印象

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◇ ◇ ◇

水野小夜子様

手紙ありがとう。
こんな風に友達に手紙を書くのは初めてだから何を書いていいのかわからないけど、せっかくだから返事を書いてみようと思います。水野さんのことだから、書き方がなってないとか言って怒りそうだけど、その辺は見逃してください。

ハンカチ、受け取りました。貸したことも忘れていたぐらいだから、お礼だなんて気にしないでください。

そしてこの前は付き合ってくれてありがとう。誘い出しておいてこんなことを言うのもおかしいけど、あの映画は私も期待はずれでした。今度はもっと面白いのを観に行こう。来月公開される映画は面白そうだけど、どうかな。

水野さんと学校の外で会うのもなかなか新鮮で面白いから、また遊びに誘うと思うのでそのときはよろしく。

高橋涼子

◇ ◇ ◇

小夜子は教室に入ろうとして、出入り口手前で足を止めた。中では涼子が一人で机に向かっている。終業からだいぶ時間が経っているために他に生徒はいない。小夜子が中に入れば二人だけの空間となる。とは言え、鞄は教室の中にあるし、帰るにはそれを取りに戻らねばならないのだ。


教科書やノートの間に挟みこんで、誰にも気づかれないように持ち帰った手紙。帰るなり恐る恐る開いたその手紙に書かれていた内容に、小夜子は唖然とした。

本当に自分の書いた手紙への返事なのか疑いたくなった。しかし宛名は何度見直しても『水野小夜子様』とあるし、差出人は封筒にも手紙の終わりにも、確かに『高橋涼子』と書かれている。だから間違って受け取ったということではないのだ。しかし確か小夜子は、映画のことはよくわからないから、他の人を誘った方がいいのではというようなことを書いたはずなのに、涼子はまた小夜子を誘っている。

そもそもその映画を観に行ったときだって、映画館を出ていきなり文句をぶつけた上にさっさと帰ってしまったりして、楽しい雰囲気だったとはとても言えない。普通ならもう誘おうとは思わないだろう。それなのに、涼子はその日のことも『なかなか新鮮で面白い』と評している。

──意味がわからない。

不意にできてしまった縁を切るために出した手紙に対する返事で言うに事欠いて『友達』とは。

──もしかして、これから時々話しかけられたりするのだろうか。

いつも涼子に向けられている視線。涼子から話しかけられたときの自分にもそれが向けられる。ただ涼子とは違い、小夜子に周囲から向けられるのは、奇異と困惑と嫌悪だけに違いない。涼子に向けられていた憧れの視線も、毛色の違う小夜子が彼女に近付けばいともたやすく色を変えて、攻撃性をはらんだものとして小夜子に向けられる気がした。それを想像するだけで小夜子は暗澹たる気持ちになった。

しかしそれから一週間、その後も涼子はいつも通り人を寄せ付けないオーラを放ち、一人で飄々と過ごしていた。小夜子に話しかけてくることもない。その様子に、気を張っていた小夜子は拍子抜けしつつも、胸を撫で下ろしたのだった。あの手紙は社交辞令のようなものだったのかもしれない。涼子と社交辞令とは相容れない気もしたが、小夜子はそう結論付けていた。その矢先のことである。


──自意識過剰だ。何を気にすることがあるの?

自問してから小夜子は止まっていた足を踏み出し、中に入る。途端に机上に向けられていた視線が移動し、小夜子を捕らえる。

「あ、水野さん。どうしたの? こんな時間に」

話しかけられた。まるでいつも会話している級友のように。いつものオーラは──消えている。

動揺していることを悟られないよう、小夜子は曖昧な笑みを貼り付ける。

「今日、委員会があったから」

言いながら小夜子は涼子の前を通り過ぎ、自分の席に向かう。

「へえ。大変だね。ご苦労様。ねえ、委員会って何やるの?」

手にしたシャープペンをくるりと回し、涼子は小夜子に向き直った。机の横に掛けてあった鞄を手に取った小夜子はゆっくりと出入り口に向かいながら答える。

「えっと、今日は文化祭の説明みたいなの」
「ふうん。文化祭っていつだったっけ? まだだいぶ先じゃなかった?」
「9月。夏休みが間にあるから今のうちから色々と決めなきゃいけないみたい」
「なるほどねえ」

もういいだろうと小夜子が別れの挨拶を切り出そうとすると、一人の教師がそこにやかましく入ってきた。

「高橋、ちゃんとやってるか?」

口煩いことで生徒から厭われている地理の教科担任だった。

「やってますよ。もう終わります」

その教師に振り返った涼子が応対する。表情は小夜子からは見えないがうんざりという心境はその声からうかがえた。

「ちゃんと提出していかなかったら単位はやらんからな。まったく他の先生たちも甘やかしていかん」

ぶつぶつと捨て台詞を吐いて教師は出て行く。それと同時に深い溜息。

「まったく鬱陶しいったらない。面白くない授業ばっかりしてる自分を少しは省みてほしいよ」

独り言とも取れる愚痴を吐いた涼子が小夜子に向き直り、口元をゆがめる。

「今日あの人の授業サボったから居残りさせられてるの。ちゃんとその部分を理解してさえいればいいことじゃないね。本当、面倒くさい。」

同意を求められたところで、小夜子には頷けそうになかった。曖昧な笑みは苦笑に変わる。

「授業に出ないでちゃんとわかるものなの?」
「だってあの人の授業なんて教科書読み上げてるだけじゃない。その上どうでもいい話に脱線するし。だったら自分でゆっくり読んでいたほうがずっとまし。ま、でもこんな風に居残りさせられるんだったら耳栓でもして出るかな」

小夜子の問いに答えた涼子はまるで悪戯を思いついた子供のような顔をして笑った。──やはり係わりたくない。湧き上がる拒絶。けれど涼子のその態度もまたあの教師を激昂させそうな気がした。そうなれば授業中にお説教が始まることになり、小夜子や級友たちにも被害が及ぶ。冗談なのかもしれないが、涼子ならやりかねないと小夜子は釘を刺しておくことにした。

「それも怒られそうじゃない? あの先生、お説教長いし、ちゃんと受けたほうがいいよ」

言ってから小夜子は自分がちゃんと笑う形の顔をしていることに嫌になった。この人物とは係わり合いになりたくないと思っているくせに、そんな相手にもしっかりと愛想を振りまいている。心象を悪くさせないように気遣っている。そんなだからいつまでたっても縁が切れないのかもしれない。

「あー。そうか。──うん、それもそうだね。他の人にまで迷惑掛けるしね。うん。良くない、良くない。水野さん、ご忠告ありがとう」

少し考えて納得したようにそう言うと、涼子は完璧な笑顔を浮かべる。

──他の人のことも気にするんだ。

他人のことなど目に入らないといった風情の涼子の意外な一面を覗いた気がした。それで小夜子はうっかり涼子の完璧な笑顔を正面から見据えてしまった。
涼子の完璧な笑顔は小夜子を居心地悪くさせる。今は負い目など無いのに何故そう感じるのかは小夜子にもわからない。

「お礼なんて……。えっと、それじゃ、私もう行くね。頑張って」
「あ、うん。それじゃ、また。お疲れ様」

わからないから、だから、また逃げるようにして会話を打ち切った。それでも涼子は表情を変えずにねぎらいの言葉を投げかける。
それに背を向けて歩を進めた小夜子が出入り口で少し振り返ると、涼子はまだ完璧な笑顔を浮かべていて、ひらひらと手を振っていた。小夜子は軽く手を振り返してその場を後にした。

──また

涼子の言うそれがいつ訪れるのかと気にしながら、小夜子は湿気で滑りやすくなっている廊下を足早に進んだ。

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