印象

14

 歌うことにも飽きた二人は相変わらず、田園の中の道を歩いていた。青い稲穂に小さな白い花を見つけて喜ぶことももうない。あるのは田園と小さな集落ばかりで、二人が探すのぼりの群れはいつまで歩いても見つからない。疲れ始めた二人の会話も途切れがちだった。

「ああ、お腹減った」

 薄っぺらい腹をさすって涼子がこぼし、小夜子は時計を見る。正直小夜子も空腹感を覚えていた。

「もう2時回ってるよ」

 腕時計で時刻を確認すると空腹感にも納得がいった。そうなると小夜子の胃も早く何かよこせと訴え始める。それをなだめすかして辺りを見渡すと、二人の歩く少し先にこんもりとした森があり、そこに鳥居らしきものも見える。

「あそこでお昼食べさせてもらおうか」

 小夜子が指差すと、足元ばかりを見ていた涼子も視線を上げる。緑の中にある赤いものは僅かであってもすぐに目についたようで、涼子はこくりと頷いた。

「ああ、いいね。そうしよう」

 具体的な目的地が定まると、二人の足取りも軽くなる。思ったより早く辿り着いた鳥居をくぐり、傾斜のきつい階段を上っていく。上った先にあったのは古ぼけた拝殿と狛犬や灯篭だけがある小さな神社だった。ぐるりと見回してもその他には苔むした木の根や石が目につくだけでベンチなどなく、境内の中で一番大きな石の上に陣取ることにした。二人は拝殿前に並んで賽銭を投げ入れ、その旨の挨拶と何事かを願う。そうしてからようやく鞄をおろし、ひんやりとした石の上にに腰かけた。木立によって焼け付く日差しは和らぎ、木々に吸い上げられた水分の一部が辺りに満ちているようだった。緑に囲まれたこの空間は、二人の火照った体を労わるように冷やしてくれた。涼子は大きく息を吸い、幾重にも重なる枝葉に覆われた空を見上げる。その視線が小夜子に下りてきて笑いかける。

「はぁ、涼しいね」
「本当。ちょっと元気出た」

 笑いあうと、二人とも真っ先にペットボトルを取り出し、水分補給に努めた。そうして人心地つけてから鞄からおにぎりを取り出した。一口かじり、空っぽだった腹に食べ物が入っていく幸せを噛みしめる。

「おにぎり持ってきてて正解だったね」
「うん。小夜子様様だよ」

 涼子が笑いかけると小夜子ははにかむ。この旅におにぎりを持って行こうと言い出したのは小夜子だった。涼子はどこかで飲食店を見つけて済ませればいいじゃないかと言ったのだが、そういう店が見つからなかった時に備えて、弁当とは言わずともおにぎりだけでも持って行った方がいいと譲らなかったのだ。結果的にそれが功を奏した。けれど、そうやって持ち上げられたときに返す言葉を、小夜子は知らなかった。だから楽しそうにふふと笑う涼子の声を聞きながら、おにぎりに噛り付くことしかできない。次に小夜子が涼子に話しかけることができたのは、持って来た食料を食べ終えてからだった。

「これからどうする? もうちょっと探してみる?」

 仮に設定されたものとはいえ、未だ目的は達成されていない。時間は中途半端に残っていて、それ故に行くか戻るか小夜子一人では判断しかねた。既に食べ終え、鞄にごみをしまっていた涼子は、ほんの僅か手を止めて思考を巡らし、それから鞄の口を閉める。

「あー、いや、やめとかない? これ以上歩き回る元気はないわ」
「そうだね。じゃ、駅に戻ろうか」
「うん。でも、もう少し」

 涼子は空を見上げ、目を閉じる。小夜子もそれにつられて空を見上げる。木の枝の隙間からのぞく空が青い。

「うん」

 答えて小夜子も目を閉じる。蝉の鳴き声にかき消されそうな木の枝の揺れる音。小夜子には感じられない風が吹いているのだとわかり、それだけでも涼しくなる。土と緑のにおいに混じる、甘いような香り。それを肺に、それから全身にゆっくりと行きわたらせる。心地いいと感じるこの空間を、時間を、二人はしばし共有した。

 どれだけそうしていただろう。ばさばさと鳥の羽ばたく音が聞こえ、小夜子はゆっくりと目を開けた。汗はだいぶ引いていた。

「ねえ、そろそろ行こうか」

 涼子に声をかけると閉じていた瞼が開いていく。その奥にある瞳が小夜子を捕らえる。

「もう?」

 名残惜しそうな声色の涼子に、小夜子はくすりと笑ってしまう。

「まだ?」
「うーん、あと一時間」
「そんなに?」

 くすくす小夜子が笑えば、涼子の目は三日月形に細められていく。

「せめてお日様が沈むまで」
「余計長くなってるし」

 笑って小夜子は立ち上がる。ついた埃を払って、涼子に両手を差し出す。

「ほら、もう行くよ。頑張って立って」
「はいはい。わかりました」

 差し出された手を見て涼子は整った眉をハの字にしたけれど、観念したようにその手を取った。しっとりとした涼子の手が小夜子のそれに重なる。柔らかなその感触が、小夜子をとくりと脈打たせた。ぐっと手を握る力が強まり、涼子はよっと声を出して立ち上がる。縮まる距離に小夜子は思わず息を飲んだが、握られていた手はすぐに離され、ジーンズをはたく。

「行きますか」

 そうして二人は、相変わらずぎらぎらと照りつける太陽の下、来た道を戻った。見るものすべてが初めて出会う景色だった行きとは異なり、帰りは面白みに欠けた。二人の向かう先に待ち受けるのは既に見た景色と、日常。涼子は「暑い」と繰り返し呟き、帰りを促した小夜子の足取りも重かった。

 ようやく辿り着いた駅で時刻表を確認すると、電車が来るまでまだ少し間があった。二人は駅舎脇の自販機で一本ずつ缶ジュースを買うと、ホーム上の日除けのついたベンチに腰掛けた。涼子は冷えた缶を額に押し当て、感嘆を漏らす。小夜子も重くなった足を投げ出し、早速冷えた液体を喉に流し込んだ。

「はあ、ようやく人心地ついた」

 涼子はそう言って、鞄から取り出したタオルで額の汗を拭く。後はもう電車に揺られ、いつもの街に戻るだけ。その先の二人の約束は何もない。そのことに小夜子は思い至ってしまった。

「そういえば、高橋さんは宿題終わった?」
「現実に引き戻すねぇ」

 尋ねられた涼子は苦虫を噛み潰したような顔を小夜子に向けた。それから青い空にそびえ立つ真っ白な入道雲を眺めて、首もとの汗を拭う。

「あとちょっと残ってるんだ」

 続いたのは淡々とした倦怠を滲ませた声。それならさ──かすれた声が漏れて、小夜子は小さく咳払いをする。

「それなら、また一緒にやらない? 私ももう少しだけ残ってるし」

 小夜子を見た涼子は薄い唇を引いて、それから口を開いたが、そこから言葉が出てくるまでには少し間があった。

「小笠原さんたちとは約束したりしてないの?」

 不意に涼子の口から幸代の姓が飛び出してきて、小夜子は投げ出した足がますます重くなったような気がした。今はその名は出して欲しくなかった。けれど現実に引き戻すような話を始めたのは、誰あろう小夜子だった。

「うん。えっと。まあ、幸代と真紀ちゃんとも今度遊ぶけど、まだ空いてる日はあるし、その……」

 言い終わらないうちに──じゃあ、と涼子が話し始める。

「またお邪魔してもいい?」

 完璧な笑顔を向けられて、小夜子は慌てて目を逸らす。

「うん」

 そう頷くのが精一杯だった。太陽はぎらぎらと容赦なく照り付け、それに熱せられた空気は影の中にいようが関係なく襲ってくる。小夜子はホームに電車が入ってくるまでの間、はたはたと手で顔を扇いでいた。

 乗り込んだ電車は冷気で満たされていた。来るときには効きすぎの感があった冷房も、今の二人にはちょうどよく感じられた。

「はあ、天国だね」
「涼しいって贅沢だよね」

 二人並んで座ると、そんなことを言い合った。電車は来た時とは逆の方向に動き出し、しばらくするとのぼりの群れがまた小夜子の目についた。あれだけ歩き回っても見つからなかったそれをあっさり見つけ、電車だったらすぐに見つけられるのにと笑った。けれど疲れのせいか、二人とも次第に口数が減り、がらんとした車内は走行音だけが響くようになっていく。

 小夜子がぼんやりと流れ行く景色を眺めていると、がたんと大きく電車が揺れた。それと同時に左肩に何かが当たる。見れば艶やかな黒髪が間近に迫り、よく耳を澄ませば一定に保たれた呼吸音が聞こえる。汗と埃の混じった匂いが小夜子の鼻をくすぐり、右肩に触れる冷気よりも確実に温度の高い体温が左肩を温めていく。小夜子はまた車窓に目を移し、冷房の効いた車内ではたはたと顔を手で扇いだ。

 電車はがたごととよく揺れて、涼子の頭はたびたび小夜子の肩からずり落ちそうになる。そのたびに涼子の呼吸音の乱れを気にしていた小夜子は、ずり落ちることのないように涼子の頭に自身の頬を押し当てた。甘いような香りが強くなる。

 そうして、人気のない車内を眺める。

 車窓の下に長く伸びる、ところどころしみのある座席。天井で揺れる広告とつり革。車窓から差し込む日は点滅を繰り返し、走行音に紛れて空調がごうごうと音を響かせている。そして左肩と頬に伝わる体温と一定のリズムを保つ呼吸音。

 ──駆け落ちみたいだ。

 そんな言葉が小夜子の胸に降りてきた。

 けれど電車は二人をいつもの町へと運んで行くのだった。
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