変わるもの変わらないもの

 杉山浩太くん、彼のことを私はスギくんと呼んでいた。私だけでなく彼とある程度親しい人たちは皆そう呼んでいた。人懐っこい笑顔が印象的で、私は彼が悪く言われているのを耳にしたことはない。それは単に私が知らなかっただけかもしれないが、彼の評価と言えば『いい人』『いい奴』というようなものが大多数で、けれど彼自身はそう言われるのが嫌なのだと苦笑いしていたことを私は知っている。私はスギくんと二年、三年と同じクラスになったのだけど、じゃんけんに負けて決まった体育委員で一緒になり、体育祭の準備に明け暮れている間に仲が良くなって、それから付き合うようになった。それが二年の夏のことで、卒業まで続いたのだから、一年半付き合ったことになる。一年半と言えば高校生活の半分だ。思春期から足を洗おうかどうしようかという年頃にしては長続きした方で、周囲からは夫婦的な扱いを受けたものだった。
 そうして高校時代の半分を恋人として過ごしたスギくんと会ったのは、卒業以来のことだから六年ぶりだった。開校三十周年を記念して全卒業生を対象にして開かれた大規模な同窓会でのことだ。それまで同窓会の案内が届いても、帰省のたびに仲の良かった友人たちとは会っていたし、わざわざそのために帰ってくることも億劫だったから出ることはなかったのだけど、今回だけは行く気になった。
 六年間一度も連絡を取り合うことはなかったけれど、それでも多くの人の中でスギくんの姿はすぐに見つけられた。肩を叩いて名を呼ぶと振り向いた彼は「よお、久しぶり」なんて言って、普通にしていたらくるんとまるい目を糸のようにして人懐こく微笑んだ。バスケ部のレギュラーなんだか補欠なんだかわからないポジションにいたあの頃と何も変わらない笑顔。誰もが皆『いい奴』と評したことを納得させる笑顔だ。だから私はあの頃と同じようにしてあれこれと話題を持ちかけて、スギくんを笑わせたり、スギくんの話に笑ったりしたのだった。会話は次から次へと流れるように続いて六年分のブランクなど微塵も感じなかったけれども、それでも確実に六年という月日は高校生だった私たちを少なからず変えていた。

「ね、ちょっと二人で飲みに行かん?」

 一年半付き合っていて両手で足りる程のキスくらいしかしたことがなかったスギくんは、二次会が終わろうかというところでそう耳元に囁きかけた。そんなことをとてもとても自然な仕草でできるようになっていたスギくんを私は少し意外に思ったけれど、ひとりいくらだの、俺のスマホがないだの、純ちゃんがトイレから帰ってこないだのと騒がしい中で、そんなやり取りをしていることに気付いたのは誰ひとりいなかった。ただ隣のテーブルにいた真希が私と合いそうになった目をすいと余所に向けただけだ。だから私は

「いいねえ。行こうか」

 とスギくんに悪戯めいた笑いをニヤッと向けた。スギくんもへへっと笑ってから「よっしゃ」なんて呟いた。それは試合に出られても出られなくても誰よりも勝敗に一喜一憂していたあの頃の彼を思わせた。
 次行くぞと盛り上がっているところから抜け出すときも、やっぱり真希と目が合いそうになった。すいと目を逸らした真希はそのまま知ってる顔の集まった輪の中でにこにこと笑っていた。そうしている真希が私たちのことをみんなに話すことはないと私は知っていた。真希は、あの子は昔からそうなのだ。高校の頃から何も変わらない。おかげで私たちは囃し立てられることもなくすんなり抜け出すことができた。二人でぶらぶら歩いて見つけたのはこじんまりとしたバーだ。二人ともこの地を離れて久しかったし、当時は酒を飲む場所とはまるで無縁だったから賭けのようなものだった。

「感じ悪いとこだったら、スギくんのおごりね」
「なんだよそれ。伊東もここでいいって言ったんじゃん。俺のせいにすんなよ」

 そんなことを言い合いながらも、開けた重そうな木製の扉を抑えたスギくんはやっぱり目を糸のようにしていた。くすくす笑いながら入ると、店内は間接照明を主としているためか薄暗く、古めかしいフローリングはヒールで歩くとごつごつと音を立てた。綺麗に整えられたごま塩の髭をたくわえた人が店主だろうか。カウンターの向こうから、店内に流れるジャズを邪魔しない声で「いらっしゃいませ」と声を掛けてきた。店内をぐるりと見回すと何人かのひとり客の座るカウンターの他にいくつかのテーブルも置かれている。テーブルの一組は女性二人連れが使っていて静かに談笑を交わしていた。

「あっちにしない?」

 どのお客からも距離を置いたテーブルを指差すと、スギくんは頷いて、「二人なんですけど、テーブル、いいですか?」と店主に尋ねた。お好きなところへどうぞ、と店主は微笑み、二人して席に着くと、続いてメニュー表と共にナッツ類の乗った小皿が真ん中に置かれた。

「言っていただけたらメニューにないものでも作りますから、ご遠慮なくどうぞ」

 穏やかに言い置いた店主はそのままゆっくりと踵を返し、カウンターに戻る間際、すっと目を上げたかと思うと進路を変えた。なんとなしにその方向を見るともうひとつのテーブル席で女性のひとりが小さく上げていた手を下ろすところだった。歩み寄った店主は空になったグラスを下げつつ女性の言葉に頷いている。へえ、と思っていると「決まった」とスギくんが呟いた。視線を戻せばスギくんはメニューの一隅をとんと叩いて示した。スギくんはこういう時に悩まないのだ。

「俺、ジントニック」
「あー……、じゃあ私モスコミュールにしておくわ」
「なに、その『仕方ない』みたいな言い方」
「いえ、そんなことは、メッソウモゴザイマセンヨ」
「好きなの頼みんよ」
「えーだってここで私がウィスキーロックでとか言ったらバランス的にさあ……」
「なんだそのバランスって……。つーか二次会の時も思ったけど、伊東、飲むよなあ」
「酒は私の血です」

 それやべえ。スギくんはくっくと声を殺して笑って、それから「ウィスキー飲みんよ」と目を糸にするものだから、遠慮なく飲ませていただくことにした。私が頷くのを見るなりスギくんはカウンターの方に向かって手を挙げて、すると店主がカウンターから出てきた。スギくんがジントニックを、私が水割りを頼んで、店主がカウンターに戻ってしまってからスギくんはまた目を糸みたいにして声を潜めた。

「妥協?」
「は? 何が?」
「ロックじゃなくて良かったの?」
「それはもののたとえだよ。私は水割りが飲みたかったの」
「あ、まずは肩慣らし的な……なるほど」
「何を違う方向に察してるんですか。今日はもう結構飲んでるんだから薄めさせてよ」

 そんなことを話しながらナッツをいくつか齧っているうちに頼んだものはやってきて、ちょっとグラスを合わせてから一口飲むと、芳香と共に冷たいアルコールが喉を滑り降り、腹を熱くした。

「あー……、うまっ」

 思わず漏れた声がスギくんのものと重なったものだから、顔を合わせると二人して笑ってしまった。

「この店さ、結構当たりだったんじゃない?」
「だね。私の嗅覚のおかげだね」
「なんだよ、外れだったら俺のせいで、当たりだったら自分のおかげなのかよ」
「そうだよ」
「ひっでえ」

 スギくんはまた楽しそうに目を糸にして、もう一口ジントニックを飲んで、それから頬杖を突いて、しみじみと本当にしみじみと糸の間から私の顔を眺めはじめた。

「いやぁ……、やっぱ伊東いいわ」
「……いいですか?」
「うん、いいね」

 スギくんの糸のような目の隙間から覗く光は、薄暗い中でもちらついていた。それを見ていると高校時代の半分を費やして思い知ってきたことが改めてしみじみとこみあげてくる。卒業から六年。六年だ。それでもやっぱりスギくんは私に同じことを思わせる。今まで一度として口にしたことのないそのことを、口にしてみたくてたまらなかったそのことを、私は今日こそ言ってしまおうと決めていた。人ごみの中、肩を叩いて振り向いた時の笑顔を見たときから決めていた。だって今日みたいにクラス問わず卒業生が一同に会することなんてもうあるかわからないし、その頃にはみんなおじさんおばさんになってそれぞれ結婚してるのがほとんどだろうし。スギくんと二人で飲みに来たのはその為で、後はいつ言うかというだけのことだった。あのさ、なんて照れくさそうな、それでいて期待の籠った声が「今だ」と告げていた。嬉しくって、楽しくって、頬が緩んでしまうけど、スギくんが言おうとしてるその先は可哀想だから遮ってあげる。

「スギくんてさ、いい奴だよね」
「は? ……なにそれ」
「いい奴でいい奴で、いつどこを見てもすんごくいい奴でさ、だから私ずっと――嫌いだったんだよね」

 なんて、なんて、なんて清々しいんだろう! 糸のようだったスギくんの目が元の丸い形に戻ってぱちぱちとまばたきしているところなんて、もう最高だ。胸はうずうずうきうきして、熱くてどうしようもないものが腹の中で踊っている。はあ、とその熱の混じった息を吐いて、水割りをもう一口飲んだって一度口火を切ったものは抑えが利かない。何を言われたんだかわからないって顔をしてるスギくんに、まだまだ教えてあげないと。

「スギくんが気付いてるかどうかは知らないけどね、高校の頃、真希がね、時々スギくんのこと見てたのね。みんなの気が他に逸れてるときとかに、隙を突くみたいにして、もう熱の籠った目をするんだ。あのいっつもにこにこしてる真希が、見たこともないような真剣な顔するんだよ。大人しい子だし誰も気付いてなかったけど、私はあの子といつも一緒にいたから気付いちゃった。だからね、ちょうど仲良くなってたとこだったし、私はスギくんと付き合うことにしたの。そうしたら誰もがいい奴だって認めるスギくんの嫌なところを見つけて、真希に『あの杉山君は本当はこんな奴だった』って教えてあげられると思って。だけど、スギくんってばちっとも嫌なところが見つからないし、真希はちっとも覗き見ることをやめないし、だから別れるわけにもいかなくってさ」

 どんな状況でも私が『嫌だ』と言いさえすれば決してキス以上のことはしてこなかった我慢強いスギくんは、黙って私の早口を聞いていた。私がちょっと乾いてしまった口を水割りで湿している間も、じっと口をつぐんでジントニックの入ったグラスの下にできていく水溜まりを見つめている。可哀想なスギくん、あなたが『いい』と言った私はそんな魂胆であなたと付き合ってました。

「スギくんが地元を離れるってわかって安心して私も出てったのに、まさか今もあんな目をするなんてね。まるであの頃とおんなじだった。真希の視線を追ったら、スギくんのことすぐに見つけられたよ。それまで私と話してたのにさ、ちょっと私が他の子に話しかけられてる隙に熱視線送ってるんだもん。健気というか、なんというか……」

 はんっ、と嘲りの笑いが漏れて、ついでにぐいと水割りを喉に流し込んだ。六年、六年だ。三年の時にクラスが分かれた真希はその間スギくんとは会っていないはずだ。その間いくらでも出会いがあっただろうに、帰省のたびにそんな話がテーブルを挟んだ向こうの方で為されていると信じていたのに、なんで嫌な心配事は無駄に終わってくれないんだ。なんで未だにスギくんなんだ。大人しくって可愛らしい真希。一年で同じクラスになってから二年の夏までは私が無理くり引っ張って行くと真希が困った顔をしながらついてくるというのが日常だった。それでも最後は楽しかったって笑っていた。いつも振り向けば真希の目は私のことしか見ていなかったのに、目が合えばくすぐったそうに笑いかけて来たのに。
 なんでスギくんなんだろう。もっと他の人だったら、きっとあっさり嫌なところを見つけられて、やめておきなよなんて言うのも簡単だったに違いないのに。おかげで私は輝かしいはずの高校時代を半分も犠牲にする羽目になってしまった。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。スギくんには悪いけど、こうして少しくらい憂さ晴らしでもしなくてはやってられない。
 だけどじっと話を聞いていたスギくんは、グラスの下に溜まった水を指で伸ばし始めて、見ればその唇は少し笑っているようだった。

「気付いてたよ、俺。なんか、ついに言われちゃったって感じ。……こんなこと言うと負け惜しみみたいだけど」
「うん、それは負け惜しみ染みてるね」
「ははっ。まあね、伊東が俺のこと好きで付き合ってるわけじゃないっていうのはさ、半信半疑だったし、確かめたくもなかったし、気付かないことにしてたってのはあるんだけど。でも俺だってさ、一年半も傍で、誰よりも近くで伊東のこと見てたんだよ。伊東がどんな時にいい顔するのかとか、ちょっとした時に誰を見てるのかとか、全部見てたんだよ。しかも進学先伝えても全然平気な顔で俺とまったく逆方向のとこ行くって言われりゃあな……」

 スギくんはそこで顔を上げて、苦り切った顔で笑ってみせた。それから椅子の背もたれにぐっと身体を預けて、天井に向けて大きくわざとらしい溜息を吐いた。

「それでも六年経って、少しは違ったりするかなって思ったんだけどなあ……」

 駄目だったな、とこちらを向いたスギくんはまた目を糸にして、それから座り直すとジントニックをぐいと呷った。

「なんかすんごい『いい奴』を連呼されちゃって嫌だからさ、話のついでに言っとくけど、俺ね、伊東が気付いてないことを知ってるんだよ。知っててずっと黙ってた」
「私が気付いてないこと?」
「そ。高校の時さ、まだ付き合い始めたばっかりの頃。俺、植田さんに言われたんだわ」
「真希に? 何を?」
「伊東に少しでも嫌な思いさせたら許さないって。絶対絶対許さないって」
「何それ。美しい友情ってやつ?」
「お前のその言い方……。まあ、いいや。俺もその時はそう思ったよ。けどさ、本当に鬼気迫るっていうか、もうね、目に涙まで浮かべてそんなこと言われてさ、そういうの植田さんのキャラじゃないし、気になるじゃん? で、たまに感じるわけよ」
「何を?」
「視線を。俺に向けられるものだけじゃなくって、隣の伊東に向けられてんのも。俺に対する凄味みたいなのがさ、伊東に対してはまるでないの。ただ物凄く切実で、なのに伊東が気付きそうになると慌てて逸らしちゃうんだ。目は口ほどにものを言うって言葉もあるけど、まさにそんな感じだった。それがずっと、一年半ずっと続いてた。でも俺は絶対そのことを伊東には教えたくなかった」
「何が、言いたいの……?」

 何かを匂わせるようなことを連ねたスギくんは、私の問いなど聞こえないみたいにして小皿から取り上げたピスタチオの殻を割り始めた。スギくんに対してこんなにイライラしたのは初めてだ。「ねえ」と再度催促する声にも棘が混じってしまう。それなのにスギくんときたら殻を剥き終えたピスタチオを呑気に口に放り込んで、ゆっくり噛みしめながら意味ありげに笑ってみせた。

「俺が知ってることはそれだけだよ。俺は今日は植田さんの視線に気付かなかったけど、伊東が気付いたんなら今日もあんなだったのかなとは思う。でも俺がそこからどういう答えを導き出したとしても、それは俺の思い違いかもしれんし。今の話を聞いてどう思うかも、どうするのかも伊東の好きにしたらいい」
「……嫌な奴」
「光栄だね」

 にやりと笑ったスギくんはまた小皿に手を伸ばすと今度は何粒かまとめて手に取った。それを手のひらにころがし、摘みあげては口に放る。そうしながら低めた声で「どういうつもりで見てたかって話だよ」と呟いた。どういうつもりで。頭の中でスギくんの呟きを繰り返し、それから記憶の中の真希の目を想う。いつものにこにこが消えた真希の真剣な顔からは、表情までも失われてしまったようで、何を考え、どういうつもりで見ているのかなんてわからなかった。いつでも一緒にいて、真希のことでわからないことなんてないとすら思っていた私には、それは耐えられなくって、だから一番腑に落ちる答えに結び付けていた。自分に向けられているのは妬みの目に違いなくて、それを知られたくないから逸らしているのだと思っていた。私は真希に妬まれて、疎まれて、それまでの友人関係のしがらみで仕方なく友人のひとりとして付き合っているのだと思っていた。それが違うというのだろうか。わからない。けれどひとつだけわかるのは、真希がスギくんを覗き見るようになったのは、私がスギくんと話すようになってからだということ。

「連絡先知ってるんだろ? メール、してみれば? 答えは植田さんしか知らないよ」
「……」

 黙り込んでいるとスギくんは痺れを切らしたように「ほら」と肩を叩く。それで仕方なくむにゃむにゃと返事のような何かを返して、バッグからスマートフォンを取り出した。でもスマートフォンの画面を前にしても何を打ち込んでいいのかわからない。大して酔ってるつもりもないのに、とくとくと胸ばかりが高鳴って、少しも考えがまとまらない。

「そう考え込まんでも『ちょっと二人で飲まん?』くらいでいいんじゃないの? あとは会ってみてから確かめろよ」
「あ、うん、そうだね」

 それでも考えに考えて震える指で何度も何度もミスタッチを繰り返して、何の飾りもつけられずやっと『今どこにいるの? ちょっと二人で飲めない?』とだけ打ち込んで、えいやとばかりに送信ボタンを押した。それだけのことでもう物凄い疲労感に襲われて、ぐったりとテーブルに突っ伏してしまった。やばい。もっと軽い感じにすれば良かった。『お疲れー』だの『お姉さんどこ住み? いくつ? ちょっと会わない?』だのいくらでもあっただろうに。絶対何事だって思ったよ。ていうか、お前となんて二人で飲めるかって思ってるかも。大体スギくんの言ったことを真に受けてこんなことしちゃったけど、一年半付き合っておいて面と向かって嫌いだったなんて言ったやつに、こんな朗報くれるわけないじゃん。ああ、絶対そう。私はスギくんがいい奴だからって信じ込んで、彼の企みもに気付かずに……。うわあ、なんて馬鹿なことしたんだ。思考はどんどんネガティブに走って行く。するとポンと頭を平たいもので軽く叩かれて、顔を上げるとメニュー表を手にしたスギくんが目を糸にしていた。

「俺、伊東のそんな乙女なとこ見るの初めてだわ」
「……乙女って歳じゃないんですけど」
「そらそうだ」

 いつの間にかグラスを空にしていたスギくんは楽しそうに笑って、手にしたメニュー表を開いていたけど、私は手の中にあるスマートフォンがいつ震えるかばかりを気にしていた。

「なあ、ひとつ聞いていい?」
「何?」
「俺が地元離れるのわかってて、植田は地元に残ることわかってたのに、なんで伊東も地元離れたの?」
「進学はそういうことで決めるものじゃないと思います」
「ああ、そうだね。で?」

 同意しておきながらメニュー表から目を上げたスギくんはこちらを覗き込んでくる。まるで納得してませんって色が糸の隙間からありありと見て取れた。

「……あんた、ほんとさあ。まあいいや。だって真希が好きになる人を毎度いちいち横取りするわけにいかないし、その人がどんなにいい奴だったとしても知らない人だったらいくらでも無責任に罵れるじゃん」

 もうなんだっていいやと思って打ち明けると、スギくんは「俺だっていい奴じゃないのに」と笑って、メニュー表を閉じた。きっともう次に飲むものは決まってしまったに違いないのに、スギくんはカウンターに向かって手を挙げることはしない。私が握ったまま離さないスマートフォンをちらりと見やって、小皿からマカデミアナッツを取り上げていた。
 こういうところ。こういうところが駄目だったんだよ。あの子が好きにならないわけがないと思ってばかりいた。でもスギくんを真希から遠ざけたところで何が変わるわけでもないことは、ずっと前からわかってはいたんだ。だから何かが変わればいいと思って地元から離れたのに、六年経ってもやっぱり何も変わっていない。私も、真希も。スギくんは、変わったのかもしれない。

「あほらし……」
「わかってんじゃん」

 独り言までもきちんと掬い上げて突っ込まれ、うるさいよとやろうとした、その時。手の中のスマートフォンがぶぶぶと震えた。心臓が飛び上がるというのを実感したのは初めてだ。すぐさま目を落とし、届いた文面を開いてみる。ぐっと目を瞑り、覚悟を決めてそこに映し出されたものを読み、ああ、と思った。
『今、三次会でカラオケに来てるけど、そろそろ抜けようかと思ってた。飲もう! 待ち合わせ、交番の向かいのコンビニだったらわかる?』
 まずひとつの不安は拭えた。すぐさま返事を送ってスマートフォンをバッグに放り込むと、財布を探した。

「いいよ、おごるよ」
「でも……!」
「何年も無駄にさせちゃったお詫び。さっさと行けって」

 スギくんはやっぱり目を糸みたいにして、人懐っこい笑みを向けてくる。「ごめん」と立ち上がれば「おう、上手くいったら今度は伊東のおごりな」と返ってくる。

「スギくんって、ほんと、いい奴だよね」
「けなしてんのか?」

 目を糸にしたまま凄むような言い方をするスギくんに手を振って慌ただしく席を立った。カウンターの奥で店主が少し驚いたような顔をしてこちらを見たような気がした。他のお客も何人か振り向いたような気がした。けれども今はそれどころじゃない。店を一歩出ると真希の待つコンビニへ向かう足はだんだん早くなり、いつの間にかヒールを鳴らして駆けていた。夜の街を行き交う人々が何事かと振り返る。息が切れ、どくどく言う心臓が苦しかった。酒の入った状態でこんなこと危ないとわかっているのに、それでも早く早くと足は急く。
 六年間、何も変わっていなかった私たち。まだ何も変わってはいないけれど、どうやって変わるのかもわからないけれど、やっと変われる時が来たのかもしれない。何を話そう、何を詫びよう、どんな顔をして会えばいい? どれもこれもわからないけれど、だけど、絶対に目を見て話そう。夜の街を彩る電飾は次から次へと流れていき、近づいてくる見慣れたコンビニのシンボルはいつになく煌々と輝いて見えた。

 終

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