適応と懐柔

 人の適応能力というのは便利なもので、初めは気になってストレスに感じていたことも、何度も繰り返されるうちに気にならなくなっていつの間にか平気になっていたりする。気候のことで言えば、琴美は始めてこの地に来たときに、春だというのにこんなに寒いものかと思ったものだったのに、今では春になればちゃんと暖かいと感じている。食事の支度や掃除洗濯といった家事も、一人暮らしを始めた当初は面倒でストレス以外の何ものでもなかったのに、今では(面倒なのは変わりないが)日常のルーティンに組み込まれているし、厳しい家計事情による節約も、当たり前のことになっている。そして友人が見当たらなかったときに食堂で一人で食事することだって、大学に入学して三年目ともなればすっかり慣れっこだった。だけれども。
 琴美は食事の最後に水を飲みながら、ひとり悶々としていた。「行かない」と背を向けた友人のことを思って悶々としていた。
 窓の外は初夏の心地よい日差しに包まれていて、次の講義までの時間を過ごす学生たちがそこかしこでくつろいでいる。皆短い貴重な夏を満喫しようとしているのか、食事を終えると長話をすることなく誘われるように外へ出て行き、昼休みも三分の二を過ぎた食堂は随分と閑散としてきていた。静かになっていく食堂は考え事をするにはうってつけで、いつもはさっさと食べてさっさと出て行く琴美も、今日は物思いにふけりながらゆっくりと食事をしていた。とは言え、ゆっくり考え事をしたところで、些細なことに悶々としている自分に気付いただけだったが。
 はあ、と息を吐いて、空になったグラスをトレーに戻すと、琴美はもうここに座っている理由がなくなってしまった。なのでさっさと立ち上がり、空の食器の乗ったトレーを返却口に戻しに行った。中ではまだじゃばじゃばと洗い物をしている音がしていたが、返却口はもうすっかり片付けられていて、「ごちそうさまでした」と言う琴美に、「はい、ありがとうございました」と返すおばちゃんの声にも余裕が感じられた。
 さて、これからどうしよう。売店に寄るか、図書室にでも行こうか。次の講義までの時間の過ごし方を考えていた琴美は、けれど窓際の席に腰かけようとする一人の学生を見つけてしまった。「食堂行く?」と尋ねた琴美に「行かない」と背を向けた友人だった。

「三井」

 声を掛けた琴美をちらと見やった彼女は、少し目を剥いて、小さく嘆息もして、けれど何も言わずに目を伏せて箸を手に取り合掌した。窓際の四人掛けのテーブルの一番日当たりのいい席に座った三井は、その斜め向かいの席に琴美が腰かけても、黙々とサバの味噌煮を突きほぐしていた。

「なにか怒ってるの?」

 ひとりで食事をしながら考えて、もしかしたらと思っていたことは、今こうして本人を目の前にすればそうであるようにしか思えなかった。サバの味噌煮とご飯を続けざまに頬張った三井はしっかりと咀嚼して、嚥下してから答えを寄こす。

「……怒ってる」

 自分の目の前のトレーに目を落としたままの三井ははっきりと答えて、琴美にいくらかの衝撃を与えた。彼女の態度からもしかしたらと思ってはいたけれど、こうして面と向かってはっきりと言われるとなかなかに堪えるものがある。なのに彼女は何食わぬ顔で今度はほうれん草の胡麻和えを摘み上げている。

「でもいいの。気にしないで」
「気にしないでって言われても……」

 気にしないわけがないではないか。こんな風に機嫌を損ねられて、そうであると肯定までしておいて、それを気にせずにいられる人がどこにいる。大体にして琴美は三井が機嫌を損ねた理由が少しもわかっていないのだ。

「大丈夫。明日には普通にするから。ごめんね、私のことはしばらくほっといて」
「いや、あなた、それは随分勝手な言い分ですよ?」
「うん、わかってる。だからごめん」

 詫びながらも三井はほうれん草を頬張っている。謝るくらいなら、怒ってるなんて認めなければいいのに。そう思ってから、琴美は思い直す。三井が認めなくたって自分はきっと彼女が怒っていることを気取っただろう。もしかしたら怒ってる怒ってないの押し問答になったかもしれない。なにせ琴美はきちんと腰を据えて話す姿勢を見せてしまっていた。だから彼女は無駄なことは省いてさっさと肯定したのかもしれない。

「うん……と、理由くらいは教えてもらえませんかね?」
「だから気にしないでって。私がくだらないこと気にしてるだけだから。琴美は何も悪くないから」

 そうか、自分は悪くないんだ。ならいいや。そう思えるようなら苦労はなかった。けれど生憎と琴美はそう思えはしなかった。くだらない、と言われた理由を探して三井と自分の行動を思い返している。
 朝一番の講義で会った時は普通だった。いつものように「おはよう、ことみん」なんてするっと琴美の隣の席に座っていたし、板書の見えづらかったところを琴美のノートを覗き込んで確認したりもしていた。次の講義で別れる時も「また後でね」と手を振っていたから、そこまでは何の問題もなかった。はずだ。後は同じ講義を取っていた友人と講義棟から出てきて、そこにやって来た三井も交えてからも少し話をした。三井が腹を立てることがあったとしたら、その時くらいのものじゃないかと思う。なにせ琴美が三井を食堂に誘って断られたのは、その後いったん家に帰ると言う友人と別れた直後のことだったのだから。
 とは言えやっぱり機嫌を損ねる理由が見当たらない。だってその時の友人との会話なんて、琴美と三井が仲が良いとかそんな内容だったのだ。そういう時は大体三井は大層ご機嫌になるはずで、機嫌を損ねるなんてことにはなり得ないはずなのだ。
 なのに三井は今現在、琴美を極力視界に入れないようにして揚げとわかめの味噌汁をすすっているのである。うーん、と頬杖の上で唸ってしまうというものだ。

「やっぱわかんないなぁ……。ねえ、理由言ってよ」
「いや」
「なんで」
「くだらないから」

 怒っていることはあっさり認めたくせに、その理由について三井は頑として口を割らない。無駄なことを省くのならここも省いてくれればいいものを。こんなにいい天気なのに、窓の外では楽しげにアイスなんか食べて談笑してる学生が溢れてもいるのに、どうしてこんな押し問答をしているんだろうか。

「ねえ、言ってよ」

 ねだる口調がいやに甘ったるくなってしまうと、三井はご飯を口に運びながらもちょっとだけ琴美の方を見た。

「やだよ」
「聞きたい」
「なんで?」
「だって知らなかったら、また同じことして、三井を怒らせるかもしれないじゃん」
「だから琴美は悪くないんだから、なにも治すことはないんだってば」
「それでも気を付けることはできるかもしれないじゃん」
「大丈夫だよ。気持ちを落ち着かせたらもうないから、こんなこと」
「うーん……それもなんかなぁ……」
「琴美、しつこいよ? どうしてそんなにこだわるの」

 琴美、と二度も呼ばれて、大概の友人から呼ばれているように呼ばれて、琴美はあれ、と思う。どうしてってそんなのは、そんなこときく方が『どうして』だ。そんなことわざわざきくものか? 確かに琴美は他人にそこまでこだわる性質ではないけれど、いつもなら深くは聞かずに済ませたかもしれないけれど、けれど三井は琴美を『琴美』と呼んだので、それが酷く違和感があったので、なので琴美はなんだか言っておきたくなった。

「だって、気になるじゃん。……どうせならご飯一緒に食べたかったし」

 そうすると三井はあからさまに琴美を見て、目を丸くした。それは一瞬のことですぐに顔を背けられたけれど、全然手遅れだった。もう琴美は自分の口にしたことが馬鹿みたいな恥ずかしいことであると気付いてしまっていた。昼食を一人で摂ることぐらいどうってことのない話のはずなのに、何を真顔で言っているのだ。バカじゃないのか。こういうのは三井の専売特許であるはずで、琴美が口にするなんてことはあるはずのないことのはずなのに。こんな役立たずの煮えた頭など、テーブルに打ち付けてしまいたかった。もちろん閑散とした食堂でそんなみっともないことなどは出来ないので、実際には熱くなった額を押さえて「ごめ……」と呟いただけだったが。けれどそうして呟いたのは琴美だけではなかった。

「ちょっと……ちょっとごめん。ちょっと待ってね……」

 俯く三井はすっかり箸を止めてしまって、さっきまでの淡々とした口調もやめてしまって、箸を持たない方の手で口元を覆っていた。けれどそう大きくもない柔らかそうな手に覆われているのは小さな口元ぐらいのもので、緩く波打つ髪の隙間からは緩んでしまっている頬が覗いていた。ふるふると小刻みに揺れる肩もしっかりと目に留まる。その上、肩の震えが止まるまでの間、ちょっと待った先に続いたのは「びっくりした」なんて感想なのだ。ああもう、本当に、勘弁してください。口が滑ったんです。今のはなかったことにしてはいただけませんか。
 しかし誰あろうこの三井が琴美のこんな発言をなかったことにしてくれるはずもない。顔を上げた三井はすっかりいつもの通り。憎らしげな笑みを湛えて琴美を見据える。

「珍しいこと聞いちゃったから、もういいや。ごめんね、ことみん。一緒にご飯食べてあげなくて」
「やめてよ、あんた酷い奴だね!」

 いたたまれなくなった琴美がもう両手ですっかり顔を隠してしまうと、三井はいかにも楽しげにくすくすと笑い、調子に乗り始める。

「あ、そうだ。ことみん、サバ好きだったよね? 食べる? あーんしてあげようか? ほら、あーん」
「いらんわ、ばかっ! 人でなし!」

 両手で顔を覆ったまま、身体ごとふいとそっぽを向けば、三井の楽しげな声が「ちぇー」なんて言う。「ああ、もう最悪」と嘆息したのにだって愉快そうな笑い声が返ってくる。その声からはさっきまでの不機嫌は露ほども感じられない。顔を覆った手を離し、頬杖だけついて横目に窺えば、三井はもうすっかりご機嫌でトレーの上の昼食をぱくついていた。機嫌が直ったのなら良かった。それで話は終わりでいいのかもしれないけれど、琴美はどうにも納得がいかない。だって、自分ばかりがこんな恥ずかしいことを白状させられるなんて割が合わないではないか。

「それで?」
「ん? なにがそれで?」
「怒ってた理由はなんだったんですか? まだ聞いてませんよ?」
「まだ聞く気だったの?」
「当たり前。珍しいもの見せてやったんだから、そっちもちゃんと聞かせなさい」

 等価交換だ、と言い添えて真正面から見据えてやると、三井はもそもそと白飯を頬張りながら目を逸らす。それでも「聞かせなさい」と重ねて、琴美が見据えた目を逸らす気がないことを示してやると、三井は観念した様子でそれでも額を手のひらで抑えた。日当たりがいい席だからなのかなんなのか、前髪が除けられた丸くて綺麗な形の額は少しだけ赤く染まっていた。

「……ホントにくだらないことなんだけど」
「それはもうわかったよ。いいから、ほら、言って。どうぞ」

 この期に及んで言い淀む三井の目はうろうろと辺りを漂ったけれど、身を乗り出した琴美はそれを決して逃さない。「うう」と呻いた三井は頬を染め、口を尖らせて小さく「ことみん」とだけ呟いた。いつもとはまるで反対の構図に少し楽しくなってきた琴美は名を呼ばれ「うん、なに?」と問いかける。なんだかいつもよりも甘ったるいような声が出て気恥ずかしくなったものの、ひと気のない食堂では他に聞いている人はいない。ただ一人それを聞いていた目の前の人もそれどころではない様子。一層頬を赤く染め、深く俯いて「だから」とくだらないという理由を明かした。

「『ことみん』なんだってば」
「は? だから私が何をしちゃったのかって話なんですが」

 ようやく明かされたにもかかわらず要領を得ない理由に、琴美は首を傾げる。すると三井は「そうじゃなくて」と精一杯顔を背けた。

「『ことみん』て呼ばれてたのに平気な顔してた。今まではずっと『それやめて』って言ってたのに。今までずっと私だけが呼んでたのに」

 ぼそぼそと早口で言い終えると、三井はとうとう食事の乗ったトレーを避けてテーブルに突っ伏してしまう。顔を両腕で覆い尽くして、絶対に琴美には見られないようにして、そうして「ああ、最悪。うざい」なんて自己嫌悪に浸ってしまう。その様に琴美は呆気にとられるしかない。
 確かに昼食前に話していた友人は、話の流れで戯れに琴美のことを『ことみん』と呼んだ。それは明らかに琴美のことを恥ずかしがらせてやろうという意図に満ちたものだったのだけれど、琴美はそういったからかいには乗ってやりたくない性分なので、だから平気な顔をしてそれを流してやっていたのだった。おかげで何度か『ことみん』と呼んでいた友人はつまらなさそうに「じゃあまたね、琴美」と帰っていき、琴美としてはしてやったりという気分だったのだが、思わぬところに被害が出ていた。
 だけれども友人がそんな風に呼んだのは、いまいち琴美には不似合いな可愛らしい愛称がたったひとりのせいで周囲に認知されていたからで、更に言えば琴美がそんな風に平気な顔でいられたのは、どれだけ「やめて」と言っても懲りずに『ことみん』と呼び続けていた人がいたからなのだ。初めは気恥ずかしくてやってられなかった呼び名も、続けられるうちに今ではすっかり適応して慣れてしまったからなのだ。それどころかその人に『ことみん』と呼ばれなかっただけで、何かもやもやとしたものがわだかまってしまう始末なのだ。慣れって怖い。だのに琴美をそういう風にしてしまった当人は、今目の前で呻いている。
 ああ、なるほど、と相槌を打ちながらもばかじゃないかと思った。本当にくだらなかった。だけれども琴美は既に自己嫌悪に打ちひしがれているこの人に追い打ちをかける気にはなれなかった。だって目の前に広がる髪から覗く、真っ赤な耳がこんなにも愛おしい。

「……今後気を付けます」
「やめてよ、あんなの単なる冗談じゃん。ことみんが流してただけなのもわかってるし」
「さいですか」
「ああ、もう。こんな理不尽なこと、ぶつけたくなかったから食事別にしようと思ったのに……。なんでまだいるんだよう」
「私にだってゆっくり食事したいときがあるんです」
「なんでそれが今日なんだよう。はぁ……、こんなこと絶対言いたくなかったのに。白状させるなんて、ことみんは酷い奴だね」

 冗談めかした口調。耳から少しずつ赤みが引いていく。その耳に触れてやったら、また赤くなったりするだろうか。そうして、ゆっくり食事していたのはあなたのことを考えていたからだって言ったらどうだろうか。琴美がそんなことをするなんてまずないことだから、耐性のない分期待はできる。けれど閑散としているとはいえ、ここは公共の場である食堂なので、ふたりの世界に浸るにはそぐわない場所であるので、そもそも琴美はまだこの人にそんな風に触れることは戸惑われるので、何よりそんな雰囲気になられては琴美の方こそ参るので、だから琴美はふわふわとした髪の中央、白く浮いたつむじをぐりんと指で押してやった。「それはごめんなさいね」なんて冗談めいたものを添えるのも忘れずに。すると未だ赤みの引き切らない、不満そうな顔がゆるゆると持ち上がる。

「お腹壊すからつむじ押すのやめて。……あれ、便秘になるんだったっけ?」
「食堂でうんこの話するのやめてもらえます?」
「私まだ食事中なのに、はっきりうんこって言うのやめてもらえます?」
「あら、失礼」

 おほほ、と口に手を添えて笑ってみせると、「反省なさい」と笑い声。起き上がった三井は乱れた髪を耳に掛け、事もなげに食事を再開する。露わになった耳に少しどきりとして、「全然平気なんじゃん」と笑った琴美自身は全然平気なように繕えただろうか。窓の外ではアイス片手に談笑していた学生はまばらになってきていた。もう休み時間も終わりが近いのだ。だけれども。

「ねえ三井」
「ん?」
「それ食べたら、アイスでも買って食べない?」
「あー、いいねえ」

 ほうれん草の入っていた皿を空にしながら、同意した三井は咀嚼しながらふふふと笑う。琴美を捕らえたその眼は嫌らしく笑んでいて、嫌な予感がした。そして続いたのは予感通り、からかいの意図を明確にした「うんうん、そうだねえ、一緒に食べようねえ」なんていう猫撫で声。それは狙い通り、琴美にほんの少し前の失言を思い起こさせて、いたたまれなくさせる。けれども「うるさいよ!」と声を荒げてみせても、それに続く楽しげな笑い声は少しも嫌じゃない。こういったからかいに乗ってやるのは琴美の性分ではないはずなのに。

「ああ、もう! うざい!」

 絡み付くのをやめないいやらしい笑みに対して、緩みそうな口を尖らせて誤魔化せば、夏の陽を受けた三井は一層楽しげに綻んだ。汗の滲んだ肌はいやにきらきら照り返していた。聞き慣れた笑い声が、琴美の手のひらをこそばゆくさせる。
 なんだかもどかしいようなこの感覚に、中毒性でもあるのだろうか。考えてみれば時間が合いさえすれば、こうしてこの人とこんなことを繰り返している。明日も明後日もその後も、また同じようなやり取りを繰り返してしまう未来が琴美には容易に想像できる。それがあんまり当たり前になっていたから、以前なら気にすることのなかっただろうことにも、こんなにこだわってしまったのかもしれない。今までの当たり前は、気付けば少しずつ作り変えられている。慣れって怖い。けれどどうだろう。これって適応というより懐柔なんじゃないだろうか。
 終

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