その人に向ける顔

 重い足を引きずって、ようやく自宅に辿り着いたというのに、そこにはあまり顔を合わせたくない人物が佇んでいた。それに気づいたときには、既に鞄から取り出した鍵が手の中でかしゃりと音を立てた後だったので、足を止めたところで手遅れだった。私はもう観念するしかなかった。案の定その鍵の音で、ドアにもたれて携帯をいじっている人物は顔を上げた。――おかえりなさい、とお決まりの薄ら笑いを浮かべる彼女に、私はどんな顔をして返事をしたらいいのかわからず、結果彼女と同じような薄ら笑いを浮かべることにした。

「こんな時間に何してんの」

 止まってしまった足を前に出す気にもならず、鍵をちゃらちゃらと鳴らして尋ねれば、彼女は持っていた袋をひょいと持ち上げてみせる。

「晩御飯を作りすぎちゃいまして」

 白い半透明のビニール袋。四角い形を浮き彫りにしているのはタッパーだろうか。

「ありがと。いただきます」

 足を前に押し出して、ドアの前までたどり着く。ちょいちょいと手の甲で払う素振りをすると彼女はようやくドアから体をどけた。鍵を開けて──遅いから気を付けて帰りなよ、なんて先輩風を吹かしてみてから、さっきの袋を受け取ろうと手を差し出した。たぶん自然にできたはず。それなのにこいつときたらまるで袋を渡そうとしない。携帯をジーンズのポケットにねじ込みながら、私のことを見上げてくるだけだ。その顔には相変わらず薄ら笑いが貼りついている。

「甘もの買って来たんで一緒に食べましょう」
「一緒にって。私、バイト上がりでお疲れなんですけど」
「疲れたときには甘いものが良いっていいますし、ちょうどよかったですね」
「そうだね、じゃあ甘いものはいただきます」

 我ながら『いただくものはいただくが、あんたはさっさと帰れ』という意思を上手く表現できたと思う。けれどビニール袋に手を伸ばしても、右手から左手に持ち替えられることで袋は遠ざけられた。いらっとした。あんたはこれを渡すために来たんじゃないのか。

「何?」
「中までお持ちしますわよ」

 芝居がかった物言いで、芝居がかった微笑みを携えて、彼女は一歩分距離を詰めてくる。距離が詰まると彼女の髪が少し湿っていることがわかった。そこからシャボンの甘い匂いが香っている。そんなことに気が付いてしまって、私はもう、薄ら笑いさえ浮かべることもできなくて、やっぱりどんな顔をしていたらいいのかわからなくなってしまった。だから見上げてくる彼女からついと目を逸らし、使い終わった鍵を見つめ、手の中で弄んだ。もう完全に不自然な仕草でしかなくて、私の口からは自然と溜息が漏れ出ていった。

 そんなとき、かつかつと誰かの足音が聞こえた。人が来る。彼女はさっきから一歩も引く気配はない。

 玄関先で押し問答なんて、あまりにも恥ずかしい。仕方がない。こういう強引な訪問を今まで散々してきた私が、彼女を咎められるはずもないのだ。適当にいつも通りを装って相手をして、早々に帰ってもらうことにしよう。観念してドアを大きく開け、中に入る。後ろからは――お邪魔しまーす、と呑気な声。人の気も知らないで、と思うけれど、知られたら知られたでなかなかに決まりが悪い。

 私が荷物を片付けている間に、低いテーブルの上には彼女が持って来たタッパーとプリンが並べられていた。彼女の料理の腕は今までに散々晩御飯をたかってきたから良く知っている。タッパーの中身に期待を込めて蓋を開けかけると、胡坐をかいてビニール袋を畳んでいた彼女から声がかかる。

「肉じゃがです。タッパーは洗って返してくださいね」
「あ、うん。わかった」
「我が家の秘伝、とくと味わってくださいましね」
「あー、はいはい。いただきます」

 まだまだ暑いこの季節。傷んでしまわないように、早速冷蔵庫にしまった。そしてテーブルに戻る。座りかけたところで立ち上がる。

「スプーンとってくるわ」
「お店でもらってきたから大丈夫」

 一歩踏み出す間もなく言われ、テーブルの上をよく見ればプリンの横にはプラスチックのスプーンが添えられていた。落ち着いていないことを指摘されているようで決まりが悪かったが、「あ、うん」とだけ返事をして、もう一度座りなおした。

「いただきます」
「どうぞおあがりください」

 プリンの蓋を開け、ビニールの袋の中からプラスチックのスプーンを押し出す。既に食べ始めている彼女が左隣にいることに気が付いて、習慣とは恐ろしいものだと考える。この配置はあまりにもいつも通りで。そのいつも通りの配置はあの時も変わりなかったわけで。ようするに、今の状況があの時を髣髴とさせてしまうわけで。そうするとプリンが入っていく唇なんかを盗み見てしまったりするわけで。せめて何か話してくれればと思っても、彼女はプリンに夢中でろくに口を利かない。無理矢理上り込んできたくせに、何をしに来たんだ、と思ったけれど、よく考えてみれば二人でいるときの私たちはいつも、特に用もなく、ろくな話もせず、ただだらだらとしていただけだった。いつもと違っているのは私ばかりで、彼女はまったくいつも通りなのだ。なんともむかつくことに。本当にむかつくことに。あんまりむかついたから、むかつきついでにプリンを一気にかき込んだ。とろける触感が喉にまとわりつきながら過ぎて行き、大変美味しゅうございました。

「ちょっとちょっと先輩、もうちょっと味わって食べてくださいよ。もったいない」
「私は今、プリンを飲みたい気分だったんだから仕方がないよ」
「せっかくちょっとお高いの買ってきたのに」

 苦笑いを浮かべる彼女はいつもよりもゆっくりと匙を動かしている気がした。まだ半分くらい中身が残っているところを確認してから、プリンをかき込んでしまったことを後悔する。こんなに早く食べ終わってしまっても、何をしていたらいいのかわからない。いつもはどうしていたっけ。そう、だらだらしていたんだ。だらだらするって何してればいいんだっけ。とりあえず、食べ終わったプリンの容器を捨てに行こう。容器を念入りに洗ってみたりなんかもして。今の季節、すぐ臭くなるからね。そうやって出すのがルールだって市の広報に書いてあったしね。

 そんな作業を終えて戻ってみると、客人のプリンの容器も空になっていたからそれも同じようにする。それが終えてしまうと、またどうしたらいいのかわからなくなった。壁にかかった時計を見れば、短針は10と11の間を指していた。彼女はその辺にあった雑誌をめくっていたけれど、もう私は寝るということにして帰ってもらうことにした。

「さて、食べるものも食べたし、私はもう眠いから帰れ」

 立ったままそう言えば、ぱらぱらと見るべき記事を探すようにページをめくっていた彼女の手が止まる。視線はそのまま、いつも通りの軽薄な声が問いかけてくる。

「先輩、先輩はこないだのこと、なかったことにしたいんですか」

 ――こないだのこと。この前、彼女の部屋であったこと。

 夕日に赤く染まった部屋が脳裏に浮かぶ。

 私が何の予告もなく彼女の部屋に上り込むのも、彼女が迷惑そうな顔で出迎えて、お茶を淹れたっきりテスト勉強を始めて私を構いもしないのも、いつもの通りだった。だけどいつものその空気が、あまりにも心地よくて、たぶん、いつも以上に赤い空気がそれに拍車をかけて、私は彼女に好きだと言った。お茶が美味しいねと言うときのような、そんな感じの声色だったと思う。そんな何気ないことのように言うことで、自分の真意が誤魔化せればいいという目論見だった。そんな私に彼女は冗談みたいにキスをした。真意の読めないキスだったのに、それをまともに受け止めたことで私の真意は知れてしまったに違いなかった。そのことが悔しくて、それでも嬉しいと感じている自分が悔しくて、私はまるで十代の乙女のように涙してしまった。その涙を指で拭った彼女は『私も好きですよ』と言った。返事を返せない私に、何度も何度も繰り返した。その声はいつもの軽薄さを失っていたように思えた。

 彼女が『なかったことにしたいのか』と訊いているのは、間違いなくそれらのできごとだ。

「どういうこと?」

 確かにこいつに涙を見せるなんて不覚もいいところだけれど、それにしたってなかったことになんてできるわけがないじゃない。あんたといると始終こないだのことが頭をめぐるんだよ。乙女全開になるんだよ。ああ、なんか腹が立って来た。

「だって、先輩あれからわたしのこと避けてるし」
「避けてないよ」
「でも二人だけにならないようにしてる。……やっぱ無理でした?」

 無理ってなんだ。『やっぱ』ってなんだ。なんかちょっと笑ってるし。ほんと、むかつく。

「なんでそんなこときくの」
「なんでって、だから」
「なかったことにしてって私が言ったら、そうすんの?」

 理由を訊いたら余計に腹が立ちそうだったから別の質問を投げつける。そうしたらやつは黙ってしまって、困った顔をしていたのが段々と落ち着き払った顔になっていく。それとは対照的に、私のはらわたは煮えくり返っていく。

 こいつはいつもこうだ。まるで自分がなんでもわかっているみたいな顔をして、実はまるでなんにもわかっていないということを知らない。避けてるだって? ふざけんな。あんたがどうだか知らないけど、こっちは女の子を好きになるのも、女の子に告白したのも、女の子と真面目なキスをしたのも初めてなんだ。ぞんざいな扱いに慣れ親しんできた後輩とそういうことになったら、ちょっと戸惑ったりするのも仕方ないじゃないか。どんな顔してたらいいんだかわからなくなるのも当然じゃないか。いい歳こいて乙女気取ってんだ。照れてんだよ。言わせんな、恥ずかしい。なかったことにするだって? 『大したことじゃないですし、私は別に気にしてませんよ』とでも言いたいのか、こら。こちとら大したことすぎて、日常生活に支障をきたしてんぞ、なめんな。

 そんなことを考えてたら、彼女がまるでどうでもいいことを話すみたいに口を開いた。だからそこから声が出てくる前に遮ってやった。

「馬鹿」
「な」
「あほ、とんま、間抜け」
「なんなんですか」

 目を丸くして、まるで何にもわかっていない顔を見たら余計に腹が立った。こうなったら文句を言ってやらなきゃ気が済まない。

「なんだよ。平気な顔しちゃってさ」

 目を合わすこともろくにできないのは私ばっかりで。

「なんでもない顔しちゃってさ」

 挙動不審になるのは私ばっかりで。

「私の方が先輩だぞ」

 これじゃあ、先輩の威厳なんてひとかけらも残らないじゃないか。ぽすっと肩口に拳を当てたものの、たぶん腹が立ちすぎたのと、いつも一緒にいた後輩がこれっぽっちも私のことをわかっていないことが情けないのとで、泣けそうだった。泣かないけど。

「えーっと。それじゃ、なかったことにはしなくていいってことでいいんですかね?」
「自分で考えれ」

 やつが黙ってこちらを見ているから、顔を背けてやつの右隣に座り、ふん、と鼻を鳴らして頬杖を突いていた。そうしていると――

「なんだぁ、よかったぁ」

 肺の中の空気を全部吐きだしたような溜息と共に聞こえた呟きに振り向くと、彼女がテーブルに突っ伏していた。まるで膨らんだ状態で口を開放した風船みたいだと思った。私の視線に気づいたのか、テーブルの上に投げ出した腕の間からくるりと横を向いた顔がへらりと笑う。

「先輩、私、今日まで結構へこんでましたよ。『冗談でした』で済ますのも無理ってか嫌だったし。昨日なんて一睡もできなかったんですけど、どうしてくれるんですか。責任取ってくださいよ」

 出てきたのはいつもの減らず口。先輩を先輩とも思わぬこの口ぶりに、さっきまで腹を立てていたのも忘れて、私はいつものように口元をほころばせてしまうのだ。

「そんなの知らんよ」

 口元をほころばせた私がそう言うと、彼女はへへへと嬉しそうに笑ってから、腕の中に顔を収めた。

「ねえ先輩。私、今までに何度か女の人のこと好きになってきましたけど、ちゃんと伝えたことってなかったんです。私が好きになった子たちは皆、いい人を探すときに男の人の事ばかり気にしていたから、私の出る幕はないって思って。先輩も前に付き合ってた人は男の人だったでしょ? だから私は今度も伝えるつもりはなかったんです。先輩が好きだって言ってくれて、あんまりにも嬉しくてキスまでしちゃいましたけど、いざそうしてみたら、やっぱり違ってたって思ったんじゃないかって不安だったんです。これからもそう思っちゃうんじゃないかって不安になるんです。自信がないんです」

 軽薄さを失った彼女の声。その声は私が照れくさくてじたばたしていた間、ちっとも平気じゃなかったと切実に訴えていた。平気なように見えたのは、我慢することが彼女の常になってしまっていたから。そうと気付いて申し訳ない気持ちになりかけたところで、またくるりと腕の中から顔がのぞく。

「そんなわけで、たまに優しくしてくださいね」

 軽薄さを取り戻した声はいつものおどけた笑顔と共に発せられた。彼女がこんな顔をした時に私はいつもふざけてみせたから、きっと今もそれを期待しているのだろうと思った。

「はいはい。よーしよしよし、いい子でちゅねー」

 小柄な彼女をからかうときにいつもするように、猫なで声を出して少し湿った短い髪をわしわしとかき混ぜてやる。そうすると彼女はくすくすと楽しそうに笑って、私の手を除けようとする。

「子ども扱いせんでくださいよ」

 いつも通りの返しが来たのが嬉しくて、少ししつこく頭を撫で続けた。くすくす、くすくす。二人で笑った。やっと撫でまわす手から解放されると、彼女は乱れきった髪を直していた。それが終わるとじっとこちらを見ている。なんだか昔飼っていた子犬のようだと思った。

「なんかほっとしたら眠くなってきたんですけど、泊まっていってもいいですか?」
「いやいやいやいや。……いやいやいやいや、それはダメでしょ」

 だって私の家には安いシングルベッドが一つあるだけなのだ。そこでこいつと二人で寝るだなんて、落ち着けるはずがない。私はきっと朝まで寝つけないに違いないのだ。肌が触れ合ってしまうかもしれないそんな至近距離で、一体私はどんな顔をしていればいいんだ。自分でもわかるくらい過剰に拒否すると、こちらを見ていた彼女の口元がニヤリと歪んだ。

「まあ冗談ですけどね。つか先輩、今あらぬことを想像しませんでした?」

 予想通りのからかいの台詞。それを私は先輩らしく冷静にたしなめる――なんてことはできるわけもない。

「あらぬことってなんだよ!」
「いやーん、先輩のエッチー」
「ふざけんな! ばーかばーか」

 見事に乗せられてしまっていることが悔しくて、子ども染みた悪態を吐くも、余計にやにやさせる結果となった。なんとも腹立たしい。ここはひとつ起死回生の一撃を食らわせて、先輩の威厳というものを見せつけてやらなくてはならない。

「考えて悪いか! あんたみたいなかわいい子と同衾したら、辛抱たまらんくなるかもしれんでしょうが。その気もないのに、あんまり無防備に懐くんじゃありません」

 開き直れば、にやにや笑いは固まって、目を真ん丸に見開いて口をつぐんだ。なんてことだ。一矢報いたのは確かだが、こちらも重傷を負った気がする。腹立ち紛れに目の前の呆けた顔に力一杯デコピンを食らわせた。幼少時に何人ものクラスメイトを泣かせてきた私の黄金の中指を食らって、彼女は――痛っ! と叫ぶと額を押さえて悶える。恥ずかしいことを言わせた報いだ。

「とは言え、そういうのはあれよ。順序立ててと思ってるから。今だってあんたといる時どんな顔してりゃいいのかわかんないのに、そんなことになったら覆面して会わなきゃならなくなる」

 額を押さえたまま黙って聞いていた彼女は、しばらくすると――覆面って、と声を上げて笑い出した。それは今の季節暑いだの、通報は余裕だの、一通り笑い転げた後はまた、へへへと腕の間からこちらを覗く。

「先輩、結構古式ゆかしいんですね。でも今のは結構、うん、嬉しかったです」

 今までに見たことのない蕩けたような笑み。――あ、と思った。これがこいつの恋人にだけ見せる用の顔なのだ、と。それが随分可愛らしいものだから、思わず手を伸ばしていた。さっき直したばかりの髪をわしわしとかき混ぜても、今度は私の手を除けようともせず、彼女はくすぐったそうにされるがままになっていた。柔らかで少し癖のある髪をかきまぜ、梳き、撫でて、絡めた。しばらくそうしていると、くすぐったそうな顔をしたままの彼女の手がそっと触れてきた。髪をなぶる手は止まり、互いの目の奥を覗き込む。

「ねえ先輩、好きですよ」

 いつになく可愛らしい後輩は、このときばかりは恋人以外の何ものにも見えなくなった。私は――うん、と頷いて、少し顔を持ち上げた彼女に吸い寄せられるようにして、彼女と自分の唇を合わせた。おそらくは私も恋人に見せる用の顔をしていたに違いなかった。そんな顔をこの恋人に見せることに慣れるのには、たぶんまだもう少しかかるのだろう。だって唇を離して顔を見合わせたら、互いに照れ笑いしかできなかったから。


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