記憶

 放課後、帰宅する生徒でごった返す中、友人達と別れ1人図書室に向かうと、いつもの席に座りノートと参考書を広げる。
 少し離れた窓際の席にいる彼女の姿を視界の端に捉えてから勉強に取り掛かる。
 それが、私の日常だった。
 
 図書室で放課後に残って勉強するようになってから、いつも同じ席に座っていた。それは特に理由があるわけではなく、最初にそこに座ってからの習慣のようなものだ。

 図書室に来ている顔ぶれはいつもばらばらで、来ている目的もまちまちであるようだった。
 私のように勉強しに来る人もいれば、本を読んだり借りるために来ている人、生徒が自由に使える教室で唯一エアコンが効いているということから、ただ涼みに来ているだけの人もい る。

 その中で、1人だけいつも決まって窓際の席に座り、勉強している子がいることには通い始めてすぐに気が付いた。
 制服の胸元。そのリボンの色から、彼女が私と同じ学年だということがわかり、自分以外にも塾に行かず、ここで受験に向けて勉強する人がいたのだと安心したものだ。

   文化祭が終わったばかりのその日、図書室には私と彼女の2人きりだった。
 いつもより静かな室内には、カリカリと私と彼女がペンを走らせる音だけが響いていた。時折、集中が途切れると窓の外を眺め、それと同時に視界に入る彼女の勉強に打ち込む姿に刺激され、また気持ちを入れなおしノートに向かった。

 ふと、彼女のペンの音が途切れたことに気が付くと涼しい風が吹き込んできた。
 その風が入ってきた先を見ると、彼女が窓を開けているところで、私がそちらを振り向いたことに気が付いた彼女と目が合った。

「あ、ごめんなさい。少し暑かったから開けたんだけど、嫌だった?」

 初めて聞いた彼女の声は吹き込んできた風と同じように、涼しげで透き通っていた。

「いえ、気にならないんで別に構いませんよ」

 初めて彼女と交わす会話に私は少し緊張していた。それを誤魔化すためにまたノートに視線を戻そうとすると、彼女から話しかけられた。

「関口さんはいつも1人で来るんですね」

 彼女が私の名前を知っていたことと、私がいつもここに1人で来ていることに気付いていたことに少し驚いた。

「え? ああ、はい。友達はみんな塾に通ってるんで。私の事知ってるんですか?」

 どこかで接点があったとしたら失礼だとは思いつつ疑問をそのまま口にした。すると彼女は苦笑とも取れる微かな笑みを浮かべ、その疑問に答えてくれた。

「ほら、関口さん達目立つから」

 そう言われて、いつも友人達と大声で騒いでいる自分の姿を思い出し、そんなに悪目立ちしていたのかと恥ずかしくなり、乾いた笑いがこぼれた。

「あはは。いつもうるさくてすみません」
「ううん。楽しそうでいいなあと思ってただけだから」
「そう?」
「うん。でも、関口さんって図書室とは無縁の人だとは思ってましたね」

 ストレートな物言いに苦笑が漏れた。結構失礼なことを言われている気もしたが、本当のことだし、何よりさわやかな笑顔で言われると何故か腹が立たないから不思議だ。

「確かに今までは縁遠かったですけど、 受験生だし、家よりもこっちの方が集中できるんで」
「ああ、私もそうです。あ、すみません。邪魔しちゃって」

 私の言葉に恐縮する彼女にかえってこちらが申し訳ない気持ちになり、慌てて訂正した。

「いや、そういう意味で言ったんじゃないから」
「ううん。ごめんね。急に話しかけて」

 そう言って元いた席に戻ろうとする彼女を引き止めた。

「あ、ねえ。名前訊いてもいい?」

 私の質問に彼女は笑顔をこちらに向け答えてくれた。

「ああ、言ってなかったね。藤本です。よろしく、関口さん」

 窓から差し込む、秋口にしては強い日差しがまるで後光でも差しているようで、私はその光景に思わず見蕩れそうになった。


 その日以来、彼女、藤本さんとここで顔を合わせると軽い挨拶程度の会話をするようになった。しかし、基本的に2人とも勉強に集中しているし、図書室という場所柄、そんなに頻繁に話をするわけでもない。藤本さんのことで私が知っていることといえばクラスと名前ぐらいのもので、それ以上の踏み込んだ話をしようとも思わなかった。
 座る場所も話すようになったからと言って近くの席に移ることもない。ここ以外で見かけても、他の友人と一緒にいるときに話しかけることがなんだか憚られて、たまに目が合うと目礼するぐらいという関係だった。
 それでも、私は同じ図書室で自習する者として藤本さんに一方的ではあろうが連帯感のようなものを感じていたし、ここでだけ交わされる会話を楽しみにもしていた。
 ただ、いつもの席で窓際の藤本さんの存在を感じていられれば妙に落ち着き、たまに向けられる笑顔とその声で受験でピリピリしている心が穏やかになるのだ。

 いよいよ受験が差し迫り、3年生は自由登校ということになると、わざわざ学校に出てくる生徒も少なくなってきていた。
 中にはすでに志望校に合格し、卒業式まで来ないという人もいるらしい。
 それでも私は毎日登校し、出席を取った後友人達を教室に残して、決まって1人で図書室に足を運んだ。
 図書室には必ず藤本さんがいて、いつもの席で黙々と勉強している姿が見られた。

 今日も図書室にはすでに藤本さんが来ていて、私がドアを開けた音に振り向いた藤本さんに挨拶をするといつもの席に座った。
 他の学年は授業中ということもあって、この時間にここにいる生徒はいつも疎らではあったが、今日は私と藤本さん以外には誰もいなかった。
 こんなことは初めて話したとき以来だと思いながら勉強に取り掛かった。

 それからどれぐらいの時間が経ったのか、集中を遮るかのように風が吹き込んできた。その冷たさに思わず身震いする。風の吹き込んできた方向に目をやると、彼女が窓に手をやりこちらを見ていた。

「やっぱり窓開けると寒いね」
「当たり前だよ。今、何月だと思ってんの」

 私がそう言うと、藤本さんは自分で開けたくせに寒い寒いと言いながら窓を閉め、その作業を終えると振り返り、こちらを見ている。

「何? どうしたの?」

 一連の行動の意味が分からず尋ねると、藤本さんはそれには答えず、いつもの笑顔を湛えたまま淡々と自分の話を始めた。

「私、明日第1志望の受験なんだよね」
「え?そうなの?頑張ってね」

 突然切り替わった話に頭が付いていかず、ありきたりな励ましの言葉を返してしまう。

「うん、頑張る。関口さんはいつ?」
「私は来週だね」
「そうか。頑張ってね」
「うん。ありがとう。頑張るよ」

 思えば、互いの志望校の話すらしていなかったのだ。
 初めて進路について話が及んで、どこを受けるんだろうと考えていたが藤本さんの言葉で、その思考は遮られた。

「私、たぶん今日でここに来るの最後だと思う」


 その言葉に思わず息が詰まる。
 毎日人の減っていく教室を見て考えなかったわけではない。
 それでも、まだ先のことだと思っていた。
 思おうとしていた。
 しかし、その時はもう目の前まで迫っていた。
 その現実を突きつけられ、言葉が見つからない。

 そんな私に構わず藤本さんは笑顔で続ける。

「そんなに話したりしたわけじゃないけど、関口さんを見てるとこっちも負けてられないって頑張れたよ。ありがとう」

 それは私の台詞だ。
 私はあなたの真剣に勉強に取り組む姿に叱咤され、あなたの笑顔に励まされ、あなたの声に癒され、何よりあなたの存在があったからこそ私はここに通い続けられた。

 だけど、そんなことを本人に面と向かって言えるわけもなく、私はただ、「そっか」と呟いたきり黙りこくってしまった。
 鼻の奥がつんとしてくるのを感じ、それ以上はまるでのどに蓋でもしてしまったかのように声が出せなかった。
 そんな私に藤本さんは少し困ったような笑顔を向けている。

 その時、終業のチャイムが鳴り、それを聞いた藤本さんは机を片付け始め、私はそれをただただ眺めていた。

 片付けを終えると藤本さんはこちらに歩み寄り、相変わらずの笑顔でこう言った。

「私、今日はもう帰るけど、関口さんも入試頑張ってね。関口さんと話せるようになれてよかったよ。ありがとう。」

 そして、去り際に一言、小声でボソッと呟いたのが耳に入った。

「もしかしたら私、関口さんのこと少し好きだったのかも」

 自分の耳を疑った。
 もう一度聞き返そうと振り返ってみたが、すでにそこに藤本さんの姿は無い。
 慌てて出入り口に走り辺りを見回すと、廊下に藤本さんの後ろ姿を見つけ、その背中に叫んだ。

「藤本さん! 私も藤本さんのおかげで頑張れたよ! 話せてよかった! ありがとう! 明日頑張って!」

 さっきまでちっとも出てこなかった声がすんなりと出た。
 私の声に彼女は振り返り、軽く手を振ると小走りで行ってしまった。

 私は誰もいなくなった図書室に戻ると、いつも藤本さんが座っていた席に座った。そしてノートが開きっぱなしで置いてある自分の席を眺めた。

 藤本さんもここでこうしてあの席に座っている私を見ていたことがあったのだろうか。
 私がこの席に座る彼女を見ていたように。

 目の前の机に視線を移し、そっと触れてみた。
 ついさっきまで藤本さんが使っていたはずの机。

 何も無い冷たい机は、そこに毎日座っていた生徒のことなどもう忘れてしまったかのようだ。
 それなら、せめて私はここに座っていた彼女の姿を忘れないでいよう。
 私は目を閉じ、藤本さんの姿を、笑顔を、声を、そして最後に見た横顔に光っていた涙の跡を思い浮かべ、それを一つ一つ、記憶に刻み込んだ。
 それらを見ていたときの自分の気持ちとともに。

 閉じた瞼のはじから涙がこぼれて、それと一緒に記憶が流れていってしまうのが怖かった。

 終
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