所では尋ねたいことを尋ねられる気がしなかったから、手紙に託すことにしたのだ。階段に腰かけた涼子はその手紙を手渡されたとき、それは面白そうに目を輝かせたものだった。

 ◇ ◇ ◇

 高橋涼子様

 この前配られた進路調査票、もう提出したでしょうか。
 進路だなんて、まだまだ先のことだと思っていたけど、もう気にしなくてはならない時期なんだと私は焦ってしまいました。
 地元の教育学部のある大学に進学したいということだけは考えていたものの、それでも受験となると遠い先の話のような気がしていたから。
 涼子は卒業後のこと、どう考えてる?
 進学にしても、就職にしても、涼子ならどこに行っても活躍できそうな気もするね。
 その活躍を私も直接、すぐ傍で見ていられたら、できることならずっとそれを一緒に喜び合えたら、きっと素敵だろうなと思います。
 いつもこんな話はしないので、なんとなくききづらくて手紙にしてしまいました。
 自分でもおかしなことだとは思うけど、笑わないでくださいね。
 
 水野小夜子

 ◇ ◇ ◇

 すぐさま開封したがった涼子は小夜子の了承を得ると、差出人を目の前にして手紙を読み始めた。その間、少し照れ臭い思いをしながら、小夜子は涼子の耳を見ていた。手紙を読むのに邪魔にならないように、長い髪をそこに掛けたためにあらわになった耳は、涼子の他の部分と変わらず白く、くっきりと入り組んだ軟骨に対して、ふっくらとした耳朶がとても柔らかそうだった。そういえば触れてみたことはなかったと、またそこに零れ落ちた髪を白い指が掬い掛けていくのを見つめながら小夜子は思った。そうしているうちに手紙を読み終えた涼子は、口元に笑みを湛えたまま、また今度、返事を書くと言ったのだった。
 手紙ではなく、今すぐ聞きたいとも小夜子は思ったが、進路にまつわることを尋ねたのだから急くのは良くないと思い直した。待ってるね――と笑いかけ、今のところは首筋に顔をうずめて、涼子の体をぎゅうと抱きしめることでわだかまりを静めた。

「小夜子からくるの珍しいね」

 そんな風に驚きを僅かに滲ませた声で囁いた涼子の耳朶は、唇で触れてみると、思っていた通りに柔らかく、軟骨はくりくりと心地よかった。だから小夜子は予鈴が鳴るまでずっと、涼子の耳を頬や唇で感じていた。落ちかかる黒髪の下に潜り込み、僅かに香る甘いにおいを吸い込んだ。涼子は酷くくすぐったそうにしていたが、やめなかった。本当は「好きだよ」と囁いてみたいと何度も思ったが、それは飲み込んでしまった。
 その翌日は風が強く、とても外に出る気にはならなかったようで、涼子は教室を抜け出ることはなく、手紙が届くこともなかった。涼子にあの場所で手紙を手渡されたのは、そのまた翌日――つまり昨日のことだ。小夜子もまた、涼子がしたように、受け取ったその場で手紙を読んだ。

 ◇ ◇ ◇

 小夜子へ

 進路のことだけど今は進学を考えています。が、親との兼ね合いなどもあってまだ決めかねています。
 やるべきことはやっておこうとは思っているけど、その先のことはきっとなるようになるでしょう。
 どうにもならない先のことで気を病むのは性に合わないので、今はこれくらい。

 とにかく、私のことを気にしてくれてありがとう。
 小夜子と一緒にいられる時間は私にとって本当に貴重なものだと思う。
 だから、今小夜子と一緒にいられるこの瞬間を大事にしたい。
 これからいつまで一緒にいられるかはわからないけれど、離れ離れになるそのときまでどうぞよろしく。

 ◇ ◇ ◇

 読み終えて手紙を畳むと、涼子は膝の上で頬杖を突いて小夜子を覗き込んでいた。なんだか酷く照れ臭く、けれどやはり何かがわだかまり、口の端だけで笑って涼子の肩を指で突いた。

「離れ離れになるだなんて言わないでよ」

 第一声でそう文句を垂れると、涼子は目を細めた。

「いつかはなるでしょ? ほら、結婚式でも死が二人を分かつまでって言うじゃない」

 可笑しそうに笑ってそんなことを言うものだから、小夜子は顔を赤らめて――またそういうこと言う、と目をそらすしかなかった。その時はそれで納得していた小夜子だったが、時間が経つにつれ、やはりもやもやとわだかまっていくものを感じてしまっていた。どういう返事を期待していたのかは、自分でもよくわからない。けれど、何かが違うような気がして、すっきりしなかった。
 今日、涼子は帰りがけに担任に呼び出されていた。何を話していたのかは、放課後の雑踏に紛れて小夜子の耳にまでは届かなかったが、二言三言言葉を交わすと、二人ともが苦笑いを浮かべて、揃って教室を出て行った。それを見咎めた小夜子がまだ帰らないと言い出した時、幸代は本当に不思議そうな顔をしていた。高橋さんと話があるのだと言うと、ますます彼女の謎は深まったようで、何度もその内容を尋ね、用事が済むまで待っていると言い張った。結局、真紀子に引っ張られるようにして幸代は教室を出て行ったが、その顔には不満が満ち溢れていた。機嫌を損ねてしまったかもしれず、これで口をきいてもらえなくなるかもしれないとも思ったが、小夜子は他にどうすることもできなかった。涼子ともっときちんと、できればあの場所以外で話したかったところに訪れた、滅多にない機会だったのだ。
 もう一度指で木目をなぞって、きゅっと音を立てていると、後ろで扉が開く音がした。小夜子がそちらを振り向く間もなく、あれ? と不思議そうな声がした。

「水野さん? どうしたの?」

 近づいてくる声と足音を聞きながら小夜子が身を起こすと、想像通りの人がそこにいた。切れ長の目を少し丸くして、確かに小夜子であることを確かめている。

「うん、ちょっと、一緒に帰りたいなと思って待ってた」

 答えを聞くと、丸く見開かれた目はぱちぱちと瞬いて、一層不思議そうに小夜子を見つめていたが、すぐにふっと細められた。白く細い指が、小夜子の頬に伸びてくる。

「ねえ、ほっぺに跡付いちゃってるよ」

 そう言って机に押し当てられていた側の頬を指先でなぞった。呼気で少し湿った頬が涼子の指になぞられて、きゅっと音を立てるのではないかと思われたが、そんなことはなかった。だから小夜子は自分の手のひらでごしごしとそこをこすって、付いていると指摘された跡を消すことにしたのだった。そうしながら席を持ち主に明け渡し、隣の席に置いておいた自らの鞄を手に取ると、帰り支度を整える涼子を待った。

「一緒に帰るの、梅雨以来だね」

 そんなことを話しながら昇降口を出ようとすると、厚く立ち込めていた雲からはとうとう雨がこぼれ始めていた。思わず二人は顔を見合わせる。出来すぎじゃない? そんなことを言い合いながら笑って、傘置き場から自分のものを抜き取る。あの日とは違って、涼子も傘を用意していた。意外に思った小夜子が、涼子の開いた青い傘を見ていると、あれから私も学習したんだよ、と可笑しそうに目を細められた。今日の午後の降水確率が60%だったことを小夜子は思い出しながら、雨の中、傘を並べた。

「ね、今日なんで呼び出されたの?」

 さらさらと傘に当たる雨音を遮って、小夜子が単刀直入に尋ねると、涼子は担任に呼び出された時と同じような苦笑いを浮かべた。ああ、えっとね。少し言い辛そうに言葉を繋いで前を向く。

「進路調査票をちゃんと書きなさいって怒られた」
「怒られたって……。なんて書いたの?」
「『わかりません』ってだけ」

 呆れてものが言えなかった。開いた口が塞がらないって言うけど、本当にその通りになるなのだな、とぽかんと口を開けた小夜子は思った。それから小夜子のその有様を横目で窺ってきた涼子と目が合ってようやく――あのさ、と一言発したところで、すぐに遮られた。

「待って、待って。言いたいことはわかるから。今先生にも散々お小言言われたところだから。反省もしてるし、ちゃんと書くって決めたから、何も言わないで」
「この前の手紙に進学するつもりだって書いてたのに」
「うん、そうなんだけどさ」
「あれは適当に書いただけだったの?」
「違うよ。それは違う」

 じゃあ、なんでそんないい加減なことを書いて提出したりなんかしたのかとか、今度はなんて書いて提出するつもりなのかとか、小夜子にはまだ言いたいことはあったけれど、そんなお説教染みたことをだらだらと続けるのも無意味に思えた。本人はちゃんと書くと言っているのだから、小夜子がいつまでもうるさく言うようなことではない。きっぱりと不安を否定してくれただけで満足するべきなのだ。それならいいや、と小夜子が話を終わらせると、涼子は安堵の表情を浮かべた。それを見て、小夜子は遠くの不安よりも、今は近くの楽しみだと思うことにした。

「ねえ、もうすぐ冬休みだけど、何か予定ある?」

 尋ねると、涼子は目を逸らし、ああ、うん、と進路の話を持ちかけたときのような苦笑いを浮かべた。

「ちゃんと決まってるのは、正月に母親の実家に行くくらいだけど……」
「じゃあ、また二人で宿題したりする?」
「いや、その、ちょっとどうなるかわからないっていうか、うん。ごめん、予定入れられないんだ」

 涼子らしからぬ煮え切らない言い様で、小夜子の提案は却下されてしまった。正直、残念という言葉では収まりきらないほどに落胆していたが、あまりにも気遣わしげな目を向けられるものだから、小夜子も――そっか、仕方ないね、と笑って見せるしかなかった。けれどすっきりしないもやもやは広がるばかりで、その後はまるで初めて会話を交わしたあの日のように、何も言わずに並んで歩いていた。あの日ほど激しくはない雨脚は小夜子の肩を濡らすことはなく、やかましく音を立てることもしなかった。脇を車がしゃあと水を切って通り過ぎ、ライトの白い光を濡れたアスファルトが跳ね返した。涼子の差す青い傘が小夜子の淡い桃色の傘に触れていく。あの日肩を触れ合わせていた二人の間は傘の分だけ離れていて、その隙間を冷たい風と雨と沈黙が通っていった。
 そうして黙って歩いていれば、もうじき涼子と別れる駅前の交番が見えてくるはずだった。

「小夜子?」

 突然足を止めた涼子に名を呼ばれ、小夜子が視線を上げると、目を丸くした驚きの表情がそこにあった。そう思ったのも束の間、小夜子は自分の視界が歪んでいることに気が付いた。目尻から頬に掛けて、一筋何かが伝っている。そのことに気付いてしまうと目の前の涼子の姿は見る間に崩れていった。

「え? 何? なんで?」

 小夜子は小夜子自身に問いかける。次から次へと溢れてくる涙のわけを問いかける。何が何だか、自分でもわけがわからなかった。そうしている間に涼子は素早く制服のポケットからハンカチを取出し、小夜子の目頭にあてがった。雨以外の雫が小夜子を濡らすたびに、優しく優しく拭われて、小夜子は「ごめん」と「ありがとう」を繰り返し、それでも一向に止まらない涙の滑稽さを笑った。無様に鼻をぐずらせながら、合間に笑い声を挟みながら、握らされたハンカチで顔を覆う。こんなわけもわからず泣く自分を、涼子には見せるわけにはいかなかった。近くにあった手の気配が遠のき、ねえ、小夜子――優しげな声を掛けられたら、もう耐えられなかった。

「ごめん、私どうかしてる。これ洗って返すね。また明日」

 何とか笑って言い捨てると、返事も待たずに小夜子は駆け出した。傘と一緒にハンカチを握りしめ、鞄をがたがた蹴飛ばしながら、雨の中を走った。泣き顔を伏せて走るその背中は、みじめに丸まっているのだろうと思った。みじめに丸まった背中を、涼子が見送っているのかもしれないと思った。見送る涼子の背中は綺麗にまっすぐ伸びているだろう。そう考えてしまうと、涙はますます溢れて止まらなかった。
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