私はこうして死にました

 その時は、なんの前触れもなくやって来た。それまでは本当にいつもの通り。普段と変わりなく学校に行き、変わり映えのない一日を凄し、ごく普通に家に帰ってきただけ。特にお腹が痛かったわけでも、気持ちが悪くなったわけでもない。本当に突然、知らぬ間に、そのときはやって来ていたのだ。
 だからといって、私が慌てふためくなんてことはなかった。「あ」と小さく声を上げはしたけれど、これってそうだよな、とだけ思って、私は自宅のトイレの中で、下ろした下着に付いた汚れを、見下ろしていたのだった。
 生理については小学校の頃から授業で聞かされていたし、トイレに行くときに「あ、ちょっと待って」と言って気恥ずかしそうに小さなポーチを取りに戻る友達もたびたび見ていたから、もう何も特別なことだとは思っていなかった。中学二年ともなればまだ来ていない方が不思議なのだ。当たり前のことがようやく自分にも当てはまるようになっただけ。
 だからどうしたらいいのかは知っていた。必要なものもお母さんから随分前から買い与えられている。

「なんか……、ごそごそしてやだな」

 けれど履き替えた下着にあてられたナプキンはわずらわしくて、無駄に足踏みをしてしまう。制服からいつものパーカーとジーンズに着替えても、どうにも落ち着かない。これから何日もこんなのを付けていなくてはいけないなんて、それも毎月だなんて、考えただけで嫌になる。

「みんなよく平気そうにしてられるな……」

 慣れ、なのかな。思ったところで足元に脱いだままになっていた、汚れた下着が目に入った。すると急に胸が重くなって、深い深い溜息が出てしまった。だって、だって、そう、この下着は最近買ったばかりのお気に入りだった。
 なのに汚れはなかなか落ちない。水だけでは駄目なのかと思って、目に留まった洗濯洗剤をつけてみたけど、どれだけごしごしやっても赤いような茶色いような染みが、そこからどうしても薄まらない。手じゃなくて洗濯機で洗ったら落ちるんだろうか。でもそれでも駄目だったら? そうしたらお母さんは見つけてしまう。だっていつもほんの少しの染みも見つけて「やあねえ、やっぱり落ちてない」なんて言ってる人だ。わかってる。見つけたところで、きっとお母さんは私に何も言わない。何も言わないで綺麗にしてくれるんだろうけど、それでも洗面所で腰を屈めているのをやめられない。ごしごしこすって、ごしごしごしごしこすって、祈るような気持ちですすいで、そうして少し痛くなり始めていた腰を伸ばしてもう一度汚れを確認しようとした。
 しようとして、そこにあった目と目が合って、ひゅっと息が止まった。広げた下着の向こうにある鏡には濡れた下着を手にした自分と、その脇にある扉からひょっこり現れたサクの顔が映っていた。

 サクとは物心ついた頃からの付き合いで、家族ぐるみの付き合いということもあって互いの家を自由に行き来している。何の前触れもなく訪れて「お邪魔します」の一言だけで上り込む。そんなことが許される間柄で、小学校の頃などは毎日のようにやって来ては一緒に遊びに出掛けていた。公園やプールや学校のグラウンドや、出掛ける場所はその時々によって違ったけれど、必ず二人で出掛けて、別々のことをして遊んだ。たまには同じ遊びの輪にいることもあったけど、思い切り体を動かして遊ぶのが好きだったサクは男の子たちに混じってサッカーやドッジボールをしていることがほとんどで、運動の苦手な私は他の女の子たちとお喋りついでに遊具を揺らしたりしているというのが常だった。それで帰る時間になると、また二人で一緒に家に帰ってくる。
 二人で出かけて二人で帰ってくる私たちを見て、お母さんは出掛けた先でも一緒に遊んでいるものだと思い込んでいたみたいだけど、私からしてみればどうしてそうしていると思えるのか不思議なくらいだった。だって私たち二人が同じことをしてもどうしたってどちらかが物足りなかったりしんどかったりするのだから、別々に遊ぶ方がどう考えたって自然なのだ。
 身体を動かしていないと死んでしまうんじゃないかってくらいにいつも走り回っている回遊魚みたいなサクと、激しい運動なんてしたら死んでしまいそうになる私。いつも大きな声で大笑いしてるサクと、うるさいのが嫌いでサクを嗜めてばかりいる私。ぐんぐん背が伸びてクラスで一番後ろに並ぶサクと、未だに小学生と見間違えられる幼児体型の私。三人姉弟の末っ子のサクと、三人姉弟の一番上の私。本当は「さくら」なんて可愛らしい名前のサクと、「あきら」なんて男の子みたいな名前の私は、何から何まで対称的で、名前から「ら」を抜いたほうが互いにしっくりくるところだけ一緒だった。それに気付いた私たちが、お互いに「サク」「アキ」と呼び合うようになると、その呼び名は瞬く間に広まったのだからそう感じたのは私たちだけではないはずだ。
 サクがバスケを始めてからは、練習で忙しくなって一緒に出掛けることはしなくなったけど、空いた時間に自由に互いの家を行き来することは変わらない。だからサクがいつの間にか家の中にいるのはいつものことだったけど、何もこんなタイミングで顔を出さなくったっていいと思う。
 下着はすかさず手の中に隠したけど、そんなのは手遅れに決まっていた。一年生の時に早くもバスケ部のレギュラー入りを果たしたサクは、どんな素早い動きでも見逃さない。こんなとろくさい私の動きなど、止まって見えるに違いないのだ。咄嗟に振り返ってみたものの、胸がどくどく言うばかりで、サクに言うことが浮かばない。目の前のきょとんとしたサクは、今にもニヤリと意地悪く笑い始めそうで、耳の奥では少し前に体育で着替えていて皆の前で言われた「アキもとうとうブラするようになったか!」なんて笑う大きな声が響いていた。デリカシーのかけらもないサクは今度はどんな風にからかうだろう。どんな風に誤魔化したらいいだろう。何も考えがまとまらないまま、乾いた口に湧いた唾を飲みこんだ。なのに――

「あ、悪い。あたし居間に居るわ。お茶もらうね」

 サクはそれだけ言って、そのまま洗面所を出て行こうとした。すると胸のどきどきは余計に酷くなって、目の前がぐらぐら揺れて、膝が震えて今にも崩れそうになった。震える膝に力を入れ直すと足の間に不快が漏れて、もう何もかもがわからない。ぐるぐるぐるぐる、目の前も頭の中も渦を巻いた。

「どうしよう……」

 からからに乾いた喉を喘がせると、知らない間にそんな言葉が漏れていて、それは本当に小さな声だったはずなのに、後ろから聞こえる出しっぱなしの水の音に流されてしまいそうなものだったはずなのに、どうしてだかサクはそれを聞きとがめてしまった。ドアの向こうに引っ込みかけていたサクがまた顔を出し、「え? 何?」なんて聞きかえしてくる。そうするともう頭の中はぐちゃぐちゃで、何も物が考えられなくて、ただ後ろで水がジャアジャア言うのと、手の中で握りしめた下着から染み出た水が指の間から零れていくのが気持ち悪くて、どうしようもない。

「……しんじゃう」

 口を突いた言葉に、サクが目を剥いたのがわかった。もう膝に力を入れていることができなくて、ずるずるとその場に座り込んだ。

「大丈夫だよ……死んだりしないって」

 ドアのところで立ちすくむサクは私を見下ろしたままわかりきった事を言った。下着を握りしめた右手だけを後ろに隠したままにして膝に顔を埋めた私には、もうサクの顔なんて見られなかったけど、サクが今どんな顔をしているのかは手に取るようにわかった。

「どうしよう……死んじゃう……」

 もう一度口にすると、もう涙までこみ上げてしまってどうしようもない。嗚咽まで漏れ、「どうしよう」「死んじゃう」ばかりを繰り返してめそめそ泣いた。突然子供みたいに泣き崩れる私を、サクは途方に暮れながら見下ろしているに違いない。身体の大きなサクはもう、とうに初潮を迎えている。なんで私がこんなことでこんな風に取り乱しているのかなんて、きっとわからないに違いなかった。

「アキ……?」

 ああ、これはあの時と一緒だ。ふと子供の頃のことが思い浮かぶ。見えないはずのサクの顔。見えているように鮮明に浮かんでいるのは、あの時のサクだ。
 一緒に遊ぶわけでもないのに二人で出掛け、二人で帰ってくる私たちを見て、お母さんは「あんたたちは仲が良いのか悪いのか、よくわからないわねえ」と不思議そうに笑っていたけど、それは不思議でもなんでもないことだった。実を言えば、一度だけサクは一人で先に帰ったことがあった。それを私が泣いて咎めたのだ。サクの家に駆けこんで、サクのあっけらかんとした顔を見るなり泣き出して、なんで、どうして、を繰り返した。サクの前で泣くことなんて滅多になかった私が、ぐちゃぐちゃに泣いて怒った。サクは私がそれほどまでに怒る理由なんてわからないみたいに目を丸くしていたけど、結局それから二度と先に帰るようなことはしなかった。先に進もうとするサクを引き戻したのは、私だった。
 あれから何年も経って、体もいくらかは大きくなって、生理まで始まったのに、私はあの頃と変わらない子供だ。馬鹿みたいなことをする子供だ。まだ、子供だ。でもサクは違う。
 背が高くなっただけじゃない。膨らみや丸みを帯びてきた体つきだけじゃない。二人で世紀の大発見をしたみたいな気分になった互いの呼び名だけど、サクだけがいつの間にか「ら」を取らなくても違和感がなくなっていた。

「アキ……大丈夫だって」

 子供みたいに泣き続ける私に、その理由もわからないくせにサクはまた「大丈夫」と言う。子供みたいに泣きながら、私もわかっていた。こんなことをしてもあの時みたいにサクを引き戻すことなんてできない。こんなことをしても私は子供で居続けられやしない。
 ドアの向こう側で途方に暮れて見下ろすサクは、何日か後の私だった。それを思うとやはり涙は止まらず、「どうしよう」「死んじゃう」を繰り返さずにはいられなかった。

 終

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