印象

 4

日曜の映画館前。もうじき十時になろうかというところ。小夜子はその場に居ざるを得なくした自分の愚かさを呪っていた。

あれから結局、小夜子はチケットやハンカチを返すどころか、涼子に話しかけることすらできなかった。人目につかないタイミングを見計らって渡そうにも、どこもかしこも生徒だらけの学校ではなかなかそんなタイミングは訪れなかった。特に涼子は行動がつかめないから余計だ。明日こそは、明日こそはと思いながら、毎晩自室でハンカチとチケットを眺めては溜息をつくばかりで、そのまま週末を迎えてしまったのだった。

涼子は別に来ても来なくても構わないようなことを言ってはいた。けれど、なんの断りもなく人との約束を反故にすることは小夜子にはできないのだ。それが一方的に押し付けられたものだとしても。それ故に小夜子は今、ここにいる。ほんの数秒で終えることができたはずの涼子との縁を、ここまで引きずってしまったがために事態を悪化させている。

──係わり合いにならない、はずだったんだけどなぁ。

「あれ。水野さんだ」

大きな溜息をついている最中に聞こえてきたその声に振り向くと、涼子が歩み寄ってくるところだった。時刻は十時きっかり。Tシャツにジーンズといういでたちの涼子は制服のときの凛としたイメージとは違っていた。いつもは下ろしている長い髪を一つに纏めているのも大きく印象を変えている。が、姿勢の良さだけは変わりなかった。

「いるとは思わなかったな」
「えっと、ちゃんと返事してなかったから待たせたら悪いと思って」

小夜子の返答に涼子は笑う。

「別に気にしなくても良かったのに。でも水野さんらしいね。じゃ、入ろうか」

そう言って涼子は入り口に向かって歩き始めてしまったから、ハンカチとチケットを返すだけのつもりだったとは言えず、小夜子はその後を追った。

映画を観に来ることは初めてではなかったが、幼い頃に両親に連れてきてもらって以来で要領を得ない。慣れない小夜子をよそに涼子は窓口で手続きを済ませ、劇場内へと入っていく。ずんずんと進むその真っ直ぐな背中を、小夜子はただただ追うばかりだ。すぐに座席を見つけた涼子に促され、その席に着いたものの落ち着かない。薄暗い室内にも、湿っぽい座席にも居心地の良さなど微塵も感じられなかった。それは隣に座っているのが涼子だということも大きな原因だったかもしれない。

「これ、うちの父親がどっかからチケット貰ってきたんだけどさ、内容は全然知らないんだよね。面白ければいいけど」
「そうなんだ。えっと、高橋さんはよく映画観るの?」
「うん、まあ、ほどほどに。水野さんは?」
「私は、あんまり」
「ああ、そんな感じ」

──どんな感じだろう。

いつも周りを気にすることなく振舞っているような涼子が、自分に対してなにがしかの印象を持っていることを、小夜子は意外に思いながら聞き流した。その間にも何人か入っては来たものの、劇場内には空席が目立つ。二言三言涼子と会話を交わしながらぼんやりと目の前の銀幕を眺めていると、照明がまた一段落とされ、始まりを告げられた。

これで映画が面白ければまだ救われたのかもしれない。しかししょぼくれたミュージシャンのサクセスストーリーともそれを手伝うヒロインとの恋愛劇ともとれるその映画はどちらにしても盛り上がりに欠け、小夜子には面白いとは感じられなかった。

長い長い本編が終わり、エンドロールが流れ始めると隣の涼子が「行こう」と囁いた。そして小夜子の返答も待たずにすっと立ち上がる。それを見た小夜子も慌てて席を立ち、涼子の影を追って暗闇の中から抜け出した。

涼子は館内をずんずん進む。どこへ向かおうとしているのかは小夜子には少しもわからない。わからないままその背中を早足で追い続けた。けれど、小夜子を振り返ることもなく、自分の思うがままに進むその真っ直ぐな背中を追いかけているうちに、小夜子は次第に腹が立ってきた。まるで自分の存在を軽視されているように感じられた。

──誘ったのはそっちじゃない。

「高橋さん」

小夜子が呼び止めると涼子はようやく振り返った。その感情のこもらない切れ長の目が小夜子に向けられる。それを見た瞬間、苛立ちをぶつけてしまいたくなった。どうせこの先係わり合わない人物だ。

「一緒に来ている人がいるのに、一人でいるときのように振舞うのはどうかと思う。あなたは早く出たかったかもしれないけど、私はそうじゃないかもしれないじゃない」
「水野さん、まだ観ていたかったの?」

小夜子の苛立ちに気づいているのかいないのか、涼子は変わらぬ表情で尋ねる。それが小夜子の感情を逆撫でする。

「そういうことを言ってるんじゃないの。誰かと一緒に行動するなら、相手の意思も尊重して確認するべきだと言ってるの。それに一人で自分のペースで歩かれても困る。一人で楽しみたいのならそうすればいい。でも、あなたが私を誘ったのでしょう?」

返ってくるのは持論を反映した反論か、突き放したような別れの言葉だと思っていた。しかし──

「あ、そうか。ごめん。私、誰かと出掛けるの慣れてないから気が付かなかった。水野さん、言ってくれてありがとう」

礼を言って涼子はふわりと笑った。苛立っていた小夜子はすっかり肩を透かされて、調子が狂う。そして一人で息巻いていたことが恥ずかしくなった。居たたまれない。涼子の笑顔から視線を外す。

「お礼を言われても困るよ」
「ねえ、水野さん。これからどうする? ちょうどお昼だしどこかで食事でもする?」

今言われたことを早速実践することにしたのか、涼子は小夜子の意向を尋ねた。けれど元々涼子とはあまり接点を持ちたくない上に、今既に居たたまれない思いをしている小夜子には、とてもじゃないが一緒に食事をする気にはなれなかった。早くその場を離れたい。その思いだけが小夜子の頭を巡っていた。

「ごめんなさい。私、ちょっと帰ってすることがあるから」

家に帰ってすることなど、部屋の片付けと明日の予習ぐらいのものだ。それだって今すぐしなければならないものではない。けれど、一応はあるのだから、これは嘘ではない。そう自分に言い聞かせて小夜子は涼子に合わせて唇を笑う形に歪めてみた。

「そう、残念。それじゃ、また学校で」

小夜子の歪な笑みに涼子は洗練された笑みを返す。それは先程二人で見た映画のヒロインよりもずっと艶やかで、それでいてさわやかで、完璧な笑顔だった。

その完璧な笑顔は小夜子を更に居たたまれなくさせた。とても正面から受け止めきれず、涼子のほつれかけている膝を見る。

「ええ。うん。それじゃ。その、また学校で」

小夜子はしどろもどろに挨拶をして、逃げるようにしてその場を後にした。途中、一度だけ振り返ってみたが、涼子の姿は既になかった。
すっかり変な汗をかいた小夜子が、バッグの中に例の紙袋を見つけて頭を抱えたのは電車に乗ってからのことだった。

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