印象

 10

少しも風を取り込んでくれない開け放たれた窓を睨むと、小夜子はTシャツの胸元をばたつかせた。そうしながら、部屋の壁に取り付けられた時計で時間を確認する。約束の時間まではもう少しある。

小夜子はもうかれこれ二時間ほど掃除をしていた。少し整理しておこうかというくらいの気持ちで始めただけだったのだ。それがひとつ気になり始めると、あれもこれもと気になってしまう。いつも整理整頓を心がけているはずなのに、片付けるものは意外とあるのだ。

──あとは

机を見る。教科書やノート、参考書等は秩序を保って並べられ、机上には塵ひとつ無い。その机の一番上の引き出しを開けると、輪ゴムでくくられた簡素な封筒の束が姿を現した。

元々はその引き出しには細かな文具ばかりが入れられていた。しかし今は、本来収められるべき物以上にかさを増した封筒の束がそこに収められている。そのことに、小夜子は違和感を覚える。もしかしたらまだ増えるのかもしれないと考えると尚更だ。どこか適切な収納場所をと頭をひねる。

と、小夜子の頭に浮かんだものがあった。
幼い頃、宝物と称して大事にしていたガラクタを入れていた小箱。きれいな千代紙で彩られた、子供にとっては少し古臭い箱。それは祖母が小夜子にくれたものだった。幼い小夜子が『宝物』を披露したときに、『宝物』は『宝箱』に入れないと、と言って譲ってくれたのだ。その頃大事にしまっていた中身はとうに捨ててしまったけれど、その箱自体は捨てられずにとってあった。

──確かこの辺りにあったはず。

押入れの一角を探ると、小箱はすぐに見つかった。記憶と寸分違わぬその姿に、ほんの数秒懐かしさに浸る。そして空だったその箱に、引き出しを占領し始めていた封筒の束を収めた。そのためにあつらえたかのようにちょうど良い大きさだった。予想通りの結果だ。

満足に表情をほころばせると、小夜子はその箱を置く場所を求めて部屋を見渡した。目に留まったのは机の横に置かれた棚。求めていた場所に、求めていただけの隙間を見つける。置いてみると良い塩梅にはまった。相変わらず部屋は暑く、体中に汗がにじんでいたが、小夜子は気分が良くなった。

そこではたと気付く。

──汗臭いかもしれない。

時計を見ると、もう約束の時間になろうかというところだった。着替えている時間はない。やたら根を詰めてしまった少し前の自分を恨みながら、小夜子は鞄から取り出した制汗スプレーを体のいたるところに吹きかける。そして涼子が待っているであろう最寄の駅へと急いだ。

小さな駅には人影はまばらで、その中に涼子の姿はまだ無かった。喉の渇きを覚えた小夜子が自販機で何か買おうか迷っているところへ、電車が入ってくる音がした。そのしばらく後には人の流れが改札を流れ出てくる。小夜子はその奥に待ち人の姿を求めて覗き込んでいた。

行き交う人の流れの中でも、やはり涼子は目を引いた。本人は歩いているだけなのに視界に入った瞬間に小夜子の意識はそこに向かってしまう。

──あ、今日は髪を纏めてるんだ。

長い髪を後ろで結い上げているその姿をぼんやりと眺める。ぼんやりとしていても、小夜子は涼子が僅かに口元を緩ませることすら見逃さなかった。それが涼子も小夜子に気付いたためだと理解するまでは少し間が開いたけれど。

「こんにちは」
「こんにちは。お出迎えありがとう」

改札から出てきた涼子は真っ直ぐに小夜子に歩み寄り、笑った。手紙ではない、久しぶりの会話。教室では決して交わされることのない、挨拶。けれど、その光景は駅前ではよく見られるもので、二人のことを気に留める人は誰もいない。人込みの中にあって、涼子と小夜子は二人きりだった。

「今日も暑いね」

涼子が笑いながら天を仰ぐ。二人きりの時には涼子はよく笑う。教室での何に対してもつまらなそうな顔をしているところからは想像がつかないほどだ。笑いながら涼子が見上げるその先では、遮るものの無い太陽が光と熱とを放出している。小夜子は自分がまた汗をかいてしまっていることに気がついて、涼子から半歩退いた。

「本当、暑いね。だけど、高橋さんって暑いときでも平気そうな顔してるよね」
「そう見える? でも私、汗かきなんだよ。電車から降りたら、一気に汗が噴き出したもの。あ、汗臭かったらごめん」

そして涼子はまた笑う。あらわになった首筋が陽光を跳ね返した。

「私も汗かいてるし、お互い様だよ」

そう笑いつつ、涼子の首筋から放たれた光の眩しさに、小夜子は目を逸らす。涼子にそうと気付かせないために、「行こう」と声を掛けて歩き出すのも忘れずに。涼子が半歩遅れて、それに続く。

「暑いのに迎えに来てもらって、悪かったね」

半歩の差を埋めて、涼子は小夜子と肩を並べる。

「そんなこと。私の家の場所、説明しづらいところにあるし」

埋められた距離を、小夜子はもう一度開く。

「そう言えば私、友達の家に遊びに行くなんて、いつ以来だろ」

開いた距離を涼子はすぐに縮める。

「今日は遊ぶんじゃなくて、宿題するんでしょ?」

縮んだ距離を、小夜子はもう広げなかった。

「そうでした」

涼子はまた、声を上げて笑う。自身とは異なる香りが僅かに小夜子の鼻腔をくすぐったが、それもすぐに熱い空気と混じりあい、わからなくなる。久しぶりの涼子の笑い声と話し声を隣に聞きながら、小夜子は涼子を自宅へと案内した。

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