お願い手を取って 抱きしめて

 久美ちゃんは私の幼馴染でした。いつからの付き合いだとかそんなことも覚えていないけど、お母さんたちの話では同じ保育園に通っていたということなので、赤ちゃんのころから一緒だったんだと思います。
 赤ちゃんの頃から一緒だった久美ちゃんはずっと近所に住んでいたけど、校区の兼ね合いで中学だけは離れ離れになってしまいました。なので高校で一緒になった時はそれはもう、とても喜び合ったものでした。
 高校で一緒になった久美ちゃんはバスケがとても上手になっていました。期待の新入生として入学式よりも前から練習に参加して、正式に入部したらすぐにレギュラーになったのだそうです。
 それはとても当然のことです。だって久美ちゃんは小さなころからボールを使った遊びがとても上手で、ドッジボールなんか男子を一人でバンバン当てていってしまうような子だったのです。誰よりも強いボールを投げて、誰よりも強いボールを受け止める久美ちゃんがとても誇らしかったことを覚えています。そうしてひとりで勝ちにしてしまう久美ちゃんは、けれど最後に残った私にだけはふわっとしたボールを投げてよこしました。でも私はボールをキャッチしたり投げたりするのは苦手だったので、久美ちゃんが投げたボールを受け取ったことはありませんでした。ただ逃げて、その後すぐに外野の子の強いボールに当てられるのがいつものことでした。
 バスケ部の一年生エースとなった久美ちゃんは背が高くて、ショートカットが似合っていて、それからとても優しいので、たちまち人気者になりました。みんなから羨望のまなざしを送られる久美ちゃんを見ていると私はとても誇らしくなりました。

「かなちゃんはかわいいね」

 だからある日久しぶりに家に遊びに来た久美ちゃんに見つめられてそう言われたとき、私はとても嬉しくなってしまいました。嬉しくなってうつむくと、久美ちゃんはそっと頬に手を添えて、キスをしました。それから幼馴染だった久美ちゃんは、私の恋人になりました。
 バスケ部の練習はどの部活よりも厳しいらしく、遅くまでやっていましたが、私は久美ちゃんの恋人なので近くのファミレスで勉強をしたりして待っていました。窓際で待っていると、大きなバッグをぶら下げた久美ちゃんはこんこんと窓を叩いて私を呼ぶのです。そうして呼ばれて顔を上げて窓越しに手を振るとと久美ちゃんはとても嬉しそうな顔をしました。嬉しそうな久美ちゃんは店を出た私といつも手をつなぎたがりました。同じ学校の人たちは少し驚いた顔をして、それから羨ましそうにこちらを見て来るので、私はとても誇らしくなりました。
 たまに練習のない時には、お互いの家に泊まりに行ったりもしました。小学生の頃は頻繁にそうしていたけれど、久美ちゃんちのおばちゃんは「久しぶりねえ」と嬉しそうに世話を焼いてくれたけれど、私たちは小学生の頃にはしなかったことをたくさんしました。たくさんキスをして、たまにお互いのからだを触り合ったりしました。そうするのは久美ちゃんの試合があった後が多かったように思います。

「かなちゃん、見に来てくれてたね。どうだった?」
「うん、久美ちゃん、かっこよかったよ」

 確認をするみたいな久美ちゃんにそう言ってあげると、久美ちゃんはとてもうれしそうにして、実際に「嬉しい」と言ってはにかんで、それからたくさんキスをしてくるのです。私はバスケのことはよくわからないのでいつも「かっこよかったよ」としか言ってあげられなかったけれど、久美ちゃんはそれでもいつもそうでした。
 久美ちゃんはどちらかというと私に触ってもらいたいようでした。私が性急にすればするほど嬉しいみたいでした。おっぱいを吸って、脚の間をさわってあげるととてもとても悦んで、何度もかなちゃんかなちゃんと囁くように私を呼びました。でも隣の部屋には弟のしょう君がいるので、最後の方になるといつも両手で口を押えて苦しそうにします。なので私は手を退けて、代わりに私の口で塞いであげるのです。そうして果ててしまうと久美ちゃんは最後に私の脚の間を少しだけ触りました。久美ちゃんのそこと同じようにとろけたそこを触ると、久美ちゃんはほっとしたようにまた「嬉しい」というのです。
 二年生になると久美ちゃんはバスケ部の本当のエースになりました。かっこいい久美ちゃんはますますかっこよくなっていきます。夏ごろになると次期キャプテンとなることが決まっていました。その頃です。

「かなちゃん、バスケ部に入らない?」

 久美ちゃんは変な提案を持ちかけました。もちろん私は首を横に振りました。だって私はチビだしボールとは縁がないような人間なのですから。でも久美ちゃんはじっと私を見て、お願いするのです。

「プレイヤーとは言わないよ。でもマネージャーだったらどう? 私、かなちゃんにもっと私のこと見てて欲しいんだ」

 そう言われてしまうと、断るなんてできません。うん、わかった。ふたつ返事をして、その後また「嬉しい」と言ってたくさんキスをしてきた久美ちゃんをたくさん触ってあげました。久美ちゃんはやはり最後に私の脚の間を触りました。

 久美は中学の頃からの友達でした。二年間同じクラスにもなった彼女は同じ吹奏楽部でトランペットを吹いていて、三年生のときには満場一致でソロを任されるくらい上手でした。私はあまり上手ではないクラリネットでしたが、久美はいつも私の個人練習に付き合ってくれたり、上手くいかずにしょぼくれているときには買い食いに付き合ってくれたりもしました。なので高校でまた同じクラス、同じ吹奏楽部に入ると、ふたりでまた頑張ろうねと喜び合いました。
 けれど入学からしばらくすると久美は何を思ったのか、部活をやめたいと打ち明けてきました。他にしたいことがあったのかもしれません。上級生の演奏を聴いて自信が無くなってしまったのかもしれません。けれど私は久美の自信に満ちたトランペットの音が大好きだったので、何より久美と一緒に練習するのが好きだったので、必死になって引き留めました。

「久美がいなかったら、私頑張れないよ。やめないでよ」

 そう言って手を握ったりもしました。久美の手を握ったのは、その時が初めてだったかもしれません。よく手入れの行き届いた、柔らかでけれど筋張った手の感触は今も鮮明に残っています。すこし冷たく感じたのは私の手の方が熱かったということなのでしょう。
 結果、久美は退部を思い止まり、自信を失っていたのが嘘のように、着々とトランペットの腕を上げていきました。私が一緒に帰れなくなっても気にせずに、ひとりで頑張って個人練習をしていました。二年生になり、パートリーダーである三年生を脅かす程になった久美はかっこよく、彼女を引き留められたことも誇らしく思えます。
 そんなことがあったので、私は先生に退部届を出すより先に久美に告げました。

「なんで?!」

 私が全部を言い切るより早く、久美は声を荒げました。丸く見開かれた目には、驚きとそれから徐々に怒りが灯っていくのがわかりました。

「なんで? かなこ、これまでずっと頑張って来たじゃん。この前のコンクールはそりゃ残念だったけど、次こそは金賞だって、頑張ろうって言ってたじゃん。なんで急にそんなこと言うのさ?!」

 久美は私を必死に引き留めてくれて、とても嬉しかった。肩を強く掴んで真っ直ぐに私を見てくれるのが嬉しかった。でも、久美は手を握ってくれることも、かなこがいないと私頑張れないよとも言ってはくれなかったので、私は「ごめんね」と苦笑いを返すだけでした。

 バスケ部の顧問の先生に入部届を持って行くときは久美ちゃんが付き添ってくれました。私は顧問の先生の顔はよく覚えていなかったので、職員室に入って久美ちゃんが「ほら、あそこ」と教えてくれなかったらきっと渡せなかっただろうと思います。
 顧問の先生は私が差し出した書類を見ると驚いたように久美ちゃんの方を見て、それからもう一度目の前の届を見てがしがしと頭を掻いて唸っていました。でも久美ちゃんが「マネージャーは何人いてもいいじゃないですか」と口を挟むと、「ううん、それはまあ……」と苦々しく言ってようやく受け取ってくれました。
 マネージャーの仕事は一年生の子が教えてくれました。毎日ボールをみがいたり、ドリンクの準備をしたりしながら練習の様子を見ていると少しずつバスケのルールや戦術なども覚えていきました。そうしてバスケのことがわかってくると、やっぱり久美ちゃんは凄いのだとわかります。誰よりも速く、誰よりも正確に動き、確実に点に結び付けていく久美ちゃんはとてもかっこよく、私はとても誇らしくなります。だから同じ二年生のマネージャーの子が口をきいてくれなくても、まったく気になんかなりません。クラスの中でもひそひそと何かを言われているのだって気になりません。だって誇らしい久美ちゃんは練習の合間に私が見ていることに気付くと、とてもとても嬉しそうな顔をするのです。

 そうしてバスケ部のマネージャーとなった私が仕事も覚えてきたある日のこと。一番最後に部室の鍵をかけて出ることを任された私が久美ちゃんと帰ろうとしていると、思いもかけない人が部室のドアを開けました。
 ううん、思いもかけないなんて言うのは嘘。私はいずれその人がここに来てくれることを心のどこかで期待していました。
 そこにいたのは久美でした。
 もうすっかり暗くなった廊下を背に、久美はとても怖い顔をしていました。私が吹奏楽部をやめると言ったときよりもずっとずっと怒っているようでした。部室に灯った蛍光灯の青白い光がその怖い顔を照らします。

「何か用?」

 大きなバッグを肩に掛けながら久美ちゃんが笑います。久美はそれをひと睨み。

「あんたがそそのかしたんでしょ? どういうつもり?」

 いつにない低い声が久美ちゃんを咎めます。でも久美ちゃんは全然ひるんだりしませんでした。

「急に来てそそのかしただなんて人聞きの悪いことを言うなあ」

 だから久美は今度は私を咎めるのでした。「かなこ!」そう呼ばれた私がこんなに胸を躍らせるのも知らずに。

「これが本当にかなこがしたかったことなの? あんたあんなにクラが好きだったじゃん。それをやめてまでしたかったことがこれなの?」

 久美の視線が痛いほどに私を刺します。違う。違うよ、久美。私がクラリネットを頑張って練習したのはね、そういうことじゃなかったの。私が好きだったのはクラリネットなんかじゃなかったの。だからこうしているんだよ。バスケのことなんか今でも興味ないのは本当。でもクラリネットをやめてまでしたかったことがこれっていうのも本当。でもそんな本当のこと、何ひとつ言えるわけがありません。

「それは、その……」

 ちょっと困って眉をひそめ、私は久美と久美ちゃんを交互に見ます。そうすると久美はどんどん苛ついて、久美ちゃんはどんどん愉快そうに笑っていくんです。

「ええっと、小笠原さん……だったっけ?」

 愉快そうな久美ちゃんは久美の苗字を確認します。でも私はそれが単なるポーズだと知っていました。だって私は久美ちゃんに何度も久美の話をしていました。中学の頃にたまに会った時も、高校に入ってからも。噂の『久美』が同じ学校にいるとわかってからは「久美って小笠原って子?」とも確認までされて。
 こくんと私が頷くと、それを横目に見た久美ちゃんはあからさまに鼻を鳴らします。

「あのさ、小笠原さん、はっきり言ってあなたにとやかく言われる筋合いはないよね?」
「はあっ?!」

 静かな部室に甲高い声が響きます。久美はこんなにも怒っているのに、私は簡単に煽られてしまう久美をかわいいと思ってしまいました。腹を立て、それでも少し困っているに違いない久美がかわいいと思ってしまいました。
 だって煽るような言い方をしたとはいえ、まったく久美ちゃんの言う通りなのです。私は既に久美に引き留めてもらいたい気持ちを無碍にされてしまっていたのですから、あのとき私を引き留めきれなかった久美にとやかく言われる筋合いはもうまるでないのです。それなのに今更また引き戻そうとするのはいったいどういうわけなのでしょう。私もその答えが聞きたいと思いました。

「あんたはいいんでしょうよ。誰もあんたのことは悪く言わない。でも勘違いの色ボケだとか、脳内お花畑とか、言われてるのはかなこなんだよ? なんとも思わないの?! あんたたち幼馴染でしょう? ずっと小さなころからかなこのこと知ってるんでしょう? だったらかなこが本当にしたいことが何なのか考えてあげなさいよ! そんなの短い付き合いの私にだってできるよ!」

 私はたくさん期待をして、なのに久美はそれを簡単に裏切りました。久美の連ねた正論は私を少し嬉しくさせ、でもそれよりずっと、心の底からがっかりさせました。そんな私に久美ちゃんはきっと気付いたのでしょう。なにせ私たちは赤ちゃんのころから一緒で、小さな小さなころから久美ちゃんは私を見てきているのですから。だから久美ちゃんはわざわざ確認をするのです。

「それはそれは……、お友達想いなんだねえ」
「そうよ! 友達を想って何が悪いの!」

 何が悪いってそんなのは、ここまできて、こんな怒鳴り込むようなことまでして、それでも私を『友達』と言い切ってしまう久美でした。『友達』と言い切られてこんなに傷ついてしまう私でした。そして何も悪くない久美ちゃんは「ふうん」と私と久美を交互に見て、言うのです。

「でも本当に、私はなにもこの子の望まないことをさせてなんていないんだよね。……ね?」

 久美ちゃんが私に向かってにっこり笑って首を傾げます。確かに久美ちゃんの言っていることは何も間違っていませんでした。確かに私は自分の望まないことを久美ちゃんにさせられた覚えはひとつとしてありませんでした。全部ぜんぶ私が望んだことでした。
 だから「うん」と頷いてみせました。久美は眉をいからせて、もうこれ以上ないってくらい怖い顔になりましたが、声を荒げることもなく、ただ手にした鞄をつよく握っただけでした。

「本人がこう言ってるのに、まだ何か文句がありそうだね」

 久美ちゃんは肩に掛かったバッグの紐を少し直して溜息を吐きます。はあ。とてもとても大きな、ここにいる全員に言い聞かせるような溜息でした。それからその溜息にとても似つかわしい声で「仕方ないなあ」と言いました。けれどその口の端は少し持ち上がっていて、全然仕方ないようには見えません。

「ねえ、かなこ」

 久美ちゃんに呼ばれて私は驚いてしまいました。だって久美ちゃんが私を呼ぶときは昔からずっと『かなちゃん』で、こんな風に呼び捨てにすることなんてなかったんです。そして思わず顔を上げた私をじっと見つめた久美ちゃんは落ち着いた声で、はっきりと言うのです。

「キスして。今、ここで」
「は?! 何を急に……!?」

 私も驚きましたが、久美はそれ以上にこの唐突なお願いに驚いた様子でした。でもそれは全然唐突なんかじゃないのです。久美ちゃんはずっとこの平行線の論議がこういうことだとわかっていたのです。私は試されていました。そして試そうとしていました。
 久美の方を見ると、久美も私を見ていました。怒ったような、困ったような顔をして、私を見ていました。私が一歩久美ちゃんに近づくと、鞄を握る手の関節が白く浮くぐらいに強く握られるのがわかりました。心臓が握られたみたいに痛くなって、だけどそれ以上に期待に踊るのがわかりました。
 久美ちゃんはじっと私を待っています。ベッドの上で私を呼ぶ時みたいに、私の脚の間を触る時みたいに、大きな体をして小さなころにドッジボールでふわっとしたボールを投げたときと変わらない不安そうな顔をして待っています。ごめんね久美ちゃん。私は下手でもボールを受け取ってあげればよかった。
 背の高い久美ちゃんはチビの私が頬に手を添えると、腰を屈めてくれました。私は爪先立って久美ちゃんの顔を、ボールが外野に転がっていったときみたいな顔を、両手でしっかり包んでから目を瞑り、唇を重ねました。久美ちゃんの唇は震えているような気がしましたが、それは私の気のせいだったかもしれません。
 なぜなら私たちは唇を重ねた瞬間に、「やめてよ!」という叫び声と共に強く突き飛ばされてしまったのです。
 よろけたのは私だけでした。普段から練習で足腰を鍛えられている久美ちゃんは突然の衝撃にも耐えて、私を受け止めてくれました。でも顔を上げた私が見たのは久美の方でした。久美ちゃんにしっかり抱き止められながら、見ていたのは久美でした。仕方がないのです。期待していた言葉がもらえたからでは決してなく、これは仕方のないことだったのです。だって突然誰かに突き飛ばされたら、突き飛ばした人の方を見てしまうものでしょう?

「ばっかじゃないの……」

 少し息を荒げた久美はうつむいて、吐き捨てるみたいに言います。鞄を握る手も私を突き飛ばした手も関節が白く浮いていて、手首の筋もくっきりと浮いていて、ぎりぎりと音が聞こえて来るようでした。私はその手をもう握ることはないのだと予感して、たった一度きり握ったときの、私に恋を気付かせた感触を思い起こしていました。そして私の予感通り、久美は私たちをひと睨みして踵を返しました。

「さいてー」

 小さな小さな呟きを残して久美は足音高く駆けて行ってしまいました。
 私は咄嗟に一歩踏み出してしまったけれど、それ以上追いかけることはできませんでした。久美ちゃんの手は私を少しも拘束していなかったけれど、できませんでした。何かを掴もうとして宙ぶらりんになった久美ちゃんの手は蛍光灯の青白い光を受けて寒そうに見えました。なのに私は久美の目に涙が滲んでいたことに嬉しくなっているんです。最後の最後まで私がしたかったことを理解できたのか否かすら示してくれはしなかった久美が、傷ついて傷ついて、本当に酷く顔をしかめていたことが嬉しくて仕方ないのです。
 そのくせ久美ちゃんの宙ぶらりんの手を取って、身体を寄せて、「つらいことさせてごめん」なんて殊勝なことを言うのです。「かなちゃんかなちゃん」と涙声で私を呼ぶ久美ちゃんの背中をさすってあげたりするのです。

 ――さいてー

 久美の残した呟きは、私を的確に咎めていました。まったくその通りです。その通りです。けれど私にはその声がいつになったら止むのかすら、わかりようもないのです。
 終

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