抑圧と解放

 からりと軽い音を立ててアルミサッシを滑らせると、澄んだ空気がそこにはあった。部屋の中よりは幾分か温度の低いそれをカーテンの向こうに入れないために、琴美は細い隙間に体を滑らせ、すぐさま元の通りに扉を閉める。それと同時に楽しげな笑い声が遠のき、煙草臭い空気から隔離される。据え置かれたサンダルを履き、一歩前へと進み出て大きく深呼吸すると、いがらっぽかった喉が少しはましになった気がした。

 それでもまだしょぼつく目を押さえ、琴美はベランダの手すりに両肘をつく。紫煙にまみれた空気からは逃れたはずなのに、未だに煙草のにおいがするものだから、腕や肩口にすんすんと鼻を押し当てる。まさにそこがにおいの発生源だ。すっかり服ににおいが染み込んでいることに琴美は――うげぇ、とひとりごちた。気の知れた友人たちと集まって飲むのは好きだったが、こうも燻されてはたまらない。琴美はもうしばらくここにいることにして、持ってきていた缶ビールを煽った。

 すると背後からからりと音がする。本能的に振り返れば「何してんの?」という声。『鈴を転がしたような』とはこういうことを言うのだと、琴美がその声を初めて聞いたときには思ったものだった。

「煙草の煙が凄いから、ちょっと避難中」

 体ごと向き直った琴美が答えれば、声の主は──ふうん、とどうでもよさそうに相槌を打って、そのまま後ろ手に扉を閉めた。サッシの端に爪先立ってさっと足元に視線を走らせたその人は、──よっ、という掛け声とともに琴美の足の上に飛び乗ってきた。

「わっ」

 突如として距離を縮められて琴美は身を離そうとする。けれど足を踏まれていては限界がある。上半身を逸らし背中を手すりに預けることで精一杯だ。背中は金属柵に勢いよくぶつかり、足の甲はサンダルの固い部分が当たって、二つの箇所に痛みが走る。しかしそれ以上に大問題なのはこの距離だ。肩をつかむ小さな手、ぶつかる膝、サンダル履きの足を踏みつける足の裏から彼女の体温が忍び寄る。琴美の中で警鐘が鳴り響く。

「痛い痛い痛い痛い! なんで私の足の上に乗るの! 降りてよ!」
「だってサンダルがないんだもん」

 楽しげに笑うその人に、一刻も早く降りてもらわなければならなかった。琴美は焦っているのは痛みのせいだという風を装って、目下の細い肩をぐいと押しやる。

「ほら、片方貸すから降りて」
「はいはい、わかりました」

 仕方がないという口ぶりで片方の足を持ち上げたその人は、その隙に琴美がぽいと脱ぎ捨てたサンダルに足を入れる。ようやく体が離れ、琴美はサンダルを履いた方の足でもって体勢を整え、また手すりに肘をつく。

「まったく、三井はどうしてそうなの」

 小さく文句を言えば、さっきまで琴美の足を踏んづけていた人は「何が?」と言いながらケンケンをして手すりに辿り着くと、琴美の隣に陣取った。それを横目に見て琴美は溜息をつきたくなって、代わりにビールをすすった。

 どんなに琴美が距離をとろうとしても、この人物はそれを平気で縮めてくるのだから困る。どうにかして欲しいと常々思っていた。おかげで琴美は、手すりの向こう、眼下に見える隣のアパートの駐車場に入ってきた車をなんとはなしに眺めながら、活発になろうとしていた心の臓をなだめすかす羽目になるのだ。のろのろと駐車スペースに近づいてきたその車は、酷くぎこちない動きでバックし始めたものの、切り返しを繰り返すばかりでなかなか所定の位置に収まろうとしない。

「へたくそだなあ」
「ん? 何が?」

 琴美の独り言に反応されて、「あれ」と指差すと、声の主はその先を視線で追おうとする。するとこの時期にしては少し冷たい風がその髪を煽った。ゆるく波打った髪が琴美の頬や鼻をくすぐる。煙草のにおいに混じって持ち主の香りがしたような気がして、琴美はそれを手で払いのけた。

「ちょっと寒くない?」
「そう?」

 答えて隣を見れば、三井は短い袖からはみ出た二の腕を小さな手でこすっている。琴美はと言えばしっかりとパーカーを着こんでいた。

「琴美、パーカー着ててずるい。ちょっと貸してよ」

 言いつつ三井はパーカーの袖をちょいちょいと引っ張る。その手を払いのけて琴美はまたビールを煽る。

「やだよ。私が寒いじゃん。中戻れば? 三井がいなくて男連中は寂しがってるんじゃない?」

 三井はこういう飲み会のときは必ずと言っていいほど男性陣に囲まれる。いかにも女の子な外見は十人に聞けば八人くらいは可愛いというだろうし、なにしろ人当たりの良さが受けがいいようだった。もちろん友人ばかりの集まりだから、大抵はちやほやしたいだけなのだが、中には割と本気で狙っている者もいることは琴美の耳にも届いていた。けれどちやほやされていた本人は少しだけ不満の声を上げて、サンダルを履いていない方の足を柵の隙間から出してぶらぶらさせていた。

「もうサービスすんの疲れた。ことみんはいなくなっちゃうしさ。あたしを置いていくなんて、誰かにとられちゃってもいいんですか?」

 どれだけ拒絶しても彼女だけが呼び続ける琴美の愛称を口にして、三井は琴美に笑いかける。からかっているような、茶化しているような、そんな笑みだ。その無防備な笑顔が琴美の幼い日の記憶を引きずり出す。

 遠い遠い日の記憶。幾つ頃のことなのか、その子の名前はなんといったのか、全ては霞がかったように曖昧なのに、その出来事は琴美の頭の片隅にくっきりと刻まれていた。

 おそらくはかくれんぼでもしていたのだろう。幼い琴美はピアノの陰にその女の子と隠れていて、その子はとても楽しそうに琴美に笑いかけていた。その顔があまりに可愛くて、琴美は自分の中に湧き出た衝動のままにその子に口づけた。それは琴美にとってはとてもフツウのことだった。けれどその子はとても驚いた顔をして、それから怯えたようにピアノの陰から駆け出したのだ。琴美は遠ざかっていく背中を、部屋の隅で他の友達の輪の中で泣いている姿を、ピアノの陰から茫然と眺めた。その子は二度と琴美に近づかず、そうして琴美は自分の中ではフツウの衝動がしてはいけないことなのだと知った。

 それからは琴美はそんな衝動が起きても我慢するようになった。成長するに従い、自分の中のフツウが他人のフツウとは一致しないことを知り、ますます我慢しなければと抑えつけるようになった。そうしてそれが琴美のフツウに取って代わるようになった。けれど我慢するのはとても労力がいり、しかも挙動不審になることもしばしばだったから、衝動そのものが起きないような方法をとるようになったのだった。好きになりそうな人とは物理的にも心理的にも距離をとり、一定のところからは踏み込まない、踏み込ませないようにするというのがそれだ。

 そうやってこれまでずっと過ごしてきたのに、今琴美に笑いかけている友人ときたら、琴美がどれだけ距離をとろうとしても、まるで首根っこを引っ掴むような強引さで平気で踏み込んでくるのだ。とはいえ、琴美も長年衝動を抑え続けてきた身である。そんなに簡単には衝動に流されることはない。こんな笑みを向けられたところで、鼻で笑って流すくらいの芸当はできる。

「とられるも何も、いつからあなたは私のものになったのよ」
「一目あったその日から?」
「恋の花咲くことはなかったねえ」

 琴美がふざけた調子で一笑に付せば、三井は可笑しそうにくすくす笑う。

「そうかー、咲いてなかったかー」

 三井の楽しそうな呟きに、小さな重い衝撃音が重なる。音のした方を見れば、さっきの車がひん曲がったまま駐車スペースに収まっていた。いや、収まりきってはいなかった。それでもピピッと車のドアがロックされる音がして、オレンジ色の光が点滅する。──あれでいいのか、と呆れながら琴美がビールを喉に流しいれていると、横から「ほんとにへたくそだね」という声が聞こえてきた。それに──ね、と同意の声を上げるとまた風が流れてきて、三井は盛んに二の腕をこすっていた。

「ほら、中入んなよ。私もこれ飲んじゃったら戻るし」
「えー? ことみんが風除けになってくれたら平気だよ。懐であっためて頂戴」

 親切心を起こして助言しても、返ってくるのは琴美の衝動を煽るような冗談ばかり。はあ、と溜息をついて向き直る。

「『ことみん』ってのやめてってば。ついでに私にそういうのを求めるのもやめてください。高木君辺りに頼めば喜んでやってくれるよ?」

 自分には不似合いだと思っている愛称と、衝動を煽る冗談を拒絶して、琴美は三井を割と本気で狙っていると聞く友人の名を出した。そうすることで突き離す。距離をとる。けれど返ってきたのは予想外の言葉。

「えー、だってあたし男の人にそういうの求めてないし」
「へ?」

 思わず漏れた琴美の声は酷く間の抜けたもので、三井はますます可笑しそうな顔をしていた。

「ここだけの話、あたし男の人に興味ないんだ。女の人がいいの」

 驚いた。その発言内容もさることながら、そういう発言をしていることそのものに琴美は驚いた。──言ってもいいの? 拒絶しかされない衝動は我慢するしかないのではなかったか。そんな衝動を抱えていることは知られてはいけないことではなかったのか。琴美の中のフツウがぐらぐらと揺らいでいく。言葉も出ない。

「あれ? 琴美、引いてる?」

 軽い調子で尋ねるその声は、少し驚きの色をはらんでいて、琴美はそれで我に返る。

「いや、引いてないけど、その、びっくりした。なんて言うかその……」

 自分の中で起きるフツウの衝動を、他にも感じている人がいた。それも目の前に。──なんだ、そっか、なんだ。遅れてきた安堵感に、琴美の表情が緩む。

「うん……びっくりした」

 緩んだ表情のまま三井の揺れる髪を見つめ、同じ言葉を繰り返す。それを覗き込んでいた三井はしたり顔で──ふふん、と笑った。

「引いてないんならよかった」

 そして三井は上機嫌で足をぷらぷらさせている。琴美は上機嫌でビールを喉に流し込んで、思いつきを口にする。

「三井が女の人が好きだって、みんな知ってるの?」
「そんなわけないじゃん。あたしだってそんな軽率じゃないし。なんとなく琴美は大丈夫だろうなと思ったから言ったの」
「なんとなくって?」
「感ですよ。嗅覚です。当たってたでしょ?」

 確認されて琴美がちらりと隣の表情を窺えば、何もかもお見通しと言わんばかりの目がこちらを向いていた。確かにその通りなのだから決まりが悪い。きっとこの友人は琴美も女性に惹かれることを見抜いている。もしかしたら、今現在当の本人に惹かれているということも。だから答える代わりに、ふいと顔を逸らした。隣からは楽しげに「いぇーい、せいかーい」と茶化す声がする。それから

「で、それを踏まえた上で相談なんだけど」

 そこまで言って、言葉を切る。声色は変わらずとも、突然『相談』という言葉が飛び出して、尖らせていた唇もそのままに琴美は首を巡らせた。

「風除けになって。寒い」

 ふざけた様子ではあるものの、カーテン越しの明かりで照らされた二の腕には鳥肌が立っていて、切実さを訴えていた。琴美はその鳥肌を見ながら、先ほど提示された風除けの方法を頭に描いてみたけれど、それは長年衝動を抑え続けてきた琴美にはいささか刺激が強すぎた。だから琴美は片足立ちのまま持っていたビールの缶を下に置くと、着ていたパーカーを脱いで寒そうな友人の腕に押し付けた。その様子を黙って見ていた押し付けられた方は、本当に可笑しそうに──あははと笑って、それを受け取る。

「ありがとう、ことみん優しいなぁ」

 からかうような、茶化すような口ぶりで、三井はパーカーに腕を通す。けれどその表情は本当に嬉しそうで、華やいでいて、琴美はそこから目を逸らさずにはいられない。手すりに肘をついて拾い上げたビールの缶に口をつける。

「だから『ことみん』ってのやめてってば」
「えー? かわいいじゃん『ことみん』」
「やめてってば」
「照れることみんかわいいよ、ことみん」

 からかいながら肩を押し付けられるその距離は、これまで琴美が保っていた距離を明らかに踏み越えていたけれど、口を尖らせるだけで肩を押し付けられ続けた。ビールが空になっても、サンダルを履いている側の足が疲れても、部屋の中から他の友人に声をかけられるまでそうしていた。沸き起こる衝動は数あれど、そうしていることが、今の琴美には精一杯。

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