正しい時間のつぶし方

 掲示板を見たら、とっている講義が休講だった。それで午後までぽっかりと時間が空いてしまった。帰るかそこらで時間をつぶすか。どうしたもんかな。

 なんにも決まらないまま、とりあえず講義棟を出ると、見知った顔と行き会った。

 ──ちわっす、とかなんとか言いながら、そいつは近づいてくるものだから、私も適当に──ちわとだけ言った。

「授業終わったとこなんです?」
「いや。出るはずの講義が休講だった」

 いつの間にやら手に持っていた鍵の束をかちゃかちゃさせて、あららと呟いた後輩は、にやりと笑った。よく見る、こいつお得意の表情だ。

「そういうの、誰か前もって教えてくれそうなもんですけど。あれだ。先輩、友達いないんですね」
「うるせ」

 予想通りの失礼な発言に苦笑して、太腿のあたりを蹴とばした。蹴とばされた方は──いて、とだけ言ってにやにやしている。

「そういうあんたは何してんの?」
「私は授業終わったとこです。次ないんで、午後の授業まで暇なんです」
「そういう時は友達と時間つぶすもんじゃないの? そっちこそ友達いないんじゃん」
「みんな徹夜明けで、家で寝るって帰っちゃったんですもん」

 ──ふうん、とだけ言って歩きはじめると、鍵をかちゃかちゃ言わせて後をついてくる。

 どうしたもんかな。家に帰ったら、また来るのが面倒になってさぼりそうだ。それなら、どこかで時間をつぶそうか。

「先輩、暇ならどっか行きません?」

 誘おうかと思ったら誘われた。

「あー、どこ行く?」
「そうですねえ。先輩、考えてくださいよ。私、車出すんで」
「えー? 思いつかん」

 どうしたもんかな、と考えながら歩く。くるくるかちゃかちゃ、細長い指を軸にして、鍵の束がまわるのを見て歩く。

「あ、お昼はどうします?」
「どうせたかる気まんまんなんでしょ、あんたは」
「いや、決してそんなことは、ありますよ」

 ちょっとだけ先を歩いていた、私より低い位置にある顔がこちらを向いて、あははと笑った。この子はどんな図々しいことも、だいたいこの笑顔で誤魔化してしまうのだからすごい。誤魔化されているのは主に私ぐらいだけれど。

「まあ、いいや。天気もいいことだし、どっかで弁当買って、外で食べるのもいいかも知らんね」
「あ、いいっすね。ピクニックピクニック」
「ピクニックって歩かなきゃならんのじゃないの?」
「それハイキングじゃないすか? まあ、細かいことは気にしないで、行きましょう」

 そんなことは私だってどうだってよかったから、てくてくかちゃかちゃ歩いて、車に向かった。いつもの青い車はちょっと汚れていて、そろそろ洗車した方が良い気がした。

「んで、どこ行きましょう」

 キーをひねって尋ねてくる。そんなこと、私だって知らない。

「弁当がおいしく食べられそうなところ」
「どこ?」
「二度も言わせるんじゃありません。はい、しゅっぱーつ」

 ──なんだよそれ、と笑う声を乗せて、車は動き出す。エンジンの回転数はリズムよく上げ下げを繰り返し、合間にシフトノブを握る手が動いた。そのたびに体にかかるGが変化して、その加減が心地良い。それを少しだけ楽しんでから、目の前のグローブボックスを開き、そこに入っているCDを物色する。

「え、変えるんですか?」
「うん」

 運転手の声に不満が滲んでいるが、構わず物色を続ける。以前は知らないアーティストのものばかりだったその中身は、いつの間にか私の好きなアーティストのものが増えてきている。目的のCDも常備されていることは確認済みだ。取り出したのは古いアルバム。それを今まで入っていたものと入れ替える。グローブボックスをバタンと閉めると同時に、曲が流れだした。

「また古いものを」

 ウインカーを出した運転手は、曲の出だしで苦笑する。

「天気のいい日のドライブにはこれって相場が決まってるんだよ。知らんの?」
「知りませんよ」

 そう言って、あははと笑って、曲を口ずさむ。

 空は抜けるように青く、薄い雲がところどころに浮かぶ。道沿いの木々も、草花も、家々も、穏やかな陽光を跳ね返している。その中を少し汚れた車は心地良く加減速を繰り返し、細く開けた窓からは程よい温度の風が、車内の温度を調整してくれる。やはりこんな日のドライブには、このアルバムがうってつけだ。

 目的地は告げられないまま車は走り続け、コンビニ経由で辿り着いたのは近くの海岸だった。海が近いせいか、風が強く少し肌寒い。

「なんで海? ちょっと寒いんですけど」
「だって先輩が海の曲聞かすから」

 車に鍵をかける後輩はそう言うと、へへへと笑った。なんてひねりのない、いや、素直な子なんだろう。思わず顔がほころんでしまう。

「そのまま真っ直ぐ育つんだよ」

 目を細めて頭を撫でると、手で振り払われた。

「ちびっこ扱いせんで下さい! 同情するなら身長をくれ!!」

 どこかで聞いたことのある台詞を吐きながら、ちびっこが睨め上げる。だから今度は視線の高さを合わせて、頭を撫でてやる。

「ごめんねえ、お姉さんこればっかりはあげられないんだぁ」
「あれ? お姉さん、お姉さんなのにお胸がちびっこだよ?」

 苦々しげに頭を撫でられていたちびっこが、私の胸を指さす。にっこり笑って頭から手を離した。

「あんた、飯抜きね」
「ただいまの発言に、不適当な表現が含まれておりました。深くお詫びしますとともに訂正させていただきます」

 瞬時に詫びて、深々と頭を下げる後輩のその後ろ頭を、──しゃあない、許してやろう、とぺしっとはたいた。そうするとはたかれた方は、はたかれた箇所をさすりながら、にやにや笑って頭を上げる。そして海に視線を移して、──しかし、と声を上げた。

「海に来たのはいいけど、なーんにもすることないですねえ」

 そりゃそうだ。暖かくなってきたとはいえ海水浴ができるでもなし、こんな季節に海に来るのは私たちぐらいだ。

「波打ち際で、波と追いかけっこでもしてきなさいよ。私が離れたところで陰から見守っててあげるから」

 ──やですよ、なんて言いながら、後輩は堤防をよじ登る。コンビニ弁当の入ったビニール袋をぶらぶらさせて、堤防の上を歩く後輩は酷く上機嫌だった。何がそんなに楽しいんだかわからなかったけど、その様子を少し後ろから見上げつつ、私は後輩の後に続いて堤防のわきを歩いた。すると不意に後輩が振り向いて、にやりと笑った。

「ふふふ。こうして先輩を見下ろすのも新鮮でいいですねえ」

 いつもは私より低いところから見上げてくる顔が、今は上にある。そんなこと別にどうだってよかったけど、あんまりしたり顔で言うものだから、何か言ってやりたくなった。

「なんとかと煙は高いところに上る」

 したり顔は一瞬でしかめ面になり、海の方を向いたと思ったら、大声で叫び始めた。

「先輩の馬鹿ヤローーー!!」

 堤防の上で海に向かって、叫びほたえる若者。

 ──あの人とは何の縁もゆかりもないただの他人です。たまたま偶然、何かの間違いで行き会わせただけです。

 踵を返して早足でその場を立ち去る。それなのに縁もゆかりもない人は、立ち去る私を追いかけてくる。

「あ! ちょっと!! 先輩どこ行くんですか!! 待ってくださいよ!!」

 足音が後ろから近づいてきて、早足は自然と駆け足になり、全力疾走になる。それでも後ろからは、待ってだとか、置いてかないでだとか、捨てないでだとか言う声が追いかけてくる。それをなんとか振り切ろうと可能な限り走った。けれど不摂生の塊である私が、そんなに全力疾走を続けられるわけもなく、すぐにへたり込み、ぜいぜいと息を整える羽目になった。いつの間にか堤防から降りていた追手も同様に膝に手を当て、ぜいぜいと息を整えている。

「先輩、海岸で追いかけっこするときは、もっとこう「あはは、うふふ」って笑いながら、「捕まえて御覧なさーい」「まてまてー」とか言いながらやるもんですよ。こんな全力疾走じゃなく」
「黙れ、恥さらし」

 呼吸で言葉を途切れさせ、馬鹿な言い合いをする。そういう自分もこんなところで全力疾走なんて相当なものだ。

「走ったらお腹すいた。そろそろ弁当食べようか」

 ようやく息が整って、そう提案した。時間を確認すると、そろそろお昼時だった。

「そうですね。走っちゃったから、弁当の中身がやばい気がしないでもないですけど」

 言ってビニール袋の中を覗き込む。

「うわぁ。あんたにはがっかりだ」
「お腹に入れば同じことだから大丈夫ですよ」

 そう言って取り出した弁当は、案の定ハンバーグのソースやらひじきやらが、枠にはまらない自由な動きを見せてくれていた。それでも彼らには何の罪もないし、私の腹は空腹で音を上げているし、財布はいつも通り軽かったから、デミグラスソースにまみれた鮭やら、ひじきのまぶさったエビフライやらを、二人で堤防に腰かけて食べることにした。

「こんなことならサンドイッチとかおにぎりにするんだった」

 ため息交じりで、弁当をかき混ぜてくれた張本人が言う。

「自業自得なんだから黙って食べなさい」
「でもよく考えたら、先輩にも原因がある気がするんですけど」
「うん、まあ、なんだ。天気は良いし、海は穏やかだし、弁当がちょっと混ざり合ったぐらいなんてことないさ」

 ──まあ、いいですけどね、とひじきまぶしご飯を頬張る後輩の横顔は笑っていて、天気は良いし、海は穏やかだし、弁当が混ざり合ったことぐらい、なんてことなくなった。デミグラスソース味の鮭、いいじゃない。

 私も、文句を言っていた後輩も、結局残さず弁当を食べ終え、海を眺めてお茶を飲んでいると、──先輩、と隣から呼ばれた。お茶を飲み下しながら、ん、とだけ声を出してそれに答える。

「午後の授業さぼっちゃいましょうか」

 隣を見ると、ふにゃりと笑って海を見ている横顔がそこにあった。

「新学期始まって早々、やる気満々だねぇ。そうして単位は海の藻屑と消え去るのだね」
「そうなったら一緒に、藻屑になった単位の弔いに来てくれますか?」

 ふにゃふにゃ笑う、その顔がこちらを向く。この笑顔に私はすぐ誤魔化されてしまう。

「馬鹿。私を道連れにするんじゃないよ」

 だから誤魔化されないように、髪をくしゃくしゃにかき混ぜて笑顔を隠してやった。そうしてから立ち上がり、──行くよ、と声をかけた。気の抜けた返事を背中に聞いて車に向かう。涼しいというにはまだ少し冷たすぎる風が髪を乱した。

 身をすくめて、乱れた髪を抑える。次に来るときはもっと暖かくなってからだと心に決めて、車に乗り込んだ。動き出した車はまたリズムよく回転数を上げ下げし、こんな日にうってつけの曲が流れる。

 おそらくは次に来るときもこの車なんだろう。きっと私はまたこのCDを入れて、今、隣で熱唱している運転手と相も変わらずくだらないやり取りをして。

 抜けるような青空にところどころ浮かぶ雲。辺りの木々や草花、家々は穏やかに陽光を跳ね返し、ほんの少し肌寒かったけれど海は穏やかで。それに良い運転手にいまいちの弁当。ただの時間つぶしの割には、なかなか良い時間を過ごせた。いつもこいつとばかり時間をつぶしているのは、つまり、そういうわけなんだ。そういうことにしておいた。


 終

inserted by FC2 system