12
「はあ、疲れた」
大きな溜息とともに涼子は部屋の脇にあるベッドへと倒れこんだ。その姿を視界の端に捉えた小夜子は時計を確認する。
「高橋さん、もう少しやろうよ」
「今日はもういいよ。私、頑張った」
小夜子の叱咤をかわし、涼子は顔をタオルケットに押し付ける。ぴんと張っていたそこに皺が寄る。
「あ、小夜子のにおい」
「ちょっとやだ。やめてよ」
小夜子は向き直って拒絶の意を表したが、涼子はくつくつと可笑しそうに笑っている。
涼子が初めて小夜子の家を訪れてから十日ほど。涼子は毎日のようにやってくる。それは手紙で約束していたことだったから、小夜子は他に予定を入れることもなく、毎回駅で涼子を出迎え、そして駅で見送っていた。
「おばあさんの家に行くのって明後日だっけ?」
タオルケットに押し付けていた顔をずらし、くぐもった声で涼子が尋ねる。
「うん。明後日からお盆まで」
小夜子は机の上のカレンダーに目をやる。涼子はそれを追いかけるように上半身を持ち上げ、カレンダーを覗いた。カレンダーには明後日の日付と隣の枠にある15のところに丸がつけてある。もう一度うつ伏せになった涼子がごろりと寝返る。
「長いなあ」
手足を投げ出し、天井を眺めて涼子が呟く。ひとつに束ねられた髪がタオルケットの上に黒い線を描いていた。その様子に小夜子は口元を緩める。
「毎年この時期が忙しいらしくて。それにめったに顔を見せられないから仕方ないよ」
「ふうん。うちはお盆にちょっと顔出すだけだからなあ」
言って涼子は頭上で手を組み、うんと伸びる。白い涼子の二の腕は他よりも尚一層白い。毎日のこの日差しの中で、よくもこう白いままでいられるものだと小夜子は目を細めた。そして伸びきった涼子は脱力する。
──そう言えば
足を持ち上げ、下ろす勢いで涼子は起き上がった。
「小夜子のおばあさんってどの辺りに住んでるんだっけ?」
「長野だよ」
シャープペンをノートに置き、小夜子はすっかり小さくなった氷が浮かぶグラスに口をつける。
「長野かあ。涼しそうだね」
「まあ、ここよりはね」
「いいなあ」
一向に風を取り込もうとしない窓を涼子は眺めた。強い日差しが立ち並ぶ家々の屋根を焼いている。涼子は手の平で顔を扇ぎ──暑いなぁ、と呟いた。そしてベッドを降りると扇風機の前に陣取った。
涼子は毎度、暑い暑いと文句を垂れる。だから小夜子は冷房設備の整った図書館に行こうかと提案してみたことがある。図書館は駅からの距離で言えば、小夜子の家よりも近いぐらいだ。しかし、涼子は気乗りしない様子で小夜子の部屋に向かうことになったのだった。
それ以来その提案は提示されることはなく、涼子はこの部屋で小夜子と時間を共にしている。暑い暑いとこぼしながら、額に汗を滲ませながら、それでも暑い小夜子の部屋に来る。
扇風機の前に陣取った涼子は満足げな声を上げる。扇風機は低い機械音とともに羽と首を回し続けていた。そこから生み出された風は、涼子の黒髪をたなびかせ、服をはためかせ、十分に涼子の体を撫でてから、小夜子に届く。そんな風に紛れた、甘いような酸っぱいようなにおいに小夜子が気づいたとき、涼子が振り向いた。
「そうだ。どこか避暑地にしようか」
風が黒髪を激しく乱し、白い、けれど赤味を帯びた頬に幾筋か張り付いた。涼子の指がそれを取り除くところを小夜子は惜しみながら眺めた。
「遊びに行くところの話?」
「そう。北海道とか、軽井沢とか。あ、カナダとか」
避暑地の代名詞とも言える地名の羅列。最後のカナダで小夜子は声を上げて笑ってしまった。
「いいね、カナダ。涼しそう」
「でしょ? ついでにアラスカまで足を伸ばしてもいいんじゃないかな」
「それはちょっと涼しすぎるんじゃない?」
今度は涼子が笑う番だ。──それもそうだね、と破顔する。教室では一度も見せたことのない表情。この部屋では何度も見せる表情。それを見て小夜子もまた笑う。
「冗談はともかく、いい加減どこに行くか決めないと」
笑いの余韻を残したまま小夜子は切り出した。
涼子がこの部屋に来るようになって十日ほど。毎日のようにやって来る涼子と、小夜子は毎日のようにどこに行こうか話した。けれど話はいつも現実味のない話に脱線するばかりで、一向に纏まらなかった。手紙で約束していたのは今日この日まで。しばらくは会うことも、話すこともなくなる。
切り出しはしたものの、しかし小夜子はもう、どこかに行かずとも良いような気もしていた。暑いこの部屋で涼子と二人で暑い暑いと文句を垂れて、どこか涼しいところの話をして、笑って、それだけで良いような気がしていた。
「そうだねえ」
涼子は手を伸ばし、テーブルからグラスを取り上げる。一口麦茶を口に含んで、結露で濡れたそのグラスを頬に当てる。しばらくそうして空を見つめ、そして声を上げる。
「良い事思いついた」
グラスをテーブルに戻し、涼子は笑う。薄い唇はさらに薄く引き伸ばされ、切れ長の目は小夜子を捕らえる。悪戯を思いついたときの顔だ。
「どこでもないどこかっていうのもいいんじゃない?」
その言葉に首を傾げる小夜子を、涼子はしばらく悪戯めいた笑みのままで見つめていた。