印象

 2

放課後の教室。雨音を聞きながら、小夜子は一人、雑用をこなしていた。クラスで集めたプリントの集計を担任の教師に頼まれたのだ。幸代や真紀子は手伝うと申し出てくれたが、夕刻から降ると予報されていた雨が今にも落ちてきそうな暗い空を見て断った。

トンとプリントを揃え、集計のメモ書きをその上に添える。窓の外を見てため息を一つ。

「結構降ってるなぁ」

役目を終えて荷物を手に下駄箱に向かう。人気のない玄関にはいくつも並べられた下駄箱。その向こうに見覚えのある人影。

──あの人だ。

地面をざばざばと雨が叩く外をぼんやりと見つめる彼女の手には、傘はない。それを横目で確認しながら、小夜子は上履きをしまい、外靴を取り出す。その物音で彼女が視線を動かした。小夜子は思わず視線を足元に移す。

できることなら彼女と係わり合いになりたくはない。けれど。
外はざばざばと音がするほどの雨。
おまけに夏服になったばかりの肌に鳥肌が立ちそうなほどの気温。
彼女の手には傘はない。

級友として、何も声をかけないのは見捨てるようなものではないのか。でも。

踏ん切りがつかずにもたもたと傘立てから自分の傘を引き抜いている小夜子の耳に、溜息が聞こえた。
見ると、進行方向をしっかりと見据え、高橋涼子は雨の降りそぼる中に足を踏み出そうとしていた。

「高橋さん!」

散々躊躇っていたにもかかわらず、気が付けば呼び止めていた。呼ばれた涼子は足を止め、振り返る。

「あ、あの。傘、ないんだったら、一緒に入っていかない?」
「え」

初めて自分に向けられたその視線を、小夜子はまともに受け止められない。自分の傘、鞄しか持っていない涼子の手、叩きつけるような雨。あちこちに視線を動かし、しどろもどろになりながら、応対する。

「その、高橋さん、傘持ってないみたいだし。その、方向が違うかもしれないけど、途中まででも傘がないよりはまし、なんじゃないかな、と思って。その……」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」

並んでみると、涼子は小夜子と同じくらいの背だった。小夜子はなんとなく背が高いイメージを涼子に抱いていたから、少し驚いた。

──姿勢のせいだろうか。

背筋を意識して伸ばしてみる。

「水野さんの家はどの辺りなの?」
「え? えっと、A駅の方なんだけど」

背筋を伸ばしたまま小夜子が答えると涼子はふわりと笑った。

「じゃあ、電車通学なんだね。私、O駅の近くだから交番のところの交差点までお願いします」

涼子の言うO駅は小夜子が利用している駅だった。交番のある交差点はその少し手前にある。自分が役に立てて嬉しいと思う反面、一緒に歩く時間が長いことに戸惑う。

「うん。わかった」

雨はざばざばと音を立て、止む気配はない。それもそのはず、天気予報では明日一杯まで降り続くということだった。一人用に作られた傘は二人で入るには小さく、小夜子は肩の端を雨の中にさらしていた。

「しかし、よく降るねえ。さすがにこの寒さで濡れて帰る気にはならなかったから、助かったよ。それにしてもみんな、どうして傘持ってきてたんだろ?」
「え? だって天気予報で午後からは雨だって言ってたじゃない。高橋さんの方こそ、どうして持ってこなかったの?」
「え? だって、朝はあんなに晴れてたじゃない」

涼子の言うとおり、朝は日が差していた。けれど、もうじき入梅しようかというこの時期、朝の天気で判断するのはあまりにも無謀だ。やはり、理解不能だ。小夜子は苦笑するしかなかった。

「天気予報で確認した方がいいと思うよ」
「うん。そうだね。ちょっと反省した」

照れたようにへへへと笑うと、いつもまとっているオーラが薄れる。けれどそれも一瞬のこと。そこからは互いに話しかけることもなく、黙ったまま、ざばざばと降りそぼる雨の中を並んで歩いた。小夜子の肩には濡れたブラウスがぴたりと張り付いていた。
そして交番のある交差点に差し掛かったところで、涼子は足を止め、小夜子に向き直る。

「それじゃあ、ここで。傘に入れてくれてありがとう」
「あ、ここからどうするの?」
「走っていけばすぐだから」

雨はざばざばと降りそぼる。ほんの数秒でびしょ濡れになることは想像に難くない。

「でも……」

何か他の方法を提案しようとした小夜子に、涼子はポケットから出したハンカチを差し出す。

「肩、濡れちゃったから」

そしてハンカチを小夜子の手に無理矢理握らせる。小夜子があっけに取られているうちに、涼子は「それじゃ」と言って走り去ってしまった。残された小夜子は大粒の雨の中走っていく涼子を見送って、こんなときでも姿勢が良いことに感心していた。
そして手に持ったハンカチを見る。

「肩、濡れちゃったって。自分は肩どころじゃなく濡れてるのに」

やはり理解不能だ。小夜子はまた苦笑して、濡れた肩をハンカチで拭ったのだった。

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