つまらないひと

 なんの予定もなく、暇を持て余したあたしは、特に欲しいものもないのに、コンビニに足を運んだ。しばらく雑誌を立ち読みしたりなんかして。でも、いつも読んでいる漫画雑誌は既に読んだもので、そういえば発売日は明日だと気付いた。それでなんだかつまらなくなって、適当にガムとコーラだけ買って、のんびりのんびり歩いて帰ることにした。

 そんなふうにして帰ってみれば、マチは顔の上に開いた本を乗せて、とても気持ちよさそうに寝息を立てていたのだ。鍵を机の上に置くのにやたらじゃらじゃら言わせても、ガムとコーラを袋から出すのに必要以上にがさがさ音を立ててみても、なんの反応もない。ただでさえ暇なのに、あたしを放って寝ているなんてどういうことなの。憤りに任せてコーラのふたを捻れば、ぷしゅっといい音がした。期待通りの反応を示してくれるだけ、このコーラの方がマチなんかよりずっとましというものだ。

 だいたいマチはいつだってあたしをつまらなくさせるんだ。なにしろあたしの期待した反応をしてくれたことがほとんどない。笑わそうと思って冗談を言っても流してしまうし、驚かせようとして後ろから抱きついてみたって無反応だし、今日みたいにせっかくの休日に一緒にいても、面白いことを提示してくれるわけでもなく、こんな風にだらだらしているだけっていうのもしょっちゅうだ。おまけに何を食べたいのか尋ねても「別になんでもいいよ」なんて答えるし、映画をいつ観に行こうか相談しても「別にいつでもいいよ」なんて言い出すし、遊びに行くにしても「別にどこでもいいよ」だし、さっきだってコンビニで何か買ってくるものがあるかと訊いたら「別にない」なんて答えやがった。なんでもかんでも、別に、別に、べつに、ベツニ……。

 別にってなんだよ。何と別なんだよ。意味が分からない。あたしの求めてるものとは別ってことか。本当にマチはつまらないひとだ。

 コーラを一口飲んで、床の上でだらりと寝そべるマチを見る。顔に本を乗せているから表情は見えないけれど、規則的に上下する胸と一定の深い呼吸音からして、気持ちよくねているんだろう。Tシャツの首から覗くブラのストラップが目に入る。Tシャツと同じく、ダレきったその持ち主に溜息が出た。

 そしてふと目に入ったジーンズの穴。それを見た瞬間に閃いた。飲みかけのコーラにふたをして、テーブルに置くと、膝立ちでペン立てににじり寄る。中から黒のペンを取り出すと、それは油性ペンだった。ふむ、とほくそ笑んで、それを手にマチに忍び寄る。

 相変わらずマチは気持ちよさそうな寝息を立てている。大きく開いたジーンズの穴から覗く膝。声を潜めて笑ってから、そこに持って来たペンで顔を描いてみた。そしたら我ながら上手く描けたものだから、吹き出しを付けて「ボクひざ小僧」と書き加えておいた。

 それでもまだマチは起きる気配がない。もうちょっと何かしてやろう。顔の横に落ちている掌に「手」と書く。無反応。Tシャツをめくって臍のところに矢印付きで「へそ」と書く。無反応。足の裏になるべくくすぐったいように気を付けながら「あしのうら」と書く。少しだけ身じろぎした。のち無反応。

 つまらない。これだけあちこち悪戯書きされてたら、普通はくすぐったくて起きるものじゃないの。それで「ちょっと何してるの、やだ落書きされてる、もう何してくれてるのよ」とか言ったりするものじゃないの。やっぱりマチはつまらない。

 ペンをテーブルに放ってマチが顔の上に乗せている本を取り上げる。見ると、この前あたしが買ってきた本だった。つまらないマチを相手にするよりは、この本を読んでいた方がずっと有効に時間をつかえるだろう。胡坐をかくと、テーブルに肘をついて最初のページを開く。マチがどこまで読んでいたかなんて知らない。

 そうして数ページを読み進めたところでマチが起きた。むくりと上半身を起こし、指で目をこすって、それから掌を見ていた。でもそのまま立ち上がって、手を洗いに行っただけ。一歩一歩足を踏み出すたびに、足の裏の「あしのうら」がちらちら見えた。マチが消えた先でじゃばじゃばと水音がしたが、それ以外の音はせず、しばらくすると眠そうなマチが戻ってきた。本当につまらないひとだ。

 あたしをほったらかしにしていたマチなんて、相手をしてやるものか。本から目を離さずにいたら、マチが隣に座ってきたけど、気にしてなんかやらないんだ。

「コーラ、一口頂戴」

 そんな風に言ってきたけど「やだ」って答えた。そしたらマチは何も言わずにまた立ち上がって、何をするかと思えば水を飲んでいた。つまらない。

 あたしはつまらないマチのことなんて放っておきたいのに、相変わらず期待に応えてくれないマチはあたしの隣──肩が触れるほどのところに腰を下ろし、あたしの読んでいる本を覗き込んでくる。そんな風に覗き込まれるのなんて、気分のいいことじゃないから、すい、と体の向きを変え、マチに背を向けてやった。そうすると今度は背後から、ちょうどあたしが足の間に収まるようにして、体を寄せてくる。

「何?」

 本からは目を離さずに、できるだけ平坦な声でそう言うと、後ろからはいつもの答えが返ってくる。

「別に」

 そう言うくせに、今度は耳の辺りの髪をいじりだす。指で梳いていたと思えば、ぽてっとした指に巻きつけて、そうかと思えば一本残らず耳に掛けてみたり。少しいらっとして、視線をわきに向ければ、ジーンズに開いた穴から膝が顔を出して自己紹介していた。

「だから何?」

 ひざ小僧のやつを全力で睨みつけてそう言うと、ひざ小僧に向けて言ったのか、マチに向けて言ったのかよくわからなくなった。けれどひざ小僧は「ボクひざ小僧」としか言わず、その代わりマチが答えてきたからやっぱりマチに言ったのだ。とはいえ、その答えは相も変らぬあの言葉。

「別に」

 繰り返される、別に、別に、べつに、ベツニ……。別にってなんだよ。一体、何と別なんだ。

 それでも首筋に降りてくる柔らかな唇の感触や、腰に回された腕の圧迫感は、あたしの求めているものとは別のものではなかったし、何を尋ねたところで帰ってくる答えは「別に」以外に期待できないから、あたしはぽいっと本を投げやって、首をねじってマチの顔を覗き込んでやった。そうするとマチはふふっと笑って、あたしに口づける。柔らかな唇や、「手」と書かれた掌で頬を撫でられるその感触は、あたしの期待した通りのものだった。

 マチはいつもあたしの期待を裏切る、凄くつまらないひとだけど、たまには期待したこともしてくれるのだ。

 終
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