海へ行くつもりじゃなかった

 休日の朝、ひどい頭痛と吐き気で目が覚めた。
 昨夜は久しぶりに会った学生時代の友人達と盛り上がったのだが、さすがに飲みすぎてしまったと少し後悔した。
 布団にくるまりもう一度眠りにつこうとしたが、酒臭い自分の息のせいでまた吐き気をもよおしてきた。飛び起きて慌ててトイレに走る。
 昨夜も散々嘔吐したから、もうどんなに吐いても出てくるのは胃液だけでそのせいで喉が痛い。
 その痛みがまた、自分の情けなさや惨めさを思い知らせてくる。

 仕事上のトラブルや人間関係、家族との確執。腹の中に溜め込んでいるものはたくさんある。昔の友人達と会い、それらを一時的にでも忘れようとはしゃいだものの、かえってかつて若い頃の自分が抱いていた希望と現実とのギャップを噛み締めることになり、ついついアルコールに走ってしまった。
 吐き出して吐き出して、胃の中が空っぽになっても、腹の中の黒くてどろどろしたものは出て行かないどころか、余計に溜まっていくのを感じた。

 これ以上篭ったところで出るものはなし、ネガティブになるだけだと観念しトイレから出ると恭子が水を手に立っていた。

「大丈夫?」

 手渡された水を一口。食道から胃へと落ちていくのを感じ、その透き通った水が腹の中で濁っていく様子が思い浮かぶ。

「昨日は飲みすぎたね。もう何にも出ないや」

 互いに苦笑を交し合い、もう一度布団にもぐりこむべく寝室に向かおうとすると恭子に呼び止められた。

「ねえ、海に行かない?」
「私、二日酔いなんですけど」
「私、暇なんですけど」

 有無を言わさぬ様子の恭子にため息をつく。こういうときは何を言っても無駄だということは長い付き合いの中で学んできている。
 それにしても、何故この季節に海なんて行こうと思うのか。確かに外は二日酔いの目には痛いほどの日差しだが、海に行くには相当着込まなければならないだろう。それを思うとまたため息が漏れた。

「とりあえず、シャワー浴びてくるわ」

 髪や体に染み付いた煙草やら酒やらの臭いを洗い流すと体調も幾分ましになった気がした。
 髪を拭きながら浴室を出ると、恭子はもうすっかり出掛ける支度を整えている。

「何か食べる?」

 コーヒーをすすりながら尋ねられるも、今はまだ何も口にしたくない。

「いや、まだいいや。できれば寝てたい」
「まあ、車の中で寝てればいいよ」

 やはり、行くことは決定ですか。「はいはい」と相槌を打ちアルコールの抜け切らない体を引きずりながら自分も支度を整えた。

「寝てていいけど、吐いたらその場で降ろすから」
「なら、連れて行くなよ」

 助手席に座った私にビニール袋を突きつけてくる恭子を恨めしげに眺めた後、少し倒したシートに体を預けた。心なしかいつもより丁寧なアクセルワークが心地よく、私はすぐに眠りについた。

 どれくらい眠っていたのか、肩を揺さぶられ目を覚ますと目的地に着いていたようだ。一眠りしたおかげで酔いもだいぶ醒めている。

「よく寝てたね。ほら、降りよう」

 まだ少しぼうっとしたまま、促されるままに車を降りると寒風にさらされ一気に目が覚める。やはりこの時期の海なんて来るものじゃない。

「さっぶー!!」

 マフラーに顔をうずめ腕をさすっていると、熱い何かが手に押し付けられた。何かと思えば缶コーヒーで、恭子のもう一方の手にも同じものがある。どうやら私を起こす前に買っておいたらしかった。それを受け取り、カイロ代わりにしながら二人で浜辺に下りて少し歩く。
 そういえば、恭子に出会ったばかりの頃にもここに来た事があった。あの頃はまだお互い学生で自由になるお金もあまり無く、日がな一日ここで海を眺めていた。隣に恭子がいるだけでどきどきして会話どころじゃなかったことが懐かしい。そうそう、初めてキスをしたのもその時だったっけ。

「にやけてるよ」

 そう言われて自分の頬が緩んでいた事に気が付く。

「うん、ちょっと懐かしいなあと思ってさ」
「ふーん」

 気のない返事をしながら砂の上に腰を下ろす恭子にならい、その隣に座る。
 缶コーヒーと暖かい日差しのおかげで風さえ吹かなければ寒さはさして気にならない。誰もいない浜辺にただ二人だけで座り海を眺める。この海に私の腹の中に溜め込んだものを捨てていければ良いのになどと考えていると、恭子が「ねえ」と話しかけるからそちらを向くと、頬に指が突き刺さった。

「……何してくれてんの」
「最近難しい顔ばっかりしてる」
「そう?」
「そう」

 いつも何も言わないけれど、しっかり見られてるんだなあと感心していると頭をくしゃくしゃと撫でられた。

「あんたはよくやってると思うよ」
「ずいぶんとえらそうですね」
「えらいからな」
「へえへえ、そうですか」
「それに」

 「よっ」という掛け声と共に勢いよく立ち上がると恭子はにかっと笑う。

「愛しちゃってるからね」

 唐突なその台詞に思わず笑ってしまう。

「そうか、愛されちゃってるんだ」
「おうよ」

 二人で声を出して笑っていると、腹の中のどろどろが少し減った気がした。もしかしたら、ただ単にお腹が減ってきただけなのかもしれないけれど。

「ああ!お腹すいた!」
「何か食べて行こうか」
「ラーメンが食べたい」
「飲んだ後の定番だね。よし、それで行こう」

 車に向かって腕を組んで歩いていると、彼女が傍に居てくれていることだけは、あの頃思い描いていたものと変わらないのだと気付いて、今の私だって捨てたものじゃないと思えた。


 終

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