不安

 立ち並ぶ木々の向こう。地に響く轟音と光の列が通り過ぎて行くのを、彼女は眺めていた。

「あ、また乗り過ごした」

 言葉とは裏腹に嬉しそうに笑う唇が街灯に照らし出されている。話すたび、呼吸をするたびに、マフラーに埋もれそうな彼女の口元からは白いもやが漏れ出た。

「あーあ。また三十分待ちか」

 吐く息が白いのは私も一緒で、大きく息を吐き出すと、それだけ大きくもやが広がった。ひなびた駅の近くのひなびた公園はいつでもひと気がなく、電車が来る前後に近道をする人が通るだけだ。それもこの時間ともなるとほとんどない。ただ冷たい風が通り過ぎるばかりだ。

「ごめんね。先に帰ってもいいよ」

 マフラーの奥で白いもやを漏らして彼女が笑う。

「いや、いいよ」

 私がこう答えることはわかりきったことなのに、彼女は電車を乗り過ごすたびに同じ事を言う。同じ事を言うくせに腰を上げることはしない。私も私で彼女の乗る電車の時刻は把握しているくせに、その時刻が近づいても伝えることをしない。

 とは言え、日が沈んで気温はみるみる下がっていく。『石の上にも三年』という言葉はあるけれど、木製のベンチの上に二時間半座っても、気温が下がってしまっては温かくなることなどありはしない。ましてや短いスカートは膝や腿を寒気から保護する気などこれっぽっちもないのだから尚更だ。

「しかしまあ、寒い。息が真っ白だよ、ほら」

 空に向かって息を吐きかけると、思っていたより白く暗闇に映えた。彼女は楽しげに──本当だと笑って、同じように空に大きく息を吐きかけた。

 私が作り出した消えかけのもやに、彼女が作り出したものが重なる。ひとつになって、消えていく。

「いい加減帰らないと、二人とも風邪ひいちゃうね」

 彼女との間にある冷たい空気を押し出そうと、くっついていた腕を更に強く押し付けた私に、彼女は言った。

「本当に。次のは乗り過ごさないでよ?」

 思わず笑ってしまってから、私は肩でぐいと彼女を押す。

「時間になったらちゃんと教えてよ?」

 またしても笑う彼女は肩でぐいと私を押し返す。笑うたびに重なり消える、白い息。この寒い中でも体の中は温かいことの印。

 それを彼女は自らの手に吐きかける。ずっとポケットに突っ込まれていた手が白いもやを受け止めた。

 冷たそうにしているその姿が不憫で、私は自らのコートの下、制服の内ポケットを探った。常にそこに入れっぱなしにしてあるカイロは、けれど既に温かさを失っていた。袋の中でところどころにでき始めたごつごつとした塊は、確かな時間の経過を訴えていた。

「どれ、貸してみ?」

 カイロを手渡す代わりに、擦り合わされていた彼女の手を取る。両手で包み込むと酷く冷たかった。けれどそれも一瞬のこと。すぐにそうとは感じられなくなっていく。

「そっちの手も冷たいから、あんまり暖かくないんだけど」

 彼女はそんな風に笑って、せっせと擦ってやっていた私の手の中から自らの手を引き抜く。と同時に、私の首元へと両手を押し当てた。

「うひぃっ!」
「はぁ、あったかい」

 あまりの冷たさに首をすくめ、身悶える。悶える私を逃がすことなく、彼女はいかにも楽しそうに笑っていた。笑って押し当てる手を何度もひっくり返し、まんべんなく温め続けた。そして私が悶える様子と温かさを存分に堪能してから、ようやく手を離した。

「なんて事してくれてんの!」

 私が怒りをあらわにしても、彼女のその表情に変わりはない。

「いやぁ、あったかくなったよ。ほら」

 言って、今度は私の頬に手を当てる。さっきまであんなに冷たかった手は、寒気にさらされた私の頬には暖かく感じられた。その温もりが彼女のものと言っていいのか、私のものと言っていいのかはわからない。ほのかに温かい手は私に熱を伝え、幸福感を与える。

「そうね。よかったね。私は鼻水出そうだけどね」

 私が苦々しく言えば、

「あ、光ってるのはそれか」

 彼女は笑って私の鼻を覗き込む。

「覗かないでください。えっち」

 どちらかが言葉を発してはどちらかが笑う。そのたびに私たちの口からは白い息が漏れ出て、漏れ出たそれは混じり合う。私たちの体内にあったときは確かに別々であったものが、ひとつになっては消えていく。

「『えっち』って。あなたには言われたくないんですけど」

 どちらのものともわからない白いもやは消えるよりも早く、新たに生み出され、次第に色を濃くしていく。

「はて、何のことやら。とんと心当たりがございませんな」

 狭い隙間に漏れた息の、その温もりと湿り気を感じとれたとき、彼女と私の鼻が擦れ合った。

「そんなことを言うのはこの口か?」

 白い息を吐き出し合う唇は重なり、その内にある温もりを直に伝え合う。そうして互いの体温に差がないことを確認する。じっくりと確認して、唇を離す。

「ねえ、そろそろ行った方がいいんじゃない? 電車来ちゃうよ」

 離れればわかる、私たちの間に入り込むはっきりとした冷たい空気の存在。それを少しでも感じたくなくて、息のかかる距離から抜け出せない。彼女の手が私の頬をなでる。

「うん。また明日ね」

 頬をなでた手が戻って行き、白い息が遠ざかる。寒気にさらされた唇が酷く冷えて、身震いした。

 二人の間にある空気は冷たいから。冷たい空気はいつでも私たちを隔てようとするから。いつでも私たちは互いの中の温かさを確認せずにはいられない。その温度に差がないことを確認せずにはいられない。

「うん。また明日」

 今日も、明日も、明後日も。私はこの先何度もそれを繰り返し確認し、安堵するのだろう。

 終

inserted by FC2 system