印象

 7

「それでは、この案を今日の委員会で提出してきます。他のクラスとの話し合いで最終決定ということですので、決まりましたらまた報告します。準備が始まるのは二学期に入ってからですが、それまで具体的な案を考えておいてください」

教壇に立ち、クラス全員に呼びかけてから、小夜子は窓際に立っていた担任の教師に「終わりました」と声を掛ける。組んでいた腕を解いて「はい、ご苦労様」と応えた教師はそのまま壇上に上がる。小夜子は黒板に書いてあった議事を手元にまとめると、教師を背に黒板を几帳面に消し始めた。

「文化祭までまだ日はありますが、みんな協力して楽しんでいきましょう。えー、でもその前にまだテストがあるから、それも忘れず頑張って取り組むように」

教師の最後の一言に浮き足立った雰囲気だった教室内は一転、悲鳴交じりの嘆息が充満した。苦笑をこぼした小夜子は白く残った最後の消し跡を上から下へと拭い、元の深い緑色を取り戻したことに満足すると黒板消しをかたりと置いた。そして腕や手に付いた白色の粉を払い落とし、席に向かう。視線を巡らすと頬杖を突いて窓の外を眺める涼子の姿が目に入った。外は雲の切れ間が見え始めてはいるものの、相変わらずの雨が音も無く地上にあるもの全てを濡らしている。

小夜子が席に着くのを確認した教師は終業を告げ、それと同時に教室があわただしくなる。
部活動のために駆け出す者、ゆっくりと帰り支度を整える者、何人かで固まって楽しげに会話を始める者。

小夜子は最低限の筆記具を残し、荷物を鞄に詰め込んでいた。そこに幸代が駆け寄る。

「小夜子、これから委員会なの?」
「そう。たぶん遅くなるから先に帰ってていいよ」

気遣わしげな幸代に小夜子は笑顔で答える。

「大変だねえ。委員会って結構頻繁にあるんだね。知らなかった」

とは小夜子の隣で荷物をまとめている真紀子。言葉とは裏腹に荷物をまとめる手は動かしたままで、特別気遣っている風でもない。真紀子のそういうところを指して幸代はしばしば冷たいとこぼしたけれど、小夜子は割と気に入っている。

「ううん。今日のでしばらくは無いんじゃないかな。これからは生徒会が大変なだけみたい」

以前告げられた委員会の予定を思い返しながら答える小夜子の視界の端を真っ直ぐな背中が横切った。その背中はすぐに廊下に消えていく。
涼子は相変わらずふらふらと授業を抜け出したりしている。今日も三限の体育と四限の古文の時間に姿を眩ましていた。しかし地理の授業だけはあれ以来サボっていない。小夜子の席からはその授業態度までは窺えないが、あのやかましい教師が文句を言わないところを見ると少なくとも表面上は真摯な態度を装っているのだろう。小夜子はそれに小さな満足を覚えていた。

「そっか。じゃあ、先に帰るけど、いいかい小夜子。気をつけて帰るんだよ。変な人に絡まれたらすぐに逃げるんだよ」
「過保護な母さんだね」

小夜子の肩を両手で叩き、冗談めかしながらもやはり気遣わしげな幸代に真紀子が的確なコメントをつけた。小夜子はその様子が可笑しくて仕方が無かった。そうしてひとしきり笑ってから、先に帰宅する二人を見送り、自分は委員会に向かった。

話し合いというよりジャンケン大会に終始した委員会を終え、小夜子はなんとか第二志望であった催し物の権利をつかんだことに安堵していた。負け続きで良いのが取れなかったと肩を落とす隣のクラスの委員長と別れ、廊下の窓から外を窺うと、雨は止んでいるようだった。

──今日は運がいい。

そうして気分良く足を踏み入れた無人のはずの教室には、涼子がいた。

「あ、水野さんお疲れ様」

手元から視線を上げた涼子は事も無げに小夜子に話しかけた。その声と笑顔が小夜子に向けられたのは一週間ぶりのことだった。そのことよりも、帰ったと思い込んでいた涼子がそこにいることに小夜子は驚いた。

「高橋さん、どうしたの? また居残り?」

自分が違和感なく話しかけていることに、小夜子は尋ねてから気がついた。驚いていたからだと理由をつけて、立ち止まっていた足をゆっくりと動かしながら回答を待つ。その小夜子に涼子は苦笑を返す。

「違うよ。本をね、読んでたの。なんとなく、教室で読みたい気分だったから」

ひょいと本を掲げてその存在をアピールする。涼子が手にしているものが文庫であることと、背表紙に貼られたラベルから図書室の蔵書であることはわかったが、その中身までは小夜子にはわからない。

「なんとなく……」
「そう、なんとなく」

小夜子が小さく復唱すると、涼子は薄く笑ってそれを更に追いかける。何を読んでいるのか少し気になりはしたけれど、尋ねるほどではない。それよりも気になることがある。小夜子は机に筆記具を置いて、横に掛かっている鞄を取り上げた。

「私、高橋さんは教室にあまり居たくないのかと思ってた」

彼女の居場所は他にあるのだとも。小夜子の世界とは別の場所に自分の世界を持っている人なのだと思っていた。黒光りする皮製の鞄を開き、その中に筆記具を入れる。振り向いた涼子が苦く笑うのと、留め金がぱちりと音を立てたのは同時だった。

「まあ、いつも抜け出してるけどね。誰もいないときは割りと好きだよ。結構、雰囲気あるでしょ?」
「雰囲気……」

小夜子がまた小さく復唱すると、涼子もまた薄く笑った。

「そう、雰囲気」

小夜子は室内を見回す。小夜子と涼子、二人だけしかいないがらんとした教室。窓の桟や机の脚からは、雲間をようやく抜け出した日が作り出した薄い影が長く伸び、遠くに運動部の掛け声と吹奏楽部の演奏が聞こえる。

「本を読むには暗い気がする。電気点けたら?」

小夜子が言うと、涼子は吹き出したかと思うと、腹を抱えて笑い出した。

「水野さんってやっぱり面白いね。そういうところ──割りと好きだよ」

そう言った後、涼子は何かを思い出したように、あ、と声を上げた。

「そう言えば、映画。前に手紙にも書いたけど、面白そうなのがもうすぐ始まるんだよ。来週末は混んでそうだから、再来週にでも行こうかと思うんだけど、水野さん、一緒に行かない?」

──何故そこで誘うのが私なの?

涼子が学校で誰かと親しげに話している様子を目にしたことは無い。あまり誰かと出掛けないというようなことも以前言っていた。けれど、それは一人で出掛けていたということではないのか。これまでそうしていたのなら、これからもそうすれば良いのではないか。何故──私を誘う──。

小夜子はまったく腑に落ちなかった。意味がわからなかった。理解不能の涼子の言葉は小夜子を混乱させる。小夜子の中の規律が乱れる。規律の乱れは小夜子のもっとも厭う事柄だ。

それなのに涼子の問いに小夜子が頷いてしまっていたのは、なんとなく、雰囲気が、そうさせてしまったからなのかもしれなかった。


 
inserted by FC2 system