欲情

「シたいと思ってるから付き合ってんでしょうよ。思わないんなら友達でいいんだから」

 不意に頭に浮かんだのは情緒もへったくれもない、下世話な友人の言葉だった。なんでこんな時にそんなことを思い出してしまうのか。余りに明け透けな台詞を、両手ですくったお湯でじゃぶじゃぶと洗い流す。

 違う。そういうつもりで来たわけじゃない。ただ私は藤本さんがどんなところでどんな風に生活をしているのかとか、藤本さんの周りにはどんな人がいるのかとか、そういうものを見たかっただけなんだ。

 いや、それも違うか。私はただただ、藤本さんに会いたかっただけだ。その姿を、声を、直に感じたかっただけだ。それが目的で、それだけで十分のはずだった。実際、昨日空が白み始めるまでなかなか寝付けなかったのは、彼女と会って話すことを思い浮かべるのに忙しかったからだし、今日も外で二人で遊んでいたときには楽しいばかりだったのだ。それなのに――

 何がいけなかったかと言えば、冷蔵庫に買ってきた物をしまおうとしゃがみこんだ、藤本さんのTシャツの裾から覗いた背中を見てしまったことかもしれない。もっと遡れば、買い物の帰りに品物を分け合って持って歩いているときに「恋人みたいだ」「恋人じゃないの?」なんてやり取りをして、恋人気分を満喫してしまったことかもしれない。とにかく藤本さんの家に上り込んでからの私は、おかしくなってしまった。

 主に藤本さんが準備した夕食を二人で食べている時も、彼女が食事を口に運ぶたびに唇を凝視してしまいそうになるし、彼女が髪を払うたびにちらつく首元にどきりとしてしまうし、果ては立ち上がりかけたときに開いた胸元を覗き込みかけてしまった。おまけに風呂に浸かりながらそれらを反芻している始末。

「どこの思春期男子だよ……」

 ひとりごちて、とぷんと口元までお湯に沈める。ぶくぶくと息を吐いて思考に沈む。

 いっそ本当に思春期男子であったなら、今の私のこの状況もさもありなんというところなのだ。私が恋人のところに泊まりに行くことを白状させられた――相手が女性だとは言わなかった――友人だって、「あんたにそのつもりはなくても、向こうは期待してるんじゃないの? 男なんてそんなもんよ?」と言っていた。でもぎゅうとわだかまる私の下腹部の奥ではきっと子宮が疼いているのだ。女でもこんなもんっていうのはちょっとどうなんだろう。

 全ての事の発端である、「暇なときに誘ってもいいっていうの、こっちにいる時でも有効なの?」なんていうメールだって、藤本さんにしてみたら半ば以上が冗談だったのだろうし、本当に泊まりに来ることになったのはその場のノリだったわけで、まさか私がこんな風に発情するとは夢にも思わなかっただろう。私だってその時には思いもしなかった。

 ――シたいと思ってるから付き合ってんでしょうよ。思わないんなら友達でいいんだから。

 またしても友人の言葉が思い浮かぶ。まったく私の友人らしいといえばらしい言動だとは思う。実に無粋で、品がない。けれどその言葉にも一理ある。あの子のは相手が男性だと思い込んでの発言だったけれど、でも女同士だったら尚更なんじゃないか。これは思春期男子な自分を正当化するとかじゃなく。いや正当化したいのかもしれないけど、それはそれとして。スるとかシないとかは極論だとしても、相手に性欲を抱くから恋人になりたいと思うのじゃないのか。そうじゃなかったら友人の言葉通り、友達で十分なのだ。女同士、手をつなぐくらいなら友達でもできる。眺めているだけなら写真で十分だ。それじゃ足りないから、性欲の籠ったあれこれをしたいから、恋人として付き合う。確かに、そうかもしれない。だからって今日どうこうするというのは性急にすぎるとは思うけれど。そもそも――

 ――藤本さんは、どうなんだろう。

 そこまで考えたところで、いい加減、肺が酸素を欲しがり始めて顔を上げる。そうすると視界のあちこちにちかちかと星が瞬いた。あ、これはまずい、と思っている間にも星の数は増え続け、お湯から顔を出していても息が上手く吸えていないことに気づく。決して目で追うことのできないその星を感じながら、私は自分は本当に馬鹿だと心底思った。

「ゆっくり入ってるなとは思ったけど、まさかのぼせて出てくるとは思わなかった」

 苦笑いを浮かべた藤本さんは――ほら横になってなよ、とタオルを乗せたクッションを差し出した。それを受け取る私は、既に保冷剤を頭に乗せ、水も一杯頂戴している。手は尽くし、少しすれば良くなるだろうことは知れていた。

「お騒がせしてすみません。ちょっと失礼します」

 それでも頭はくらくらと眩んでいたから、言うが早いか体を横たえた。目を開けていることが辛くて瞼を落とす。額に乗せた保冷剤の冷たさが、きんと頭に響いた。

「大丈夫?」
「うん、大丈夫。こうしてればすぐ復活すると思う」
「そう。じゃあ、私、お風呂入ってくるから」

 すぐそばにあった気配が遠のいた気がして薄く目を開ければ、浴室に向かう藤本さんの背中が見えた。結構あっさり行ってしまった。ちょっとそっけないだろうか。いや、そうでもない。あれだけ親身になって色々と処置してくれたじゃないか。でも呆れてはいるだろう。私だって呆れているのだ。だって初めて泊まりに来て、風呂でのぼせてダウンしてるってどうなの? しかもその原因が浴場で欲情してたからってどうなの? だめだ。全然格好がつかない。藤本さんにはこんなみっともない姿なんて見せたくないのに。

 色んな意味で頭を冷やした方がいいのだ、私は。保冷剤の位置を少し変え、瞼を閉じる。息を大きく吸い込み、大きく吐き出す。そうして眩む頭が正常に戻るのを待っていると、不意にふわりと柔らかな何かに包まれた。ハッとして瞼を持ち上げると、ふわふわと肌触りの良い毛布が掛けられていた。

「あ、起きちゃった」

 いつの間にそこにいたのか、横から藤本さんが顔を覗き込んできた。

「え? 私、寝てた?」
「うん、ぐっすり」

 言われて視線を横に走らせれば、いつの間にか保冷剤は額から落ち、私の頭を冷やす役目を放棄していた。体を起こしながら、それを拾い上げると、カチカチに凍っていたものが少し融けて柔らかくなり始めている。その物理的な変化が確かな時間の経過を示している。どうやらまるで気づかないほどあっという間に眠りに落ちたらしかった。

「まだ横になってなくて大丈夫?」
「ん? ああ、うん。もう大丈夫」
「冷たいお茶でも飲む?」
「えーと、うん。お願いします」

 頭はもうくらくらすることはなかったけれど、ぼんやりとしていて、喉がなんとなく乾いていた。要望に応えるべく、藤本さんは席を立って、私はむにむにといじっていた保冷剤をテーブルの上に放って、目をこすった。壁にかかった時計を見れば、まだ寝るには早い時刻で、腰から下を覆っている毛布にお世話になるのは、まだもう少し後にしたいところだった。それでもその毛布と別れるのはなんとなく惜しくて、畳むこともしないで手のひらと甲で交互に撫でた。毛布はとても肌触りが良く、さぞかし気持ちよく眠れるだろうと思えた。そしてなにしろとても良いにおいがした。

 におい――という単語が頭の中で固まる。これは、藤本さんの、におい、か。

「はい、お茶ここに置くね」
「え? あ、はい! ありがとう!」

 顔に近づけかけていた毛布を慌てて引き離して、藤本さんの顔を見てから、やたら元気に答えてしまったことに気づき、後悔した。藤本さんはくすくす笑っているし、復活したみたいで何よりですだなんて言っているしで、決まりが悪い。だめだ。さっきからちっとも格好がつかない。だからよく冷えたお茶で喉を潤し、ついでに目を覚まさせることにした。理性の部分を目覚めさせ、思春期男子を戒める。君はちょっといい加減にしなさい。いいですか。いいですね。

 すると、横から――あ、と声がした。声につられて視線を巡らせれば、腰を下ろしていた藤本さんの右手がすっと私に向かって伸びてくる。

「ここ、ちょっと跳ねちゃってる」

 そう言って私の後頭部あたりの髪をつまんだ。その部分を覗き込んでいる。その顔が、近い。近い? いや、ほんの少しだけさっきより距離が縮まっただけだ。普段なら特別気にするような距離じゃない。それでも息が――詰まる。

「そう?」

 どうにかこうにかそれだけ口に出したものの、さっき引いたばかりの熱がまたしても頭の方へ集まり始め、のぼせていく。それを知ってか知らずか、藤本さんの手は私の髪を何度も撫でて、梳いている。何度も何度も、指に絡ませる。

「乾かさないで寝ちゃってたからね。軽くだけど、寝癖ついちゃったみたい」

 お風呂上がりだからかもしれない。藤本さんの頬はいつもより僅かに濃く色付いている。頬だけじゃない。部屋着用のTシャツから覗いている、首も、鎖骨の浮いた胸元も、僅かに赤い。その色にひ弱な理性が簡単にぐらつく。なんの返事もできないほどに、のぼせて、くらくらする。顔が熱い。喉が渇く。

「でも、まだ生乾きだから、すぐに直りそうかな」

 後頭部では藤本さんの右手が絶えず私の髪を撫で、梳いている。そのたびごとに血は頭に上って行き、より酷くのぼせていく。寝癖の事なんて気にする余裕もない。その代わりにのぼせた頭で、ゆっくりと動くその手に僅かでも力が籠められたら、と夢想した。その手に僅かでも後ろから押されたら。そうしたら私はその僅かな力に従って、目の前の唇に向かっていくことだろう。

「ドライヤー取ってこようか?」

 けれど後頭部にある手に力が籠められることはなく、撫でることも梳くこともやめて、窺うような目がこちらを覗き込んできた。

「後でいい」
「そう?」

 藤本さんの親切を無碍にしているという自覚はあった。けれどこののぼせ上った頭は、目の前の唇に向かおう向かおうと考えることに精一杯で、けれど体は動かなくて、他のことを気にすることなんてできやしなかった。もし未だに後頭部に添えられたままの手に僅かに押されれば、そのまま前に進むことができるのに。けれど、その手は力を籠めることなく、またしても指に髪を絡め始める。

「関口さんの髪、柔らかいね」

 くるくると髪をいじって、藤本さんはその部分を見ている。その頬は上気しているように見えるのに、そのくせなんでもないような声を出す。そのなんでもないような声で、簡単に私の頭に血がのぼるようなことを言う。

「藤本さんはずるいよ」

 髪をいじる手が止まり、不思議そうな目が戻ってくる。

「ずるい?」
「そんな風に平気そうに言った言葉で、私のこといっぱいいっぱいにする。ずるい」
「そんなこと……」

 のぼせすぎて完全にオーバーヒートした。藤本さんが否定の言葉を紡ぎかけているのも無視して身を乗り出すと、口をつぐんだ藤本さんはけれど遠のくことはなかった。すんなりと距離が縮まって、鼻先が触れ合ったところで、息を少し吸って、息を飲む。ぐびり。すると藤本さんの瞼がすぅと閉じて、そうしてそっとそっと柔らかに唇を触れ合わせた。体重を乗せた手の下にある毛布よりもずっとふわふわして、心地良かった。

  触れ合うだけのかすかな接触は余韻を残しながらほどけていく。けれど完全にほどけきらないうちに、背中に回された手に今度は僅かに力が籠められた。私はその小さな力になすすべもなく従う。再度の接触。数度の接触。

 幾度となく繰り返し唇を触れ合わせる。角度を変え、軽く、強く、短く、長く。藤本さんの唇は柔らかく、その柔らかさを色んな方法で感じたかった。二人の間に息がこぼれ、熱が籠っていく。触れるだけでは物足りない。下唇を食み、吸い上げる。柔らかい柔らかい唇をもっともっとと求める。そして唇を舌で撫でたとき、すっと何もかもが遠のいた。

 今舐めていた柔らかな唇も、そこから漏れ出る熱い吐息も、熱の籠っていた瞳も、言い様のない良いにおいも、私が触れていた藤本さんの全てが遠のいて、残されたのは肩口で私を制止する手だけだった。のぼせ上った色情は飛んでいき、代わりに理性が戻ってきた。伏し目がちな藤本さんは濡れた唇を指で拭って、そして静かに私の良心を突き刺した。

「駄目だよ、関口さん」

 肩口に残されていた手も離れ、一気に血の気が失せていく。視線を落として、肌触りの良い毛布を握った。バカなことをした。藤本さんが一つ受け入れてくれたからと言って、のぼせあがりすぎた。

 ――謝ろう。きちんと、ふざけずに。気まずいまま帰るなんてことになるのだけは御免だ。

 でも藤本さんは、私に謝る暇など与えてはくれなかった。顔を上げた私が口を開くよりも早くもう一度、駄目だよ、と繰り返して顔を背けてしまう。そして、

「そういうキスしたら、私に何されるかわからないよ? ていうか、襲うよ? 私だっていっぱいいっぱいなんだから」

 冗談めかしてそう言った。それは確認のようでもあり、警告のようでもあった。とくりとまた血がたぎり始め、けれど確かめるつもりですぐそこにある手に触れた。顔を背けていた藤本さんは、指だけが重なり合っているその様子を見て、そしてその意図を尋ねるように私を見た。その頬は、のぼせたように上気している。

「私は別にそれでも構わないんだけど」

 呟いて藤本さんの反応を待つ。まずはまばたき。次いで視線を落とす。睫毛が二度三度震えて、重ねられていた指が蠢く。指がすっかり絡み合ってから、またこちらを見る。真っ直ぐに隠す気のない熱を放った藤本さんは――じゃあ、と呟いた。

 そこに続く言葉は一向に出て来ず、意図は図りきれず、けれど二人の距離はまたゼロになった。互いに触れて、吸って、舐めて、食んで、なぞって、そして絡め合う。先ほどよりも激しい口づけは、より多くの快感を伴い、二人の継ぎ目からは絶えず水音と、熱い吐息が混ざり合い漏れ出した。

 そうして長い長いむさぼり合いをするうちに、藤本さんの手のひらがTシャツの隙間から忍び入っていた。脇腹を撫でられ、漏れ出そうになった声を我慢するために、舌を引っ込め、顎を引いた。二つの唇が久しぶりに離れて、一旦脇腹に貼りつく手のひらは動きを止める。そして藤本さんは濡れて光った唇で――いい? と問うた。

 その目、唇、声、吐息、そういったものが彼女の情動を知らしめる。

 ――ああ、欲情している。

 あの藤本さんがこんなにわかりやすく欲情している。いつもの藤本さんならいざ知らず、こんな彼女に何をされるかわからないわけがない。まるで手に取るようにわかる。そのことが私を更に欲情させる。私の女の器官全てを疼かせる。

 これまで二人で過ごしてきた中で感じた幸福とはまた異なる種類の幸福。その幸福感を唇に乗せて藤本さんの唇に触れる。脇腹にあった手のひらはゆるゆるとその上を滑り始め、首元に藤本さんが顔をうずめる。そしてその唇が耳に触れる。

「実はお風呂上がりの関口さん見てから、かなり欲情してた。具合悪かったのにそんなこと考えてて、ごめんね」

 熱い息を伴って囁かれた懺悔で、藤本さんの思考が私と大差ないことを知る。それなのになんでもない態度を取り続けていたのかと思うと、可笑しくて、いとおしくて、この恋人を抱きしめずにはいられなかった。やはり私にとっても彼女にとっても、友達の間柄では十分ではないのだ。恋人でなければならないのだ。たとえ会えない時間が長くとも、こんなに楽しくて、いとおしい時間を過ごせる人は他にない。私の恋人はこの人をおいて他にはない。

 二人で横たわった毛布はやはりとても肌触りがよく、さぞかし気持ちよく眠れるだろうと思った。

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