印象

13

 駆け落ちでもしているみたいだ、と涼子は言った。笑っているのだろうな、と隣に座る小夜子は思った。

 車窓を流れる景色が見慣れないものになり、乗客もまばらになってきた頃のことだった。

「何それ」
「目的地もなく、とにかく二人で遠くへってところがそんな感じじゃない?」

 古い車両はとにかく、がたごととよく揺れた。二人から少し離れたところで、帽子をかぶった老人が座っていた。眠っているらしい老人の頭は車両の振動に合わせるように揺れる。その様子を視界の端に捉えながら、小夜子は隣から発せられる声に耳を傾けていた。

「そうだけど」

 小夜子が声を発すると、車両はがたんと一層大きく揺れ、二人の肩がぶつかる。バランスを崩しかけた老人が辺りを見回していた。

「私たち、恋人じゃないよ」

 構わず小夜子が続けると、涼子はくすりと笑った。

「そうだけど」
「女同士だし」
「そうだけど」

 くすくす笑って、涼子は小夜子と同じ言葉を繰り返した。自らの台詞を真似られた小夜子は口を尖らせる。それに気づいているのかいないのか、涼子は楽しそうな声音で続ける。

「雰囲気だよ。雰囲気」

 ──雰囲気。小夜子は口の中で呟いて、車内を改めて見回した。

 車窓の下に長く伸びる、ところどころしみのある座席。天井で揺れる広告とつり革。それと共振するように、ゆらりゆらりと頭を揺らしている老人。車窓から差し込む日は線路わきの建物や樹木に遮られることで点滅を繰り返し、走行音に紛れて空調がごうごうと音を響かせている。

「ちょっと冷房が効きすぎだよね」

 そう小夜子が感想を述べると、涼子はふふっと声を出して笑った。

「小夜子のそういうところ、好きだよ」

 涼子の涼やかな声が小夜子の胸をじんわりと暖かくさせる。その心地よさに緩みそうになる口元を見られないよう、小夜子は前髪を除ける素振りで顔に手を添える。そうして黙ってただ車窓を眺め続けていた。と、車窓を覆っていた木々が消える。青々とした平坦な田園が続く向こうに、のぼりが立ち並んでいるのが見えた。

「あれなんだろ。お祭りかなんかかな?」

 小夜子が目を凝らしていると、涼子も身を乗り出した。

「どれ? あ、なんかやってる」

 涼子もその存在を確認したところで、また車窓は木々に覆われてしまった。それで小夜子は座席に座りなおしたが、涼子は体ごと小夜子に向き直った。

「ねえ、次で降りてあそこに行ってみない?」
「え? 行くの?」
「いや?」
「でも道もわからないし、辿り着けないんじゃない?」
「それでもいいじゃない。散策だよ」

 元々二人に目的地などない。とにかく電車に乗って、降りたいところで降り、降りたくなければ乗り続けるという、全くの無計画な計画だった。自分では決して思いつきもしなかっただろうその計画を涼子から聞かされたとき、小夜子は半ば呆れながらも承諾したのだった。呆れながらもこの日を心待ちにしていたのだった。

 朝から乗り続けること数時間。電車に揺られ続けるのにも飽きてきた頃だった。しばし唸っていた小夜子も吹っ切れたように頷いた。

「行ってみようか」
「よし、行こう」

 そうして二人は聞いたことのない名前の駅に降り立った。その瞬間に強い日差しと蝉の鳴き声が二人に降り注ぐ。それには二人揃って呻いてしまい、顔を見合わせた。

「行きますか」
「うん」

 苦笑を交し合い、歩き出す。誰もいない駅を出ると、とりあえず今電車が来た方角に足を向けた。

 道なんてわからないからひたすらに線路に沿って歩き続けることにした。小さな駅の周辺にはそれでもちらほらと民家や商店があったが、しばらく行くとそれも見られなくなる。広がる田園と、どこからどこへ伸びていくのかわからない電線と、それを支える電柱と、照りつける太陽。そんな中を二人は肩を並べて歩いていた。

 「ねえ、この道日影が少なすぎない?」

 たすき掛けにした鞄のベルトの位置を直してから、涼子が愚痴を漏らす。それでも足は止めないが、その額には玉の汗がいくつも光っている。小夜子は持っていたハンカチで涼子の顔を扇いでやりながら、辺りを見渡した。

「田んぼばっかりだからね。真夏に出かけるんだから、帽子かぶってこないと」
「だって帽子好きじゃないんだもの」

 小夜子のかぶっている帽子にちらりと目をやって、それがさも当たり前のような顔で涼子は言い放つ。暑さに弱いと公言しているくせに、対策はまるでしてこない涼子に、小夜子は苦笑するしかなかった。

「途中で倒れないでよ」
「大丈夫大丈夫」

 笑って鞄からタオルを出して、涼子は顔の汗を拭う。そして行く先へと視線を伸ばすと、「あ」の形に口を開いた。小夜子が何事かとその視線を追うと、今まで寄り添うように走っていた線路と道路が別々の方角へと延びていた。道路は相変わらず田園を縁取るように走って行くのに、線路は右手に見える小さな山の中へと消えていく。自然と二人の足が止まった。

「どうしましょ」

 おどけた口調でそう言うと、涼子は小夜子を見やる。尋ねられた小夜子は苦笑を返しながら選択肢を提示した。

「どうしましょって言ったって、戻るかこの道を進むかしかないんじゃない?」
「まあ、『stand by me』じゃあるまいし、線路を歩くわけにもいかないか。あ、知ってる? 『stand by me』」
「知ってるよ。一度テレビでやってるの見たことある」

 小夜子の答えに──そう、と返すと、涼子は満足そうに微笑む。そしてぐるりと辺りを見回してから、腕時計に視線を落とす。

「この道がどこに向かってるかはわからないけど、もうちょっと先まで行ってみようか」

 ちょっとした冒険じみてきた。小夜子は悪戯顔の涼子を見ながら、こくりと頷く。そんな小夜子もまた、悪戯を思いついたときのような表情をしていることを本人は知らない。涼子が鞄から取り出したペットボトルをぐいと煽って、そして二人は再び歩き出す。すると

「うぇんざない はずかんっ」

 不意に涼子が歌いだした。それは小夜子も一度は耳にしたことのある、件の映画の主題歌だった。涼子の歌なんて初めて聞く小夜子は、興味がそそられてその歌声に耳を傾けた。けれど、続くのは歌詞ではなくハミングで、思わず小夜子は吹き出してしまう。

「知らないんじゃない」
「ちょっと聞いたことがある程度の曲、そんなばっちり覚えてないよ。いいのいいの、雰囲気なんですからね」

 得意げな笑みで言い返すと、涼子はまたハミングを始める。小夜子はくすくす笑いながらそれを聞き、自分も知っている部分だけ歌った。

 もちろん雰囲気だけで歌っている彼女たちは、その歌詞の意味など知らないし、考えてもいない。ただ知っている部分だけを繰り返し繰り返し歌う。そうして二人は見知らぬ土地の見知らぬ道を、うろ覚えの曲に乗せて歩き続ける。知っているのは僅かな歌詞と、隣で歌い、笑うお互いだけだった。
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