積雪

 靴を履き、校舎から一歩出るとすっかり白く染まった景色を眺める。ようやくアスファルトが顔を出すようになったと思ったらこれだ。見飽きた光景に溜息が漏れた。隣からも盛大な溜息が聞こえて横目で覗くと、彼女も空を見上げて眉をひそめていた。思わずその視線を追う。

 白く煙った空と街並みはわずかな色の違いこそあれど、みな白い。どこからが空なのかも、どこから雪が落ちてくるのかもわからない。

 わかるのはこの雪がとても止みそうにないということだけ。空からこれから進む方向に視線を移し、気合を入れる。

「いいか! 足元には十分気をつけろよ!」
「わかってる」

 合格発表を控え、「すべる」とか「落ちる」という単語に敏感な受験生にとって、雪道を歩くのは神経をすり減らす行為だった。注意を最大限に足元に集中しているために、二人とも自然と視線が足元にいき、無口になる。降り積もった雪は街の音を吸い込んでしまうのか、たまに通る車の走行音と、私と彼女がぎゅうぎゅうと雪を踏みしめる音ぐらいしか聞こえてこない。

 目の前の信号が赤になり、立ち止まると、ほうっと白い息を吐いた。知らぬ間に肩に力が入っていたのか、首を左右に傾けるとポキポキと音がした。その音に彼女が振り向き笑う。

「凄い音」

 そして、私の頭に手を伸ばしてきた。

「え? 何?」

 少し驚いたけれど、彼女にされるがままでいた。手袋をした彼女の手が私の頭をポフポフとはたき、続いて肩も同様にされた。

「雪、積もってた」

 そう言う彼女の頭や肩にもうっすらと雪が積もっている。

「ああ、ありがとう」

 軽くお礼を言うと、私も彼女の肩の雪を払い落とした。頭の上は背伸びでもしないと届きそうになく、悔しいからそのままにしておいた。彼女が自分で頭の雪を払っているのが視界の端に映った。

 小学生の頃は私の方が高かったのになぁ。

 赤く光る信号を見つめ、そんなことを思う。

 幼い頃からいつも一緒にいた彼女。いつの間にか追い越された背に気付いた時、彼女はすっかり「女」になっていた。私はと言うと、そんな彼女を眩しく思いながらも自分がそうなることに抵抗を感じ、いつまでも子供のままだ。「女」になった彼女は男女分け隔たてなく人気があり、今日も同級生に限らず、後輩の女の子達からも随分とチョコを貰っていたようだった。

 実は人見知りな彼女は、そうやってもてはやされることは好まない。初めの頃は、誰かに話しかけられるたびに私の後ろに隠れていたものだ。そして私はそんな彼女によくこう言った。

「いつでも、私が一緒にいられるわけじゃないんだから、一人で話せるようにならないと」

 本当は彼女に頼られることで、他の子たちに対して優越感を抱いていたくせに。

 私がそういう事を言っていたからなのか、成長と共に慣れていったからなのか、(おそらくは後者だろう)次第に彼女は私を通さずとも誰とでも会話する事が出来るようになっていった。私はその光景と、たまにこちらを窺うように向けられる彼女の視線と、それに気付かない振りをしている自分に苛立っていた。なんでこんな事に苛立たなくてはならないのかと苛立っていた。

 そして、私は彼女を遠ざけようとした。
 今でも十分子供だけれど、その頃の私は今以上に子供だった。

 うっかり苦い記憶までも呼び起こしてしまったところで信号が青に変わり、また足元に注意を傾けながら歩き始める。ぎゅうぎゅうと雪を踏みしめる。

「そう言えばさ」

 彼女が話しかける。

「ん?」

 視線は足元に向けたまま続きを促す。

「チョコ、まだ貰ってないんだけど」

 ああ、期待されていたのか。
 まあ、当然と言えば当然か。他の友人達には学校で渡していたわけだし。

「私も貰ってないんですけど」

 わざとはぐらかした。

「持ってきてはいたんだけど、タイミングがさ」
「タイミングって何だよ。私は家に忘れてきちゃいました」

 笑いながらそう言うと、彼女がこちらを向いたのがわかった。

「あんたそれ、結構ひどくない?」

 はははと笑って誤魔化す。学校で渡すのは他の子たちと同列に見えてしまいそうで嫌だったなんて、とてもじゃないが言えない。

「これから、取りに来てよ」

 そう言うと、不貞腐れたような声で「わかったよ」と呟くのが聞こえた。ちらりと表情を伺い、少し尖らせた口元を見つけてこっそり笑う。
 そしてふと思う。

 来年の今日もこんな風にしていられるだろうか。
 第一志望は学部こそ違うが同じ学校。彼女にとっては相応、私にとっては少し厳しい。別に彼女が行くからそこに決めたわけじゃないとは言ったが、それが一つの決定要素だったことは否めない。
 我ながら子供っぽいとも思う。
 自分の進路を選ぶのにそんなことを選択基準においているのもどうかとも思う。
 同じ学校に行けたとして、私達の関係が続くとも限らない。
 「いつも一緒にいられるわけじゃない」ということは、今以上に子供だった私にでもわかっていたことだ。

 それでも、少しでも一緒にいられるようにしたいじゃないか。だって彼女は人気者で、私の今いるポジションはすぐに誰かに取られてしまいそうだから。

 やれるだけのことはやったし、手応えも一応はあった。あとは天に身を任すのみ。だから、単語一つにこんなにも敏感になるのだ。

 それなのに、この時期に雪だなんて勘弁していただきたい。顔を上げると、ようやく我が家が見えてホッとした。と、隣から「うわ」という声がし、バランスを崩す彼女が視界に入った。咄嗟に私は腕を掴み、本人の必死の抵抗もあり、危ういところで事なきを得た。
 二人揃って大きく息を吐く。

「あぶねー。ちょっと、気をつけてくださいよ。縁起でもない」

 体勢を立て直すのを手伝いながら苦情を言う。転びそうになった彼女は少し顔を赤らめ、白い息を漏らしながら礼を言った。

「ごめん。ありがとう」

 彼女は卒業後もこの関係を続けて行くつもりなのだろうか。

 一瞬頭をよぎった弱気な考えを振り払い、笑顔を作り直す。
 「焦ったー」と互いに呟きながら家に向かった。部屋に入るなり荷物を床に放り、その上に手袋とマフラーも投げ捨てストーブをつける。コートはまだ寒いから着たままだ。いつもの習慣でベッドにダイブしようとしたところ、彼女が「おい!」と怒声を上げた。

「あ、チョコだったね。チョコっと待ってね」

 語尾にハートマークでも付けたような声色でそう言う。彼女は「うわぁ」という声と共に冷たい視線を向けたが、そんなのはいつものことだ。構わず机の引き出しからラッピングされたそれを取り出し、彼女の隣に座る。

「さあ、人質と交換だ! 出すもの、出してもらおうか!」

 はっきり言って、こういうのは苦手だ。ふざけずに出来るわけがない。彼女もそれがいつものことだから、呆れ顔ではあるが自分の鞄から一つの箱を取り出した。

 でも、これでいいのか?
 あの日。彼女が今にも泣き出しそうな顔で私の部屋を訪ね、今座っているそこでしどろもどろに心情を訴えてきたあの日。私は彼女のただの幼馴染でいることをやめた。

 あの日以来、いや、その前から。私の彼女への想いはしんしんと音もなく、しかし確実に降り積もり、気付けばすっぽりと埋まってしまって身動きが取れなくなっていた。彼女から目が離せなくなっていた。そのくせ、その想いは冗談めかしてばかりで、一度たりとも素直に伝えた事がなかった。

 考えたくもないことだけれど、もしかしたら来年はこのイベントを一緒に楽しむことはないかもしれない。たまには、うん。たまにはそういうのもいいんじゃないかな。

 手に持ったチョコレートを差し出しながら、私は彼女に言う。できるだけ真剣に。

「あのさ、好きだよ」

 その瞬間、受け取ろうとした手を止め、目を見開き、何が起こったのかわからないという表情で彼女が奇声を上げる。

「うぇ?!」

 長年の習慣というものは恐ろしいものだ。それを見て、からかいたい衝動に駆られる。

「ていうのは嘘で〜」
「な! この」

 私の言葉に一瞬で「やっぱり」と「がっかり」の混じった表情になる彼女。期待通りの反応に満足し、チョコレートをその手に押し付けながら、彼女の言葉を遮ってその後に続く言葉を投げかける。

「大好きだよ」

 部屋の中はまるで雪に私達の声だけが吸収されてしまったかのように、ゴォーというストーブの音だけが響く。「好き」というのは嘘で、「大好き」。言ってしまってから、冗談めかしたものの酷く恥ずかしいことを口にしたことに気付いた。真顔になった彼女の視線が突き刺さる。あの日並みの緊張感が私を襲う。それを誤魔化したくて、私はまたふざけるしかなかった。目を逸らし、頭をかきながらいつものトーンで笑う。

「ありゃ。失敗失敗。あはは〜ちょっとこれは滑っ」

 「たかな」と続けようとした口は彼女の唇でふさがれた。何度もしていることとはいえ、突然されれば驚く。だから、こんなにも心臓がうるさいのだ。

「それは禁句でしょ」

 唇を離した彼女が額をくっつけたまま言う。「顔が赤いですよ」とからかおうと思ったけれど、自分も負けないくらい赤い気がしたのでやめた。

「そうでした」

 代わりにそう言って乾いた笑いをこぼすと、背中に回された腕に「ぎゅっ」という効果音が付きそうなくらい抱き締められた。馬鹿みたいにうるさい心臓の音は彼女に聞こえてしまいそうだ。
 雪がこの音を吸収してくれればいいのに、と彼女の肩越しに白い窓を見る。けれど、その体から伝わる鼓動は私と同じリズムを刻んでいて、なんだか酷く安心した。こんな風に安心するのであれば、彼女に私の鼓動が聞こえてしまうのも良いかとも思った。

 一つになった二つの鼓動に紛れて、雪が降り積もる音がしたような気がした。



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