印象

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映画館近くのファーストフード店。空になった包み紙を丁寧に折り畳みながら発した小夜子の言葉に、涼子は顔をほころばせた。

「やっぱりそこのシーン良かったよね。主人公の表情がまたさ──」

嬉々として話し始める涼子の言葉に小夜子は一々うなずいて聴き、たまに自分の感想を差し挟む。そのたびに涼子は切れ長の目をきらめかせ、薄い唇を忙しそうに動かした。

小夜子と涼子が待ち合わせたのは、前回と同じ時間、同じ場所だった。前回同様、小夜子は時間前に到着し、涼子は時間きっかりに現れた。やはり小夜子は映画館の雰囲気に座りの悪さを覚えたけれど、今度の映画は面白いと思えた。それは涼子も同じだったようで、席を立ってからしばらくして、肩を並べて歩いていた小夜子が一言「面白かったね」と言ってからは堰を切って映画の良かったところを話し始めた。その内容は小夜子も共感するところばかりだったので思わず会話が弾み、そのまま食事を共にすることになったのだった。

なんとなくどこがよかったというようなことしか言えない小夜子に対し、涼子はどのシーンや台詞がどういう効果をもたらしたとか具体的に良かった点を挙げる。そうやって涼子は食事する間も惜しむかのように語った。その姿は普段の言葉少ない涼子からは程遠いものだったが、そんなことすら気付かないほど、小夜子はその話に夢中になって耳を傾けていた。

「いやぁ、今回は面白くって良かった。水野さんを誘ってまた外れだったら悪いからね」

機嫌良さげに涼子は喋りつかれた喉を潤す。喜色を満面にたたえた涼子を見て、小夜子はかねてからの疑問がふと湧き上がった。

「ねえ、どうして私を誘ったの?」

教室での二人は、依然として係わりが無い。小夜子はクラスの委員長として、また幸代と真紀子の良き友人として過ごしているし、涼子はふらりと教室を出入りし、誰とも最低限の会話しかしようとしない。二人の間に会話は無い。ただ、小夜子は事ある毎に涼子の行動に気を取られてはいた。涼子にはそんな気配は見受けられなかったから余計に不思議だった。

「どうして」

小夜子の問いを涼子は反芻する。それっきり口を閉ざしてさっきまで口に含んでいたストローを指で弄ぶ。そして小夜子が一本ポテトを食べる間だけ考えてから口を開いた。

「なんだろう。水野さんは私が気付かないことに気付く人だから、一緒の映画を観てもそういうところがあるんじゃないかと感じたのかも。よくわからないけど」

言い終えてストローを口に含む。と、思いきやその寸前でもう一言付け加える。

「まあ、水野さんと話すのが楽しいからってのが一番なのかも」
「いつもは話しかけたりしないのに?」

──これじゃあまるで、話しかけて欲しいみたいだ。
言ってしまってから小夜子は思った。そういうわけではない。涼子が話しかけてこないことに小夜子が安堵しているのは動かしようのない事実で、きっと教室で今みたいに話しかけられでもしたら、戸惑うに違いないのだ。

それでは何故涼子とこうして会う約束などしたのか。小夜子はここしばらくそれを考えていた。係わり合いになりたくないと思っていた。馴れ馴れしくされたくないと思っていた。確かにそう思っていたのに何故。

傘に入れたのは義務感から。前回映画を一緒に観に行ったのも義務感から。手紙を出したのも義務感から。でも今回は違う。なんの義務も負ってはいない。自ら望んでこうしている。本当は涼子が小夜子を誘ったことよりもそちらの方がずっと不思議だった。

涼子は一口コーラをすすり、それを飲み下すと──だって、と切れ長の目を細めた。

「他の人がいると水野さんと話せないから」

周囲の視線など気にも留めない様子の涼子の言葉とは思えない。それを気にするのは小夜子だ。

「そう? 高橋さんはそういうの気にしないと思ってたんだけど」
「うん。他の人がどうかってのは違う気もするんだけど、私もよくわからない。けど、なんとなく他の人といるときの水野さんとは話せない。でもまあ、こうして話すのが楽しいからいいんだよ」
「よくわからない」

わかったのはこれからも級友のいる場では話しかけられることはなさそうだということ。首をひねった小夜子に、涼子は──そうだね、と薄く笑った。それは完璧だった。だから、小夜子は目と話ををそらす。

「そういえば、高橋さんはいつも授業中にどこに行くの?」

涼子が授業を抜け出してどこへ行っているのか。そんなものは小夜子には関係の無いことだ。問題なのは授業を抜け出すその行為だけのはずだ。それなのにこんな質問が口を突いて出るのはどういうことなのか。

「中庭に通じてる非常階段あるじゃない。そこで好きなことしてるんだよ。あそこなら雨もしのげるし、天気のいい日は日当たりもいいし、それに誰も来ないし」

──秘密だよ。
涼子は最後に悪戯めいた笑みを浮かべてそう付け足した。そして一口コーラをすすって先を続ける。

「そういえば、手紙を書いたときに調べて知ったんだけど、水野さんの下の名前、小夜子って言うんだね」

その薄い唇から発せられた自分の名前に小夜子の横隔膜は過剰に反応する。息が上手く吸えなくなった。

「え? うん、そう」
「『夜』って字が入ってるのが少し意外だよね」
「意外?」
「うん。水野さんって暗さって言うか陰の部分とは無縁な感じがしてたから。ねえ、小夜子って呼んでもいい?」

小夜子はこれまでの十七年という僅かな人生の中で初めて、自分のことがよくわからなくなっている。規律を尊び、それを乱すことを嫌い、誰かに迷惑をかけることも小言を言われるようなことも避けてきた小夜子。そんな自分の理解の及ばない人物とはできるだけ係わらないようにいたいと思ってきた。それが何故、自ら望んで涼子と係わろうとするのか。級友たちの前では話しかけられないとは言え。

──他人を気遣う姿を見つけたからか?
大人しく地理の授業に出ている涼子。それでもそれ以外での涼子の行動は小夜子の嫌う規律を乱すものには違いない。拒絶していなくてはおかしい。自身の考えと矛盾する行動はなんだか気持ちが悪かった。

目前で完璧な笑顔を讃え続ける涼子を盗み見てから、小夜子はストローに口をつけてすする。けれど吸い口から出てくるのは空気ばかりで、僅かな水滴を中途半端に吸い込んだストローが紙コップの中で音を立てた。

「えっと、好きに呼んでもらって構わないけど」
「じゃあ、好きにする」

涼子は機嫌良さげにコーラを飲み干す。

──皆の前でそう呼ばれたら困るくせに何を言ってるんだろう。

またしても矛盾。矛盾は小夜子を気持ち悪くさせる。けれど気持ちが悪いその行動によってもたらされるのは、それとは真逆の感情だった。そうして小夜子はよくわからないまま、自身の疑問に何も答えを導き出せないまま、涼子との係わりを持ち続ける。

──こうして話すのが楽しいからいいんだよ。

それは涼子が発した台詞。

「小夜子、ちょっと頂戴」

小夜子の残していたポテトを摘み上げ、口にする涼子を見ながらそれを思い返して、小夜子は考えることをやめた。

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