春待ち人

 暗闇にドアの隙間分の明かりが差しこみ、そしてすぐに更なる明かりが灯される。冷たく冷えた部屋は暖かみのある光に照らされて、それまでの静寂はいともたやすく破られる。どさりと重いものが降ろされる音。そして久方ぶりに帰還した部屋の主の間の抜けた声。

「たっだいまーっと。うへえ、さぶいさぶい」

 ぽいぽいとブーツを脱ぎ捨てた彼女は、慌ただしく部屋を突き進み、ファンヒーターへと一直線。スイッチを入れるとその前にしゃがみ込み、手袋をした手をこすり合わせながら「早く点けー早く点けー」と念じ出した。
 その丸っこい後姿を、遅れて入ってきたこの部屋のもう一人の主は呆れ顔を浮かべて眺めていた。
 玄関のドアを丁寧に閉め、鍵をかけた彼女は、ブーツを脱ぐと先に脱ぎ散らかされていたものと合わせてきちんと揃えてから中に入る。無造作に置かれた荷物をとりあえず隅に寄せ、身に着けていた防寒具を一つ一つ外しては片付け、そしてコートをハンガーに掛けながら、ファンヒーターの前の丸っこい背中を見やった。
 コートも手袋も帽子もマフラーも身に付けたままだというのに、終始「さぶい」か「早く点け」を呟き、唸り続けている。まるでそのどちらかを口にしないと呼吸ができないかのようだ。鬱陶しいことこの上ない。

「ちょっと、寒い寒いうるさいよ。余計に寒くなるでしょ」

 苛立たしげな口調で苦情を申し立ててみたものの、相手はまったく振り返りもしない。

「寒いから素直に寒いと言ってるだけじゃん。このファンヒーターによると、今の室温は9℃。確かに外気温よりは暖かいかもしれないけど、十分寒いと言っていい温度だよ。大体、寒いって言ったところで実際に室温が下がるわけじゃないでしょ。寧ろ室温より高い息を吐き出している分、上がってるはずなんだ。それなのに余計に寒くなると感じるってことは、弥生は実際の室温から感じられるはずの寒さから目を背けていたんだ。自分を誤魔化していたんだよ。弥生は早々に上着を脱いだけど、本当はあったかい格好したいのを無理に抑え込んでたんじゃないの? それがようやく今の自分の格好が実際の感覚にそぐわないと気付いた。それでいいんだよ。間違ってない。それが実際の気温に対する、素直な反応。弥生はどうも自分を押し込めるところがあるからね。しかもそのことに自分で気づいてない。私は「寒い」と何度も言うことで、弥生の本当の欲求に気付かせてあげたんだよ。感謝して。ああ、さぶいさぶい」

 どうやら他の言葉でも呼吸ができたらしい。ファンヒーターに向かったままでふるわれる長口舌を、弥生は手に息を吐きかけ、右手の中指にできたささくれを気にしながら聞いた。そしてまた「さぶい」に呼吸音が変わると、腹の底からの溜息をつく。

「あぁ、鬱陶しいわあ、この人」
「鬱陶しいってちょっと! それが久しぶりに返ってきた私に、部屋に入ってまだ五分もしないうちに言う台詞なの?」
「鬱陶しいから鬱陶しいと言っただけじゃん。自分に素直になっただけだよ」

 先の長広舌を逆手にとって言い残し、別室へと向かう。その背中を「きぃー! にくったらしい!」という癇癪が追いかけた。口角の持ち上がった弥生の唇から僅かな笑みが漏れる。

「ねえ、いい加減コート脱ぎなよ。ほら、あんたの半纏、クリーニングに出しといたから」

 自身も半纏を羽織って戻った弥生は、赤い半纏をぽいと投げやった。その半纏の持ち主は、待ちわびた温風に手足をかざしているところだった。手袋を外しただけで、後は先ほどと変わらない格好のままだ。温風の影響か、帽子の天辺に付いたポンポンがさわさわと揺れていた。腰のあたりに柔らかくぶつかった室内用の防寒着を確認すると、振り返ってしなを作る。頬の横に合わせた手を添え、にっこり微笑んでみせたりなんかして。

「やだー、ありがとー。弥生ちゃん、ちょーやさしー。きゃー素敵ー」
「ほほほ、そうでございましょう? もっと感謝して、褒めちぎるといいよ」
「もう、ホント、気が利くもんなぁ。この溢れんばかりの思いやり。なかなか真似できないよなぁ。え? この脱いだコートも片付けてくれちゃうの? いやあ、悪いねぇ。いいの? ありがたいなぁ」

 もういいだけわかりやすく弥生を持ち上げながらコートを脱ぎ始めると、ちゃっかりその片づけも頼み込む態勢に入る。ファンヒーターから離れたくないからか、片付けが面倒だからか。きっとその両方だ。ええ、と弥生が苦れば、

「お願い」

 コートに帽子とマフラーと手袋も添えて差し出し、止めとばかりに満面の笑みでかわい子ぶって小首を傾げる。これには弥生も思わず吹き出してしまって、いい歳して、と苦笑しながらもそれを受け取ってしまう。甘いと自覚しながらも、今日ぐらいはと諦める。そうして防寒着一式、きちんと片づけていると、後ろから「んぐぅ」と唸る声がした。何事かと振り返れば、赤い半纏を羽織って身をよじっている人がいた。

「半纏、異常に冷たい。じんわり冷える。罠だ!」

 半纏は年末にクリーニングから戻ってきて、そのまま寝室に置いたままになっていた。寝室には暖房器具がないから、一週間近く寒気にさらされたままだったことになる。よく冷えていたというのにも得心がいく。けれど、そんなことは弥生の意図したことでは決してない。顔をしかめ『罠』だと言う訴えを笑い飛ばす。

「お茶入れてあげるから、我慢しなよ。お土産、例の饅頭でしょ?」
「うん、そう。しかしちっともあったかくならんな。お尻冷えてきたんですけど。ちょっとそこの座布団取って」

 指差された座布団を「ほい」と投げると「サンクス」と受け取る。そんなやり取りをしてから、弥生はこたつに電源を入れ、電気ケトルに水を満たし、給湯スイッチを入れる。その僅かな間も、弥生の後ろからは「さぶい」と唸る呼吸音が続いていた。

「そんなに寒いかな?」
「寒いよ。南国帰りにはつらいよ。早く春にならんかなー」

 ファンヒーターの前で膝を抱えて丸くなった赤い塊が、悲壮感漂う声を作ってそう言う。それをふうんと聞き流し、部屋の隅に置かれたままになっていた荷物のうち、紙袋を取り上げて、その中の菓子折りをこたつの上に置く。以前、弥生一人でほとんど食べてしまったことがあってから、この饅頭がお土産の定番になっている。
 ここよりずっと南にある土地の銘菓。素朴な甘さが後を引くこの饅頭と、冗談が好きな彼女を生み出したその場所に、同居人は行っていた。駅で出迎えた弥生と顔を合わせてからは、くだらない話しかしていなかったけれど、土産物を出したついで。そろそろ土産話を聞くことにした。

「久しぶりの実家はどうでした?」

 急須と湯呑を用意して、こたつに足を入れた弥生が問う。返ってくるのは苦り切った声。

「どうもこうも、ご馳走食べさせてもらえたのは良いんだけど、友達から親戚から、会う人会う人、結婚しないのかとか、付き合ってる相手はいるのかとかそんなんばっかでうんざりだったよ」
「なんて答えたの?」
「うん? まあ……」

 赤い塊はもぞもぞ蠢いて、抱えていた膝を離し、胡坐に座り直した。視線はファンヒーターに向けられたまま。そしてしばらく後に――適当に誤魔化した、と力なく答えた。
 急須にお茶の葉を入れていた弥生が、赤くて丸い背中をちらりと見やる。何をそんなに申し訳なさそうにするのか。

「別にそれでいいと思うよ。もし、親御さんとうちみたいなことになったら、あんた泣くでしょ」

 弥生の言葉でファンヒーターに向けられていた顔がちらりと振り返るのと、電気ケトルからお湯を沸かし終えたことを知らせる音がしたのは同時だった。ケトルを手に取った弥生は、急須にお湯を注ぎ、蓋をして、菓子折りの包装を解きにかかる。

「ほら、お茶が入りますよ」

 丁寧にはがした包装紙を四角く折りつつ、ファンヒーターの前で置物のようになっている人に呼びかける。その気配が近づくのを待って、包装紙を傍らに置いて、弥生は湯呑に緑茶を注いでいく。部屋に暖かな蒸気と青い香りが漂った。

「そういや、今年もお母さんから餅届いたの?」

 その隣から箱の中の饅頭に手が伸びたと同時に問われたのは、不在中のこと。これも毎年恒例になっている届け物のこと。もう何年も帰っていない、弥生の実家から送られてくる。

「うん。今年もたくさん来たから、思う存分食べられるよ」
「やったー。弥生んちの餅、おいしいんだよね。市販のとは全然違う」
「そりゃあ、米が違いますからな」
「さすが米どころだよねぇ。いつもおいしくいただいてますってお母さんに言っておいて」

 軽い調子で伝言を頼まれ、弥生は言葉を詰まらせ、顔を曇らせる。そんなことはお構いなしに湯呑を手で包み、ふうふう息を吹きかけている隣を窺う。
 父と弥生の間でおろおろするばかりだった母が、どんな風にして荷物を送っているのか、弥生は知らない。父の目を盗んでしているのか、黙認されているのか。同封されている手紙には、ただ、餅の出来についてだけが記されている。そんな風に送られてくる餅を、隣で寒さに震えているこの人は、毎年おいしいおいしいと言って何個も食べる。母に連絡する唯一のきっかけとなっている餅を、もう送ってこなくてもいいと、そう言って切り捨ててしまうにはしのびない。
 わかった、と小さく呟いて、お茶をすする。その弥生の答えには、うん、とよくわからない返事が返ってきた。けれどそれは、神妙になりかけた空気を上手に断ち切って、ところで――と後に続いた言葉がその場の空気の温度を一度上げる。

 ところで――

「ファンヒーターの設定温度、上げてもいい?」
「だめ」
「返事が早いよー、ちょっと考えてよー」
「即決即断が私の持ち味ですから!」

 弥生が切って捨てると、ぶうぶうと口を尖らせる。しばらくそれを聞き流していた弥生は、一口お茶をすすると、突然にやりと笑う。隣ににじり寄り、赤い半纏を羽織る肩に手を回す。そのせいで手元のお茶がこぼれそうになったものだから、ちょっと、と非難の声が上がった。けれど弥生はその声に耳を貸さず、引き寄せたその耳元で――

「お姉ちゃん、そんなに寒いんならおいちゃんが温めてやろうか? ん?」

 低めた声で囁きかける。途端、盛大に笑い出した肩が小刻みに揺れた。

「なんだこの変質者。おまわりさーん、こっちでーす」
「へっへっへ。いくら叫んだって誰も来やしねえよ。観念しな」
「嫌だわ。あたいが魅力的だからってそんないきなり……」
「良いではないか良いではないか。このように寒いときには人肌で温めあうのが一番ぞ。ほれほれ」
「いけませんわ、お代官様ー。あーれー、ご無体をー」

 笑い合いながらもつれ合い、こたつの上の湯呑がかたかたと揺れる。二人して床をごろごろ転がって、弥生がニットの裾に手を掛けようとしたところで、

「おいこら」

 額に一撃、チョップが入った。あいて、と言う呟きと共に、二人の動きが止まる。

「本当に脱がしにかかるんじゃない」
「あら、振られた」

 覆いかぶさっていた弥生の下を抜け出し、身を起こすのを、弥生は横になったまま見送った。落ち着いてみると、意外と息が上がっていて、体を起こすのが億劫になった。笑い混じりの苦情をそのままで聞く。

「寒いって言ってんのになんで脱がそうとするかね。まったくお盛んでいやんなっちゃうわね、この人は」
「内からこみあげる己の欲求に、ちょっと素直になってみただけなのに……。あ、着衣のままの方が良かった? それもまた趣があってよろしいですわよね」

 おどけた弥生の台詞に続いたのは、ぎゃははという品が良いとはとても言えない爆笑。久しぶりにその声で部屋の中が満たされる。

「最低! この人最低!」

 腰の辺りをばしばしと叩かれている弥生も笑いが止まらない。腹が痛くなるほど笑って――ああ、好きだ、と安堵する。そして、はあ、と息をついて笑いを区切ると、身を起こし、二人並ぶようにして座ってから、饅頭に手を伸ばす。

「なんかちょっとあったかくなったね」

 僅かな動悸と息切れを感じながら弥生が言えば、

「誰かさんが無駄な運動させやがったからね!」

 憎々しげな回答が返ってくる。またしても弥生があははと声を上げて笑うと、隣でお茶をすする音がする。部屋は一人でいるときよりもずっと暖かい。それは、ファンヒーターの温風のおかげじゃなく、こたつの赤外線のおかげじゃなく、半纏の綿のおかげでも、湯気を立てるお茶のおかげでもなくきっと――

「つーか、疲れた。長旅で疲れてる人に何をさせるんですか、まったく」

 そんな呟きをする、久しぶりの帰還を果たした人に掛ける言葉は決まっている。はいはい、ごめんね、なんていう適当な謝罪を済ませた後にそれは続く。口の中の饅頭はお茶できれいに流しておいて、顔を覗き込んでみたりなんかして。可能な限り歓迎の意を表したような声色でもって告げよう。

「おかえり、ハル」

 そしてめったにない殊勝な態度に目を丸くされたりするのだ。それはきっと彼女の名の示す季節のように、また弥生を暖かくするに違いなかった。

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