11
「適当に座ってて。お茶でも持ってくるから」
「あ、ありがとう」
涼子を部屋に迎え入れた小夜子は、すぐに台所へと向かう。炎天下を歩いて、小夜子の喉はすっかり渇ききっていた。
麦茶を手に小夜子が部屋に戻ったときには、涼子はテーブルの脇に座り込んで部屋の中を見回していた。部屋の中でも涼子の首筋は酷く白く映えた。ぱたぱたと手で顔を煽ぐ涼子の前に麦茶を差し出すと、小夜子も腰を下ろす。
「ありがとう。なんか、さすがというかなんというか」
出されたグラスを手に取った涼子が口元を緩めて言う。自らも冷たい麦茶で喉を潤した小夜子は、首をひねる。
「何の話?」
「部屋がさ、きちんとしてるなぁと思って」
そう言って、涼子はまた部屋を見回す。掃除をしたとは言え、じっくりと部屋を見回されては、座りが悪い。
「ああ、さっき掃除したから。ほら、そんなことより宿題やろう」
部屋を物珍しそうに眺める涼子の意識を逸らすように、小夜子は扇風機の電源を入れてから、数学の問題集を広げ始めた。その思惑通り、涼子の視線は小夜子へと移り、切れ長の目は大きく見開かれた。
「え? もう?」
「そのために来たんでしょ?」
「そうだけど。遊びに行く計画も練るはずじゃなかった?」
「そうだけど……」
口篭る小夜子の開きかけたノートに手を伸ばし閉じると、涼子は悪戯めいた笑いを浮かべる。
「気になることがあったら、集中できないし。ね?」
「それはそうかも、しれないけど……」
「そうだよ。さ、どこ行く?」
すっかり涼子のペースだ。それに巻き込まれていることを自覚しながらも、小夜子はそれに逆らわない。溜息交じりの笑いを漏らしただけだ。
「そうだなぁ。また映画でも観に行く?」
小夜子の無難な提案。それに涼子は渋面を作る。
「それでもいいけど、夏休みだし、もうちょっと普段は行かないところに行ってみたくない?」
小夜子にとってみたら、映画だって『普段は行かないところ』のくくりに入る。それ以上に行かないところとなると、うまく思いつかなかった。
「例えばどんなところ?」
「そう、例えば……」
背後に突いた両手に体重を乗せ、涼子は天井を見上げる。白い喉が伸びて、滲んだ汗が光を放つ。そうやってしばらく天井を見ていた涼子が呟く。
「海とか、山とか?」
海や山で遊ぶ涼子の姿が小夜子にはうまく想像できなかった。
「それ、高橋さんは行きたいの?」
天井を仰いでいた目が小夜子へと降りてくる。そして苦い笑い。
「ううん、あんまり」
「だと思った」
小夜子が笑うと、涼子の笑みから苦さが消える。そうして二人で笑ってから、一口麦茶を飲んだ涼子がうーんと唸った。
「どこかに行きたいんだけど、具体的にとなると思いつかないなぁ」
「私も。別にどこでも良いと言えば良いんだけど」
「もういっそ、知らないところを適当にぶらぶら歩くだけとか」
「知らないところってどこ?」
「知らない」
そして二人はまた笑う。話は少しも纏まりそうにない。それが小夜子には可笑しくて仕方がなかった。普段ならば、こういう場合は決まって苛立つというのに、可笑しくて仕方がなかった。
「あ、もうこんな時間。少しは宿題もやらないと」
少しも纏まる気配も見せない話を切り上げて、時計を見上げた小夜子が提案したのは、窓から西日が差し込み始めた頃だった。小夜子に倣って時計を見上げた涼子は唇の端を持ち上げる。
「これは今年の夏休みは宿題がはかどりそうだわ」
そう言うと、今度は小夜子の提案を受け入れた。部屋には笑い声の代わりに蝉時雨が充満する。そこに扇風機の作動音と、風に煽られたものがはためく音が混じる。ノートを広げると涼子は、先ほどまでとは打って変わって真剣な表情になった。
小夜子はその表情を盗み見る。盗み見てはノートに視線を戻す。風に煽られたノートを涼子が押さえれば、扇風機の角度を変え、麦茶の入ったグラスが空になれば注ぎ足した。小夜子のノートはなかなか埋まらず、文字は増えては減りを繰り返した。
数十分の間に酷使された消しゴムは丸くなり、小夜子の指が誤ってそれを弾くと、ころころとよく転がった。ころころと転がった消しゴムは涼子のノートの上で止まり、ノートの持ち主の指につままれる。
「はい」
少しささくれ立った指につままれた消しゴムは、転がったものを追いかけて伸ばしかけた小夜子の手の上に乗せられた。
「ありがとう」
ほんの少し。受け渡しの際に、指が手のひらをくすぐった。
消しゴムを渡し終えた涼子は大きく伸びをして、窓の外を見上げていた。手のひらのくすぐったさを堪えて消しゴムをかけていた小夜子もそれにつられる。窓の向こうの家並みは随分と影を濃くしていた。
「暗くなってきちゃったね」
小夜子の声に涼子が振り向く。
「そうだね。もうそろそろ帰らなきゃ、かな」
「もう帰る?」
「うん」
首を大きく回してから、涼子はテーブルの上を片付け始める。ノートを閉じ、問題集を閉じ、二つを重ね、ペンと消しゴムを筆入れに収め、そしてそれらを鞄に入れる。その動作ひとつひとつを小夜子は眺めていた。
「あ、駅まで送るよ」
思いついたように小夜子が言うと、鞄の口を閉めた涼子が笑う。
「いや、暑いし、いいよ」
「でも、道わかりづらいし、飲み物も買いに行きたいし、ついでだよ」
麦茶の入っていたポットはすっかり空になっていた。それを確認した涼子は頬を指で掻いた。
「うん、じゃあ」
「うん」
そんな風に二人揃ってよくわからない笑みを貼り付けて立ち上がる。小夜子は部屋の隅に掛けてあった自分の鞄を取り上げ、既にドアに向かっている涼子に尋ねた。
「明日も同じくらいの時間でいいんだよね?」
振り向いた涼子は薄く笑う。
「そうだね」
「うん。じゃあ、待ってる」
涼子に合わせて小夜子も薄く笑う。そして続ける。
「明日こそ、どこに行くか決めようね」
それを聞いて、涼子は声を上げて笑った。そして──はいはい、と空返事をしながら小夜子の部屋を後にした。